「デイジー・リドリーはもっといい映画出て欲しい。」時々、私は考える sokenbiteaさんの映画レビュー(感想・評価)
デイジー・リドリーはもっといい映画出て欲しい。
原題は「時々、私は死ぬことを考える」で、邦題のように「死ぬこと」を抜いたらわけわかんなくなっちゃうと思うんだけど。
まあしかし原題のとおり「死ぬこと」が加わったところで、大して意味のあるものになってるとも思いませんでしたが。
主人公は自分の死ぬ場面を時々理由もなく考える癖があるんですが(その想像のシーンは美しくてなかなかのものですが)、、そんなこと考える暇があったら何かもっと他にやることあるんじゃないかなーという気がしました。
猫でも飼えばいいんじゃないの?
とりあえず申し分なく生活はできてるが、なんとなく居心地悪くてもやもやしてる独身女性(独身男性のパターンでもいいけど)が、なんとなく適当に出会いとか周囲に変化があったりとかして、なんとなくこれでいいんだ的なぼんやりした結論に落ち着く話、日本にも時々あるような気がするけど、これは日本に限らずそこそこニーズがあるってことなんでしょうかね。
そんなところに救いはないよ、と言いたいですけどね。
もっと本気でかからないと、灰色のの靄のかかったような毎日は、ずっと灰色のままですよ。
別にそれはそれで、そんなに悪いことでもない。
とりあえず生きていけてんのなら。
それに甘んじるのが嫌で、かといって真剣に何かに向き合うこともせず、なんか適当にふらふら立ち回ってるうちに自分の本当の場所見つかりました、みたいな都合のいい話は自分は嫌いだし、共感できないですね。
この映画の主人公の場合、職場の男性とのあれこれが話のメインになってるんだけど、これがまあ、魅力の乏しい男で。
映画の重要な役回りだったら、もう少し魅力ある人物であって欲しいよ。
ルックスも言動もまるきりイケてるところがなくて、ほんっとどうでもいいキャラクターでした。
こいつが何言おうが何しようが、まるで興味が持てないなーと思いながら見てました。
イケてないのはその男だけではなくて、主人公がなんか職場の人に呼ばれてホームパーティーに行って、即興ストーリーつきのかくれんぼみたいなゲームするんですけど、あれ面白いですかね?
まあ暇つぶしにやる分には文句はないけど、そこに映画のエピソードとして意味を持たせるのは、なんかこう、寒い。
そんな感じのぬるいというか寒いというかどうでもいいというか、そんなことしか起こらないまま、なんとなく主人公がちょっと積極的に周囲と関わり始めたところで終わりになります。
まあこういう映画の結論はこんなもんでしょう。
上にも書いたように、そんなとこに答はないと思うし、あたかも答があるように語る話はインチキくさくて嫌いです。
じゃあ自分がその答の在処を知ってるかと言われると、甚だ自信がないんですけども。
結局もがき方が違うだけで、同じ沼につかってる同類を見てやいのやいの言いたいだけなのかもしれないですが・・・。