聖なるイチジクの種のレビュー・感想・評価
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壊れ行く家族、壊れ行く国家
79年に起きたイラン革命により西洋文化を排除し厳格なイスラム国家となったイランは国民にイスラムの教えを徹底した。その象徴的なものが女性の髪を覆うヒジャブの着用だ。
すべての女性がヒジャブを着用することでイスラム支配が及んでいることを視覚的にアピールできる、すなわちヒジャブは国民すべてがイスラム支配を受け入れていることを内外にアピールできる便利な代物なのだ。だから政府は道徳警察を動員してまでヒジャブ着用を徹底した。その中で起きた不幸な事件、ヒジャブを正しく着用しなかったとして連行された女性が死亡する事件が起きたのだ。
今までも女性たちによるヒジャブ反対デモは小規模ながら起きてきたが、今回ばかりは国を揺るがすほどの大規模デモにまで発展する、不満を抱いていた女性だけではなく経済制裁で苦しむ国民をも巻き込んで。
79年の革命によって誕生した政権は皮肉にもその革命以来の大規模反政府運動に対して強権的に応じる。多くの拘束した市民をろくな審理もせずに見せしめに処刑した。またデモ制圧のために子供を含む多くの死傷者も出した。
あれから現在に至り革新派の大統領が就任しヒジャブ着用は以前ほど厳しく取り締まれることはなくなったが、いまだイランが政教一致の抑圧的神権政治であることに変わりはない。
もはやイランではZ世代を中心にイスラム教離れが進んでいる。留学に訪れた国々では厳格な宗教の教えなどなくてもその国の国民が幸せに暮らしている姿を目の当たりにしてイスラムへの懐疑心が生まれている。また何よりも若い世代は家父長制やら男尊女卑を内容とするコーランに拒否感を抱く。もはや西洋化は止められない、西洋化は自由平等を意味するからだ。イスラムによる強権的支配は長くは続かないだろう。
政府の公職に就くイマンの家庭は典型的なイランの家父長制の家庭だ。敬虔なムスリムである父親のイマン、夫である彼を支える妻は娘たちに父を敬うよう常に言い聞かせる。かつて日本のどこにでも見られた家庭の姿がそこにはあった。日本も戦前からの家父長制の名残が戦後しばらく続いた。
家長であるイマン自身が家父長制のイスラムの教えに縛られていることを象徴するシーンがある。浴室で妻が彼の整髪を行う、綺麗に整えられる彼の髭はムスリムの証でありイマンがイスラムの戒律に縛られていることを暗示している。そしてそれが彼を破滅へと導いていく。
イマンの昇進を機に家庭にも変化が訪れる。イマンは予審判事に昇格したとたん審理もまともに行われていない死刑執行の書類に署名を命じられる。出世と自分の信念とのはざまで苦悩するが、彼が昇格したのがまさに反政府デモが激化した時期であり政府による見せしめの処刑が次から次へとおこなわれた時期でもあった。彼は悩む暇もなく署名を強いられ罪悪感に苛まれるが次第にその感覚は麻痺して行った。
そんな最中、護身用に支給された拳銃が家から消えてしまう。どこかに置き忘れたのかどんなに探しても見つからない。出世どころではない実刑にあたる致命的ミスである。最初でこそ家族を疑うことを嫌った彼だが次第にその疑いの目を家族に向け始める。
彼には少なくとも二度の選択の機会があった。信念を曲げてでも死刑の署名をするかそれとも出世をあきらめるか、家族を信じて拳銃をなくしたことを報告して出世をあきらめるか。
拳銃が見つからずすべてを失うと恐れた彼に対して妻が言う、私たち家族がいるではないかと。このとき彼は家族を選ぶべきだった。しかし彼は出世を選んだ。出世はすなわち政府への服従を意味した。
拳銃を隠し持っていたのは次女だった。もしイマンが家族を選び家族の声に耳を傾けていたらこのようなことにはならなかっただろう。
護身用に渡された拳銃は力による抑圧、国家権力を象徴するものだ。それをイマンはうかつにも家庭に持ち込んでしまった。家庭に国家を持ち帰ってしまったのだ。
