「『ドント・ブリーズ』化したエイリアンの世界。旧作への究極愛が炸裂するシリーズ継承作!」エイリアン ロムルス じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
『ドント・ブリーズ』化したエイリアンの世界。旧作への究極愛が炸裂するシリーズ継承作!
ああ、主役の女の子って『プリシラ』でヒロインやってた子だったのか!!
観ていて全然気づいていなかった……。
あれだけ『プリシラ』観たとき、可愛い可愛いって言ってたのにな、俺(笑)。
さすがにこういう恰好して出てたら、偽ロリには見えないのな。
珍しくSF映画を封切りにて視聴。
『エイリアン』は1~3は観ているが、最近の続編ものは面倒くさくなってちゃんと観ていない。もともとミステリーとホラーについては三度の飯より好きなのだが、SFにはほとんど思い入れがないタイプ。『エイリアン』に関しても、「ホラー味が薄れる」ほどに関心も失せていったという感じでしょうか。
なので、『エイリアン』にさして思い入れがあるわけではないし、一連のクロニクルにはまったくもって詳しくない。あくまで知識のないホラーファンが、ホラー寄りの観点で書いている、うっすい感想ということでご容赦ください。
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『エイリアン』シリーズの新作を作ろうと考えたとき、確かに『ドント・ブリーズ』の監督ほどにドンピシャでふさわしい監督も、なかなかいないにちがいない。
そういや、あれも密室空間で、実力が段違いの強大な敵に「狩られる」構造の映画で、逆に『エイリアン』リスペクトの香りのするくらいの作品だった。
まして、「禁足地にわざわざ踏み込んで、起こさなくても良い怪物を起こしてしまう」という、まさに『ドント・ブリーズ』そのまんまの設定。
この人なら「あの独特の感じ」をうまく出してくれるだろうってことで、白羽の矢が立ったんだろうな……と思って鑑賞後パンフを読んでみたら、なんとこの映画、フェデ・アルバレス監督自身がアイディアをリドリー・スコットのところに持ち込んで実現した企画らしい。なるほど、もともと熱狂的な『エイリアン』ファンだった監督が、旧作への最上位の敬意と愛着をもって取り組んだ結果が、この作品ということか。
結果として、『エイリアン:ロムルス』は以下のような映画になった。
●徹底的に旧作(とくに初代)の展開や要素をなぞる、リスペクト度の高い良い意味での模倣作となった。
●前半、ホラー要素ゼロのSF的/社会批判的な状況説明パートがかなりあって、ここはぶっちゃけ長い気がする。
●エイリアンが具体的に跳梁し始めるのは全体の3分の1が過ぎたあたりから。そこからはお化け屋敷ムービーとして愉しめる、娯楽度・アクション度の高い及第点の仕上がり。
●新要素としては、今回の犠牲者が「若者」たちだけという部分が大きい。
●ヤングアダルト的要素を増した分、「子供じみた夢」「幼稚な判断」「反権力」「大人世代との対立」といった、ユースカルチャー的な側面が際立っている。
●もう一点、「黒人」で「ポンコツ」の「白人少女に庇護されている」「アンドロイド」が、ほぼ無双系のヒーローとして君臨するという展開が、いかにも現代のポリコレ要素満載で面白い。アンディの立ち位置は、昔でいえばまさに『ターミネーター2』なのだが、今はその役割を担うのが白人でもマッチョでもない「被差別者」じゃないといけないんだなあ、と。
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登場人物を全員、密航して他の星域に脱出しようとしている若者たちに設定したことで、ジュヴィナイルSF感がいや増しに増しているのは確かだ。
あとは、「若者」を思い切りバカで、状況判断のできない、感情的な未熟者として描くことで、80年代スラッシャー・ホラー的な雰囲気が加味されている点も見逃せない。
要するに、『狩られる犠牲者』たちが、『13日の金曜日』や『エルム街の悪夢』と同様の世代設定なので、「若気の至りでやらないでもいいことをやって」「オジサン世代のSランクモンスターに追いかけまわされる」空気をそのまま『エイリアン』に移築することに成功している。言い換えれば、『エイリアン』の『ドント・ブリーズ』化と言ってもいい。
