「北の国からの室井慎次版」室井慎次 生き続ける者 ソビエト蓮舫さんの映画レビュー(感想・評価)
北の国からの室井慎次版
20年以上続いたドラマや映画の晩年作品は、
かつての『男はつらいよ』や『北の国から』がそうであったように、
あの世へ旅立った者から、この世に残された者達に、
何を「伝え」、どう「伝わった」のかを、丁寧に総括的に描く事が多く、
この作品も、室井慎次という人間を通して、何を伝え、どう伝えたかを、
丁寧に、じっくりと優しく描写した作品だった。
その点は、事件解決が主軸だったこれまでの作品とはだいぶ異なる。
室井が、警察官として、警察組織を束ねる管理官として、
数十年の間に学び、培ってきた「思想」は主として2つ。
1つは「警察官僚と現場刑事が、意思を統一し、正しいと思う信念を存分に発揮し貫ける警察組織を作リ上げ、事件を<解決すること>」。
もう1つは「犯罪によって生まれる、被害者家族や加害者家族、巻き込まれた市民の辛さや苦しさに<寄り添うこと>」。
その2つの、室井が辿り着いた思想は、青島という所轄刑事との出会いが大きな起点となっている。
警察官そして、警察官僚を辞めた室井は、前者についての理想は挫折し、後進に託したが、
肩書を無くし、一人の人間に戻った室井は、後者に大きく活動の軸足を傾け、秋田で生活している。
室井の元に集まる被害者加害者家族としての子供たち、室井の周りで暮らす大人たちに、
その後者の想いは、なかなか上手く伝わらないでいたのが前作「敗れざる者たち」。
今作では、一見すると不器用にも見える室井なりのやり方で、その想いが彼らに徐々に伝わっていく。
室井は、決して多くの言葉は語らない。
管理官時代の室井の仕事ぶりと同様に、その多くは相手の行動や心変わりを「待つこと」であり、あるいは行動を「託すこと」であり、
そして、どのような結果に出ても最後は室井自らが「責任を取ること」であった。警察官を辞めても、それは変わらなかった。
「待つこと」は容易なことではない。
自ら動いて事が片付くなら、口を出して事が進むなら、そうしたほうが遥かに楽である。
しかし、室井はひたすら「待つ」のである。何かを期待して待つというよりも、ただただ温かく見守りながら「待つ」。
これができる大人が、この国にどれほどの数いるのだろう。上司、管理職、親、教師etc,,,
そして、「寄り添う」。
一緒に暮らす子供たちに「寄り添う」。同じ共同体で暮らす大人たちに「寄り添う」。町の商店内で暴れる若者に「寄り添う」。
決してむやみに怒ったり、説教したり、介入したりしない。ただひたすら「寄り添う」。相手の手を無理矢理引っ張って先導することもない。
向こうから救いを求めてくるまではじっと堪え、相手を尊重し「寄り添う」。
これもまた容易な事ではない。
これだけを見ると、室井という人間を生きるのは大変過酷なように見えるが、珍しく酔っぱらった室井本人はそうではないと子供たちに語りかける。
室井にとって、待つことも、寄り添うことも、自分は楽しいのだと。第二の人生を謳歌しているのだと。
さらに、3つめの室井の「思想」として、新たに加えるなら「むやみに人を疑ってはいけない」というものがあった。
これは、警察官という仕事を通じて、警察官を辞め総括した時に出てきた考え。
疑ってかかるのが仕事であった人が、その肩書きを取っ払った際に何が残るのかという段階で、
この考えに行きつくのは、その仕事を全う完全燃焼したゆえの事だろう。
室井が伝えたかった事は、子供たちに伝承され、大人たちにも継承され、不器用ながらも市民らにも最終的には伝わる。
室井のラストについて
室井の最期は、突然意外な形でやってきたが、それまでに狭心症の診断や、火災によるフレンチコートの象徴的な焼失など、
最期の瞬間は近づいてきている予兆はあり、この作品に通じて訴えられていたものは、室井の遺言とその伝承だったので、
生きようが死のうがどちらでもよかっただろう。目に見える死の形でそれがくっきりと印象付けられたと解釈した。
良かった演者
主演男優
○柳葉敏郎
若手俳優
○斎藤潤