反政府デモに対して国家は言葉ではなく力で押さえ込もうとした、多くの市民を虐殺した。これが独裁国家の姿だ。その象徴である拳銃をイマンは家庭内に持ち込んだのだ。次女の行動は国家に対する抗議行動と同視できる。家庭に拳銃はいらない、私たち家族との会話を大切にしてほしいという彼女のサインだった。イマンが家族を思い何よりも家族を優先していたならその次女のサインに気づけたはずだった。しかし彼は家族よりも出世を選んだ、家族との会話よりも国家に従うことを選んだのだ。本来家族を幸せにするための出世の道、目的と手段が逆転していたのだ。
多くの死刑判決に加担したイマンも国家の犠牲者である。彼の篤い信仰心を利用して従わせようという国家体制の下では彼はがんじがらめにされて機密扱いの自分の仕事について娘たちに話すこともできない。自分のつらい立場を理解してもらうこともできないのだ。国家にどっぷり浸かってしまった彼を娘たちは国家と同じだと感じる。そんな父に昔の彼に戻ってほしいという思いから次女は拳銃を隠したとも考えられる。家族間の対話をも奪い家族を崩壊させた国家体制がなんとも罪深い。
家族を信じられなくなったイマンの暴走はもはや止められない。国家が市民を拷問するように彼は家族を監禁し拳銃の在りかを聞き出そうとする。
逃げ出した次女が姉や母を救出し追ってきた父に銃を向ける。暴発した弾丸が父の足元の床を打ち抜き父は生き埋めとなる。
そこは何千年もの歴史を持つイランの古の遺跡だった。古き戒律に縛られた父親が遺跡に埋もれて死に、未来を担うであろう娘たちと母親が生き残った。まさに古き宗教的戒律、家父長制からの解放を象徴する結末だった。
古き宗教的戒律に縛られた家庭は崩壊し女性たちは自由の身となった。古きイスラムの教えに縛り付けられている国民もいずれは解放される時が来るだろう。
聖なるイチジクの種、それは発芽すると根を他の木の根に絡みつかせて締め上げながら成長するという。国が力により国民を押さえつけるという考えに縛られたらその考えは国を覆いつくすだろう。国は独裁国家となりやがては崩壊する。家長がその権威により家族を縛り付けようという考えにとらわれてしまえばいずれ家庭は崩壊するように。
映画づくりの勇気と覚悟
モハマド・ラスロフ監督が母国イランで秘密裏に撮影し、国外脱出後に完成させた作品とのこと。前半のほとんどが屋内シーン、後半は人里離れた荒れ地というのも、そうした事情からなのだろう。
現状のイラン社会に対する親子世代の意識の違いが大きなテーマだが、その間に位置する母親が前半の主役に見える。体制維持のため本意でない使命に苦悩する父親の姿も描いているが、影は薄い。
ヒジャブを発端とした抗議活動の実際の投稿動画と合わせて、姉の友人の顔の傷口から散弾を取り出すシーンは、痛ましく、胸が締め付けられる。銃が紛失して、疑われた母親と姉妹が、父の友人(おそらくこれまで多くの無辜に嘘の証言をさせてきた)の尋問を受けるシーンも、リアルで恐ろしい。
と、ここまでは傑作の雰囲気なのだが、テヘランを離れてからの後半は、トーンが変わって、父親の家族に対する狂気めいた行動が、まるでホラー(シャイニング?)のように描かれる。イランという国家と父親をダブらせる意図は理解できるが、ちょっと醒めてしまった。
監督はイランを脱出できたが、出演者やスタッフは国内に留め置かれて、取り調べを受けたとのこと。体制に異議申し立てする映画づくりが、いかに勇気と覚悟がいるものか、思いを寄せつつ、それは決して他人事ではないとも考える。
マクガフィンとしての拳銃
2024年。モハマド・ラスロフ監督。イランでまじめに宗教裁判所勤務の公務員を務めて来た真面目な男性と妻、その娘二人。男性はようやく調査員に昇進して判事への道も見えてきたが、ちょうどそのころ、イスラム教の女性蔑視に抗議していた若い女性が死亡したことをめぐり、警察の暴行を疑う市民たちの抗議運動が過激化。男性は司法の場で抑圧的な体制に従って働かざるをえなくなり、そのツケが家族の不和へとつながっていき、、、という話。
イスラム教独裁体制であるイランにおいて、もっとも抑圧されているのが女性。この物語では良識的だった男性もまた抑圧側に徐々に魂を売っていく姿が痛々しいが、その被害を家庭内の女性たちがもろにあびていく。後半ではお約束どおり一番若い少女をはじめとした女性たちの反乱がおこっていくのだが。