とくに、中盤のフェイスハガーだらけの毒グモ屋敷みたいな広間を敵中突破するために、気温を体温まであげたうえで、声を出すな、汗をかくな、興奮するなって……本当にまんま『ドント・ブリーズ』じゃあーりませんか(笑)。
その割に、前半戦で極力ホラー味を抑えて、植民惑星の社会問題とか、労働問題とか、人種(アンドロイド)問題とか、バイオ産業の倫理問題とかに踏み込んで、ねちねちと社会派SFっぽいノリで通しているので、後半に『ドント・ブリーズ』っぽい「入っちゃいけない廃屋で冒険とかやったら大変なことになる伝統的な若者虐殺ホラー」が控えていることは、結構うまく隠蔽されている。
とはいえ、僕はかなり前半は退屈だったけど……。
後半に入っての彼らの「判断の間違いっぷり」は清々しいまでで(笑)、とにかく「行ってはいけない方に行き」「入ってはいけないところに入り」「やってはいけないことをやって」取り返しのつかないことになる、の無限ループに突入する。
ここに常に「肉親の情愛」「夢の追求」「仲間どうしの友愛」といった前向きな要素が絡んでくるのが本作のミソで、このあたりは偽ヒーロー映画(ヒーローが判断を間違い続ける映画)の傑作、フランク・タラボンの『ミスト』(07)を思わせる部分もある。
要するに、彼らは若く、理想に燃え、仲間を想い、ヒーローたらんとするがゆえに、逆説的に判断を間違い続けるのだ。
この対極として登場するのが、アンドロイドのアンディである。
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本作においてもアンドロイドは、他のシリーズ諸作品同様に、きわめて重要な役割を果たしている。第一作のアンドロイドは、人のふりをしてクルーに紛れ込み、企業組織に従った活動に従事している悪役じみた設定だったが、その後、シリーズの紆余曲折を経て、今回のアンドロイド「アンディ」はむしろ複層的な役割を担っている。
まずは、「弟キャラ」「ポンコツ」「親父のおふる」「コミックリリーフ」「道化役」の属性を身にまとって登場。ヒロインのレインに庇護される立ち位置で、基本的に役に立たない。
他の連中からは、「無能」「中古」「廃棄前」として扱われ、「黒人型」「貧相」「低身長」の外見を揶揄される。彼は間違いなく「被差別者」であり「いじめられっこ」である。
ところが、中盤で必要に駆られてレインがアンディのモジュールを入れ替えたことで、アンディは大幅のバージョンアップを経験することに。その結果として彼は「リーダー」「ヒーロー」「冷徹」「高性能」「データバンク」「圧倒的身体能力」といった属性を身に着けることになる。
これはある種の「下剋上」であり、主客の逆転現象だ。
「なろう」でいうところの、まさに異世界チート現象である(笑)。
アンディのチート化は、感情と友情に判断を左右される「愚かな若者たち」の対極的存在として、情にほだされないで冷静に状況を分析して行動できる「サイコパス的指導者」像、あるいは「老成した年長者的なリーダー」像をアンディに付与せしめる。
さらには、上半身アンドロイドとの接触によって、「レインに尽くすことが第一義のアンドロイド」から、「企業の意志に従って大義のために行動するアンドロイド」へと動機付けに上書きが発生し、アンディのなかで複雑な何層もの属性が入り乱れて主張し合う状況に。
密室状況下のサヴァイヴァルで、アンディは結局どの属性を「選び取る」ことになるのかが、本作の一つのテーマとなってくるわけだ。
宇宙における、人とAIの対決もしくは協調を描いた作品といえば『2001年宇宙の旅』にとどめを刺すが、パンフ巻末のスペシャル・インタビューで、リドリー・スコットは『エイリアン』のアンドロイドの発想源が、『2001年』のHALであることを明かしている。
人を守るか、船を守るか。人員を優先するか、使命を優先するか。
究極の状況判断が迫られる際に、どうしても人とコンピュータでは、判断が異なって来る。
まさに本作のアンディは、HALの直面していたテーマの後継的存在なのだ。