そこで、拳銃。自宅で拳銃を紛失した男性は出世に響く失態と考え、マッチョな家父長としての「本性」をあらわにしていく。その意味では拳銃は決定的に重要な意味を持つ。しかし、最終的に発射される銃弾は意味をなさないので、拳銃がなくなったこと、または、拳銃を持ち歩いていること自体で画面にみなぎるハラハラドキドキの緊張感のためのアイテムだ。まさにヒッチコックが言うところ「マクガフィン」。
実際の事件を元にしており、抗議運動の様子などはスマホで撮られたらしい実際の映像も多数引用しているようだ。イランの人々に光が指すことを祈りたい。
終盤面白い
序盤から中盤の、お父さんが仕事で悩み、娘は友達がデモ活動して家でかくまい、お母さんが困るなどのドラマがあまり面白くない。拳銃がなくなるのも大変な問題だけど、解けないまま長々と続けられてもきつい。これで3時間近くはきついと思っていたが、テヘランを離れてからが途端に面白くなる。あおり運転とカーチェイスから小屋に行ってからのめちゃくちゃな展開に引き込まれる。
うちも娘がひどいいたずらっ子でスマホやリモコンなど大事なものを隠してこちらが慌てているのを見て大喜びしている。本当にやめて欲しい。
山小屋の周りの洞窟でのサスペンスは田中登監督の『女教師』のクライマックスのようで興奮した。
ただ序盤から中盤は本当にあんまり面白くないので短くしてほしい。
ヒジャブと拳銃の象徴性。
前半のヒジャブデモに伴う、家族に漂う不穏な空気感と、序盤に出てくる拳銃の悲劇が後半への繋ぎとなって一気に終盤に流れ込む展開。
前半はスマホで撮影された凄惨な動画の数々に緊張感ある展開。後半はテヘランからひとけの無い郊外にロケ場所が変わるあたりに諸般の事情が伺える。
イスラム法を下敷きに国や指導者と家長の相似関係を巧みに操りながらラストとデモ動画をセットにしたカタルシス。
気分としては映画2本分観た感じで、シナリオの旨さに感心してしまった。
銃
なんとも苦しい映画
衝撃的な面白さ。再び地獄に向かう世界を想う。
イランの政体は単純な宗教的強権国家ではない。憲法はもちろんあるし直接選挙も実施されている。一応、三権分立も形作られている。ただ最高指導者(現在はハメネイ師)が君臨し、監督者評議会とか公益判別会議とかイスラム法に基づくジャッジメントを執行する機関が三権に常に介入する。
しかしながら世俗勢力と宗教勢力が常に妥協を図りつつ、わずかづつでも世俗化が進んでいくのがイランらしい現実主義ともいうべきものであってアフガニスタンのタリバン政権やサウジアラビアの王権主義とは異なる。
この映画も最近のヒジャブ闘争を下敷きにして(実際の映像もかなり使われている)イラン社会の分断を描く。ヒジャブ闘争では何人もの若い女性が命を落としておりマサ・アミニさんの名前は実際に映画でも取り上げられている。なお、イマンが隣の車線に停まった車中の欧米風身なりの若い女性をじっと眺めるシーンがあるが彼女はやはりヒジャブ闘争で命を落としたニカ・シャカラミさんによく似ている。監督からのメッセージというべきものだろう。
さて、イマンは検事局に勤めていて調査官に昇格した。「判事に昇格する」との翻訳は恐らく間違いであって予審制度があるのだから予審判事を目指しているということなのだろう。公開の裁判を経ることなく死刑まで宣告できる訳で(上訴は一応できるようだが)恨みを買ってもおかしくはない。一方でSNSが爆発的に拡散し、仮想敵を勝手に設定して何の権限もないのに私的制裁を加えようとする動きが世界的にものすごい勢いで増えてきている。(黒沢清の「クラウド」を連想した)
イマンはその対策として役所から銃を持たされるのだがこの銃が家の中で見当たらなくなることによってのっぴきならない立場に追い込まれる。
二重三重の板挟みとなった彼は家族を疑い目的も明確ではない支離滅裂の行動に出る。といったところで後半30分ほどは社会の分断が家族にまで及びまさしく地獄絵図が繰り広げられる。
我々はやはり地獄に向かっている。もはや逃げ道はないのかもしれない。民主主義国家ではこんなことは起こらない、と楽観的に考える愚を改めて考えさせられた。
命がけの作品
監督のモハマド・ラスロフは、本作制作後に禁固8年、むち打ち刑、財産没収の実刑判決を受けて、国外脱出をした。
ひとつの家族を通してイランにおける強権的なイスラム体制と、自由を求めて反発する若者という対立の構図が、ドキュメント映像を交えてとてもリアルに描かれている。
イラン社会の閉塞感がすごい。21世紀になっても未だに神による統治とかやってるの終わってる。500年前の中世かよ。
国民の思考停止振りと、神への依存と服従という脆弱なメンタリティが痛すぎる。ヘジャブかぶらされてる若者が反発するの分かる。一方で、無実の者を死刑台に送る体制側を象徴する父親の苦悩ぶりもちゃんと描かれてる。
政治宗教的な内容なんだけど、映画作品としても良く出来てて、切り裂くような台詞とかヒリヒリするような緊張感とか、エンタメとしても面白い。
前半と後半の急変についてはよくできてるが、最も印象に残ったのは恐ろしい場面かも。
前半については、まあ、こういう系の映画によくあると言えばよくある、イスラムの政府の恐ろしい圧力に怯えてる恐怖、不自由さ、残虐さ、何が起きるか不安に緊張し続ける。
出世してもそんなに気分悪く過ごし、家族関係も悪くなるようなら、そんな仕事!続ける意味ある?!みたい思うがそれ続けることでどんどん病んでいくんだなあ・・・あんまり表情変わらないお父さんだから、内面は相当壊れていってたのか。
お母さんがイスラムらしく、凄い夫をサポートする真面目過ぎる妻で、娘についても頑固一徹かと思いきや、娘たちの言うことも何気に聞いていたり、黙ってサポートしてくれたりするところには表面には出さない(出せない)ものの、その社会の不条理や、何を優先すべきかわかっている強い母で感心した。イスラムの古い考えに縛られているだけなら、彼女のような行動はとれないはず。
押さえつけられていても、着実に、イランの変化は進んでいると思った。
途中の暴動がらみの場面、恐ろしすぎてめちゃくちゃ印象に残った。
散弾銃についてもよく知らなかったし。あんなの今でも警察やら政府が鎮圧用で人に向けてるなんて恐ろしすぎる。
後半、前半あっての流れではあるものの、だいぶ様子が変わってくるが、
前半の感じのままだとよくある映画のひとつになってしまうから、あえて、意外な展開にしたのか(つながりあるから意外ともいえないが)
もしかしたら、後半部分みたいな話も作ってみたくて、二つの感じを連結させたのか?ってくらい、タイプが違うのは、全体的に怖い話なのだが、ちょっと、おもしろ・・・
途中も、普段の自分たちの生活の中では想像できないような世界の話なので、先がどうなるのか怖がりながらも気になり、集中して見れた。
長くてトイレ行きたくなったがw
後半の展開のせいで、結構印象に残る映画になったような。しかしなんでそういう逃げ方するの?とか、娘の活躍がタフで賢過ぎてまるでアクションヒロインもののような感じに。
防寒のために透明フィルム被ってるシーンは、一見そこに放置されていた殺人死体かと思ってぎょっとした。
後で予告編見たが、予告編でよくある、つなぎ方がめちゃくちゃだし、この映画宣伝の説明で、この映画の内容はほとんどわからないので、気になる人は、迷わず見たらいいと思う。
映画の中でも、そんなことあり?ひどすぎる、ってことは写されているが、実際、この映画の関係者の自由が奪われているっていう、ありえないようなことも現実に起きているので、そういうのを知る人がひとりでも増えることは、意味あると思う。
決死の覚悟で作られた映画
アカデミー賞の国際長編映画賞にノミネートされ、日本でも先週から公開され(上映館がかなり少ないが)ジワジワと評判高まってるようなので鑑賞。かなりの長編でしたが前半はイランのちょっと豊かな家庭の情景とスマホ画面で差し込まれる実際のデモや暴動のシーンに引き込まれ、後半は拳銃紛失後の捻れた家族の関係が崩壊に向かうサスペンスに打ちのめされ、衝撃のラストで息が止まってしまいました。
夫のイマンは20年真面目に仕事し判事手前の調査官になり家族にも広い官舎に住まわせる事が出来たが、機械的に死刑を宣告するような仕事に神経をすり減らしてしまい、拳銃がなくなってからは家族の信頼を裏切る行為(友人に尋問させる等)がエスカレートする。妻のナジメは夫の体を心配し立場も尊重し娘たちに厳しくあたるが同時に母として彼女たちを守らなければいけないので葛藤に揺れる。長女レズワンは今起きていることに対し正しい意見が言える新しい考えの女性だ。次女のサナは子供だと思っていたが実は冷静に社会と両親を見ていた。彼女が拳銃を隠した理由は不明だがイマンが家族を疑い卑劣な行為を繰り返す中で自分自身の正義が芽生えてきたのだろう。結果、どうしようもない悲劇となるが、モハマド・ラスロフ監督が伝えたいイランの今の真実なのだと思う。