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もう一点、『エイリアン』らしい特性に関していえば、「生殖・繁殖」の要素と女性との絡みが挙げられるだろう。
エイリアンは、他のレジェンド・モンスターと比べても、性的なほのめかしが濃厚な存在である。まあ、ジェイソンやマイケルに女を殺させたうえにレイプまでさせたら、あまりに安きに流れ過ぎて上映できないって部分もあるだろうが(笑)、伝統的にアメリカの殺人鬼映画に性的な要素は希薄であるように思う。
少なくとも、ヴァンパイアは疑う余地なく性的な存在だが、あれは基本的には個の「誘惑」と「堕落」の物語であって、あまり生殖とは結び付かない気がする。
一方でエイリアンは、本来的に「仲間を増やす」ことが第一義の生命体である。彼らにとって人間は、殺すべき敵であると同時に、何よりも繁殖用の素材として重要だ。その意味でエイリアンには、日本のラノベ『ゴブリンスレイヤー』の「ゴブリン」や、数多の大人向けアニメに登場する「●獣」「触●」みたいなところがある。
フェイスハガーから延びる管は、明らかにディープスロートのメタファーであり、性交のアナロジーとなっている。ゼノモーフの口腔部の形状や、人体を取り込んでいる「巣」の外観にも、性的なほのめかしが容易に見て取れる。
エイリアンは自らの繁殖に際して、相手の男女の性別を問わないが、「そうではない有性生殖による進化」を常に念頭に置いている気配があって、最終的なターゲットとして受胎能力のある女性が狙われる傾向が強い。
だからこそ、『エイリアン』シリーズは、毎回、女性が主人公でなければならなかったといえる。
『エイリアン:ロムルス』でも、すでに妊娠しているケイが、エイリアンの重要なターゲットとされ、いろいろと酷い目に遇いまくったあげくに、例の「黒い液体」のせいで『ローズマリーの赤ちゃん』(68)のような恐ろしい経験をすることになる。一番最期のところにしても、あれってお乳を吸いにきてたんだよね……?
ちなみに、最後に産まれて来る「究極生命体」って、明らかに『進撃の巨人』のビジュアルイメージに影響受けてる気がするけど……ホントのところ、どうなんでしょうか(笑)。
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今回のパンフレットは、徹底的にスタッフトークだけで固めた資料価値の高い内容で、読んでいてとても勉強になった。
「リドリー・スコット監督の『エイリアン』に対するフェデの愛はすさまじいですよ。あれほどまでにほかの監督の映画を愛している映画監督に、僕は出会ったことがありません」(トム・モラン、製作総指揮)
特に興味深かったのは、コンセプトとして本作が『エイリアン』の1と2の間に位置づけられる作品となるから、撮影方法やパペットの技術など、技術的側面まで80年代に「わざわざざ寄せて」撮っていたという話。可能な限りCGを使わず、実写で撮ることにこだわりを持っていたのみならず、衣装に関しても、「80年代に撮影された映画のようにしたい」との要望で、その時期の服をベースに作っていたらしい。
要するに、本作は「1980年代に夢見た未来」を再現するべく作られた映画だということだ。これまでにも、「この話はクロニクルの●作目と●作目の間にあたるエピソード」といった映画はたくさんあった気がするが、ここまでこだわって「作品の時代感」を踏襲しようとしたプロダクション・スタイルは珍しいのではないか。
結果として、それは俳優たちにもいい影響を与えたようだ。
「特に、CGがこれだけ少ないと、演技なんかしなくて済んじゃう部分が多いんですよ。実際にリアルな環境の中で、フェイスハガーがかぶりついてくるんで、そのまま反応すればいいんです。予算が潤沢なモンスター・ムービーでも、テニスボールやグリーン・スクリーンに向かってお芝居をすることが多いなか、あんなにいろんなものを実際に組み立ててもらえて本当に恵まれてました」(ケイト・スピーニー、主演)
本作から漂ってくる「本気度」の高さや、シリーズ作としての違和感の薄さは、こういう監督の異常な情熱とこだわりがあってこそのものだったのか、と改めて感服した次第。