監督は国家安全保障関連の罪で実刑判決となるも命がけでイランを脱出し遠隔で映画を完成させたとのこと。又室内以外の街や車の中での撮影はロケなど組めないので全て盗み撮りとのこと。映画のスタッフや俳優も撮影終了後は逮捕リスクがあるのでイランから出たがナジメ役の女優は捕まってしまったらしいです(町山智浩氏のコラムより)。
決死の覚悟で作られた映画です。アカデミー賞獲って欲しいです。
脚本が凄い
ドイツ代表作品
第97回アカデミー賞では“ドイツ代表作品”として国際長編映画賞にノミネートされた本作。監督の来歴をWikipediaなどで確認すれば判る通り、大変厳しい状況下でも諦めることなく「表現」し続け、いよいよ祖国を離れドイツへの亡命したニュースなどを聞いていたこともあり、非常に興味深く待っていた作品です。TOHOシネマズシャンテ、サービスデイ10時15分からの回はそこそこの客入り。
2022年にイランで起きたマフサ・アミニさんの不審死が発端となり、その後イラン全土に発展したイラン反政府デモが背景となる本作。作品内でも時より、当時SNS等で発信・拡散された動画を織り込みながらの映像は非常に生々しく、目を覆いたくなるシーンもありますが、作品を観終わればむしろ同国に対する「興味」がより深まること必然です。
良く練られた脚本はドラマ性が高い上に、当時のイランの状況や問題がよく解る内容で、リアリティーを強く感じさせるフィクションに仕上がっています。そして、作品内における女性、特に若い世代のセリフの一つ一つが芯を喰っているからこそ、旧態依然としたままのさばり続ける男性、権力、ひいてはイラン政府に対して「NO」を突きつける強い意志が感じられます。勿論、メッセージ性だけでなく物語りとしても非常に面白く、特に作品の中心となる一家それぞれのパーソナリティと、夫の「職業設定」が絶妙です。そして、夫・妻・娘たちそれぞれの群像劇で動き出すストーリーは、ある「事件」をきっかけに全方向に対して疑心暗鬼。中盤以降は「一体どこへ向かうのかと」とくらくらするほど予測不能な展開はスリル満点で、上映時間167分とやや長めの尺ですが、ダレることなく最後まで目が離せません。
勿論、イスラム教やヘジャーブ(ヒジャブ)のことなど、Wikipediaを斜めに読んだ程度のにわか仕込みで物は言えませんが、抗議デモにおけるスローガン「女性、命、自由」が強く印象に残る一方、どの世界にも共通する「ダメな男達」の存在に改めて、他山の石としなければ思う私は、モハマド・ラスロフ監督と同世代(正確には一つ年上)。。実に素晴らしい作品だと思います。
聖戦
期待していた作品だが、ちょっと散らかった印象。
冒頭、ナジメに銃を見せるイマンの指が引鉄にかかっているのが凄く嫌…
序盤は主人公家族に加え、過熱する抗議運動とそれに対する弾圧の様子が、実際の映像を交えて描かれる。
しかしこれが、あくまで背景にしかなっていない。
家族の誰かが関わることもないし、サダフの件も途中から忘れられるのに、力を入れ過ぎでは。
職務に対するイマンの葛藤もあまり伝わってこない。
中盤を過ぎてようやく銃の紛失が起こる。
家族のために出世や保身を望んでいたかに思えたイマンの、ナジメ曰く“本性”がここから顕在化していく。
その目的は銃からウソへ、そして罪へと移り変わり、行動はエスカレート。
家族へのそれもだが、故郷への道程で出くわす夫婦に対する蛮行はイカレてます。
最も印象的だったのは、ナジメの母性。
家族第一主義でありつつサダフを冷酷に扱いきれないのは、“娘の友達”だからではなく“誰かの娘”だからだろう。
夫への「服従と信仰」を捨て、最後まで“母”であった彼女が主人公では。
銃を盗んだ動機はぼんやり想像できなくもないが、いつ存在を知って、どう盗んだかは不明。
(主題でないのは分かるが…)
最後の鬼ごっこや落下はコメディに見えてしまった。
あそこで終わりというのも半端だし、ここまで長尺にする必要があったかも疑問です。
とはいえ動きのない話で緊張感を途切れさせない演出や演技は見事。
もう少し重心を明確に短く纏まってれば秀作だった。
167分は長い
原題のdāne-ye anjīr-e ma'ābedのうち、anjīr-e ma'ābedとはインドボダイジュのことで、学名または英語ではFicus religiosaまたはsacred fig と言うそうですが、これを「印度菩提樹の種」と訳さず、あえて英単語を単語レベルで翻訳するに留めて、「聖なるイチジク」と訳したのは素晴らしいと思います。「印度菩提樹の種」というタイトルだと、どうしても仏陀が悟りを開くイメージを持ってしまい、父親が狂気をおびるようになる、この物語とは真逆のイメージを持ってしまいますから。また、anjīr-e ma'ābedを単語レベルで直訳したところで「寺院のイチジクの種」となり、あまりキャッチーではない気がします。「聖なるイチジク」とのタイトルは神秘的で実に秀逸です。
なんでもこの印度菩提樹は、他のイチジク属と同様に絞殺しの木になることがあるそうで、本物語も冒頭にその旨のメッセージが流れ、物語が始まります。あたかも鳥によって宿主の樹上に落とされた種子が発芽し、根を伸ばし、宿主の表面を覆い、宿主が枯死し、木の中心部に円筒形の空間を残すかのように、父親に支給された拳銃、あるいはその弾丸が彼あるいは彼の家庭に根を伸ばし、彼が理想としていた伝統的な家庭を失わせしめ、最後には……という物語ですが、まさに絞め殺しの木の物語だと思いました。最後にはご丁寧に穴まであきましたし。
物語に登場する人物は、中流以上の家庭に属する、裕福ではあるがごく普通の人たちばかりでした。そのような家庭の父が最後には狂気に走ることになり、ボタンを掛け違えると誰もがそのようなことになることを痛感します。日本でも、テレビのニュースで重大事件を扱った際に、「あんなことをする人には思わなかったんだけどねぇ」などと近所の人たちが話していることが思い起こされます。劇中で彼や彼の奥さんがイスラム的価値観を大切にする様子や、彼がイスラム体制側の人間として描かれていることから、だから宗教は危険なのだとのイメージを持ちがちですが、彼があのような狂気に走ったのは、上司からの無理な指示に従わされることで次第に心がすり減っていき、貸与された銃が盗まれたことから出世の道を断たれ、収監される恐れを感じたという非常に世俗的なことから狂気に走っています。まさに私たち日本人にも同じように起こりうることだと思います。
物語の冒頭で取調官(字幕では調査官となっていますが、bāzporsは検察官の指示のもとに取り調べや証拠の収集に従事し、必要であれば起訴状を書いたりする役職ですので、取調官のほうが適切な気がします。実際、終盤で彼が娘を取り調べる際にはbāzporsから派生したbāzporsīの語が使われているのですが、字幕でも「尋問」となっています。「調査」ではありません。また職場についても全てのセリフが字幕では「裁判所」となっていますが、dādgāh-e enqelābの時は革命裁判所でよいとして、dādsarāと話している時は常識的に考えて検察庁としてほしかったです)に昇進したイーマーンが、検察官が死刑の求刑を求めている案件で、ろくに記録の検討もしないまま起訴状にサインなどできないと言っていたのに、最後は娘たちに対する尋問をするのですから、その変化に恐怖を覚えます。
母親のナジュメについても自分たちの今の生活を守るために精一杯という姿が伝わってきます。夫のキャリアに傷がつきそうなときは、娘たちを叱り、たしなめる一方で、娘の友達が抗議デモに巻き込まれて顔に散弾を浴びた際には、その散弾を取り除いてやるという母性にあふれた行動にでますが、散弾を取り除いた後は、やはり今後の自分たちの暮らしを考え、娘の友達を家から追い出します。その際には散弾を受けた顔が見えないよう、顔にスカーフをかけて隠すようにしますが、それとて彼女をいたわってのことではなく、近所の人たちに見とがめられ、夫のキャリアに傷がつくのを避けるためだったりします。もっとも、自分も同様の立場に立たされた場合に、はたして人道主義的な行動に出られるかと考えると、ナジュメと同じような行動に出る恐れがあるので、彼女を責める気持ちにはなれません。
イーマーンにしろナジュメにしろ宗教的な価値観を大切にし、自分たちの生活を平穏無事に送るために努力するという、本当にごく普通の人たちで、私たちと異なる別世界の人間などではないと思います。
娘たちについても、抗議デモに好意的なごく普通の、ありふれた若い世代の人たちとして描かれています。マハサー・アミーニーさんがお亡くなりになった際にBBC等の番組を見ていた時に、若い世代の女性たちが頭からスカーフを外して町中を練り歩いたり、スカーフやホメイニーさんの写真の印刷された教科書のページを燃やしたりしている姿を目にし、若い世代の人たちはすごいなあと感じたことが思い出されます。
この世代間のギャップといったものも映画では見事に表現されていました。インターネットの発達でより簡単に外国からの情報にアクセスできるようになった世代からの「なぜイスラムでは~」という問いに、論理的な回答をできない親世代。個人的にはヘジャーブについては、守りたい人は守る、守りたくない人はなしでかまわないという制度になるのが一番だと思いますが、イラン政府にとっては難しいことなのでしょう。
全部で3時間足らずある本作の約3分の2が、物語の舞台設定説明、つまり当時のイランの雰囲気の再現に充てられています。消えた拳銃に関する物語は、実質最後の1時間ほどのみです。恐らくこれは、イラン人ではない私たち外国人が当時のイランの状況をより身近に、具体的に理解できるようにとの配慮なのでしょうが、少々冗長に感じました。もっとも、拳銃が盗まれたことをイーマーンが上司に報告した後の帰宅途中、彼の車の隣に信号で停車した車のステレオからシェルヴィーンのbarāyeが聞こえてきた時には、「あの時期流行ったよね」などとニヤリとさせられましたが。
ドキュメンタリーあるいはzan zendegī āzādī運動(字幕や新聞記事等ではzan zendegī āzādīを「女 命 自由」と訳していますが、zendegī を「命」と訳すのは何とかならないものでしょうか。zendegī というのは、これに「~する」という意味の動詞kardanをつけ加えると「生きる」や「住む」、「暮らす」という意味になる通り、「生きること」を指しているはずです。例えば、lifestyleという英単語は、lifeという単語を含んでいますが、命の形という意味ではなくて、「生き方」や「生活スタイル」という意味ですよね。できれば「女 生きる 自由」などとしてほしかったです。この運動は女が女として自由に生きることを求める運動であって、命を大切にしましょうという運動ではないはずです)に関するラスーロフ監督の政治的な声明や表明ということであれば、評価できるのですが、サスペンスの映画としては正直、少々物足りない気がします。
映画をきちんと見ていない、あるいは理解できていないだけなのかもしれませんが、下の娘が銃を盗んだ動機や方法が分からないまま映画が終わってしまいましたし、また、最後に母と娘たちがイーマーンから逃げようとする際にも車を使って逃げなかったことや、廃墟の中のおっかけっこも、少しコミカルな感じに思えたのが残念です。
最後に登場人物の名前等についてですが、引く音や小さな字を徹底的に避けようとする翻訳者の方の態度が少し気になりました。確かに字幕翻訳の世界では、使える文字数に制限があり、可能な限り引く音等を使いたくないというのもわかりますが、イーマーンをイマン、ナジュメをナジメ、ヘジャーブをヒジャブとされると、その表記が気になって物語に集中できなくなってしまいます。確かに英語至上主義の翻訳者の方からすると、たかがペルシア語風情が英語様に逆らうんじゃない、ビシビシ短くすればばいいんだという判断なのでしょうが、できればもう少し元の言語を尊重してほしいものです。また、監督の名前もラスーロフでなくラスロフと引く音を省くのは失礼極まりないことだと思います。例えば、私たちが日本人として、「タロウ」という名前を「タロ」とされると正直あまり気分の良いことではないのと同様に、ちょっとしたことですが、他の国の人たちの名前に関して、最低限の礼儀を払ってほしいものです。
「女性・命・自由」 2022年のマフサ・アミニの死(ヘジャブの着け...
「女性・命・自由」
2022年のマフサ・アミニの死(ヘジャブの着け方を理由に道徳警察に拘束されて3日後に死亡した事件)をリアルに扱っているので「本物感」が強い。
公式の解説や予告編に「家の中で消えた銃をめぐって家庭内に疑心暗鬼が広がっていく様子をスリリングに描いたサスペンススリラー」とあるが、銃が紛失するのは伏せてた方が緊張感があって良かったような。
でも緊張感はしっかりあって終盤に向けて盛り上がる。
縦長のスマホ映像は本物だろうし、神が頂点の国イランだと私は死刑だろうから想像すると怖い。女性はさらに窮屈だろう。
この映画は、町山智浩さんの解説が参考になる。鑑賞前よりは鑑賞後に見るのが良いかも。"町山智浩 映画『聖なるイチジクの種』『TATAMI』2025.02.11"
娘よりも母親の姿に抑圧の根深さを感じる
この映画の中で、母ナジメはずっと揺れている。
絶対的な家父長制のシステムの中で夫に服従する妻としての自分、娘の身を案じつつ娘の気持ちに寄り添いたいと思っている母親としての自分。その間でずっと揺れ動いている。
娘が自由を欲しがる気持ちを本当は理解しているが、自由を求める代償がいかに大きいものなのか身を持って知っているためにその気持ちに蓋をして、娘たちに旧来の生き方を勧めている。そしてそれは他ならぬ自分に言い聞かせるためでもある。これはある種の諦めであり、徹底した現実主義でもある。
抑圧下でそのシステムに迎合して生きようとするのは自然な防衛反応であり、決して悪いことではない。しかし、そのような人ばかりではいつまで経ってもそのシステムが変わらないのも事実である。
いつかはイチジクの木のように、古いシステムを絞め殺さなければいけない日がやってくる。しかしその代償はほとんどの場合、市民の血である。
イチジクの種が果実を生み出すための犠牲はあまりにも大きい。
現代に生きる、中東の人々の価値観
一昨年「聖地には蜘蛛が巣を張る」というイラン舞台の娼婦連続殺人をモチーフとする映画を見て以来、イスラム社会に興味が尽きないので、今回鑑賞
「蜘蛛が…」で違和感を感じたのは、イスラム社会での女性への圧倒的差別。職場でも家庭でも、女性は男性に従属することを求められる。どんなに能力がある女性であっても、である
そして「聖なる…」でも妻は夫に傅かんばかりに尽くす(途中、親父の身だしなみ&毛染め&シャワーシーンがあったけど、アレいる?)。大学生の長女と、高校生(?)の次女も、家庭では現代っ子らしく親に口ごたえするが、結局母親には逆らわない
ヒジャブをまとった姿は取っつきにくい感じがあるが、家で床に寝転び、喋りながら毛抜きで娘の眉を整える母の姿は何処の国も同じようで微笑ましい
ヒジャブを着用しなかったことで拘置所に連行直後に亡くなった女性(アフサ・アミニさん)に対する抗議デモが頻発し、国中が混乱しつつあるイラン
そんな時、裁判所の予審判事として昇進したイマン。その職務はでっち上げの起訴状を認めるだけの、警察組織の傀儡ともいえる仕事で、それへの不満を隠さない彼は上司には嫌われていて、ようやく認められた昇進であった
裁判所の廊下が画面の端によく映るのだが、引きずられていく収監者、警官に連行される人々、廊下のドアの前にじっと亡霊のように佇む女性(そこで待ってろ!とか言われたのか…?)、裁判所がちょっとしたホラー
裁判所のドアごとに謎の等身大の男性が佇むパネルがズラリと並んでいて、あれ何なの?中東の濃い顔がにこやかに笑っているが、お化け屋敷のよう…
昇進し広い官舎に移れると、妻(ナジメ)は素直に喜びを示すが、夫はこれからもっと意にそまない仕事をせねばならないストレスから逃れられない
反政府組織に狙われることを懸念し、親しい上司に護身用の銃を与えられるが、それを紛失してしまい…というのがメインの筋立て
そこに至るまでが意外と長い。長女(レズワン)が友だちを家に招く、和やかな談笑の居間で娘は密かにスマホで抗議デモをチェック、次女(サナ)学校の制服の注文に行く…日常のシーンが多くて、肝心の銃が出てくるまで1時間はかかったかな?
私達があまり見たことのない中東の人々の普通の生活なので飽きずに見られるが、さすがにちょっと尺長めかなぁ。途中少し眠気が…
銃の紛失が出世の汚点になりかねないので、夫は家族を問い詰め、妻は子ども達の持物を総ざらいさせてまで探す。そこから何故だか、親戚の尋問のプロの男性との面談させられ、それでも銃は出てこない……
作中のデモのシーンは全て本物だそうで、演出ではない民衆の怒りが空気感で伝わる。がんじがらめに縛る神権政治(神のご意思だ、で全て決められる政治体制)への抵抗運動と、アメリカのトランプ政権に象徴されるような大衆的民主主義が、この現代世界にそれぞれ同時に存在していることがまさしく驚異と感じる
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