「消費されるということ」ナミビアの砂漠 あんちゃんさんの映画レビュー(感想・評価)
消費されるということ
冒頭、町田のカフェに入ったカナの後ろの席で男たちがノーパンしゃぶしゃぶの話をしている。いつの時代だよって思うけど、これはノーパンしゃぶしゃぶくらいの露出度の女の子が、最近では街なかを歩いているという与太話であって、視線にさらされる、見られることによる消費を示している。
カナと最初、一緒に暮らしていたホンダは優しく、そしてホンダのところを飛び出して同居するハヤシは育ちの良い男である。でも彼等がカナをチヤホヤしてくれるのは結局、カナが若く可愛くスタイルが良いから。つまりカナは消費されているのである。ホンダの部屋もハヤシの部屋も無駄に物が多い。カナはそれらもののひとつ、一種のトロフィーなのかもしれない。
レビューでは男社会に全身で不平を示すヒロインなどとカナを持ち上げる向きもあるが、私はどちらかというと流されやすいヒトという印象を受けた。ただ人間関係のなかで一定の役割つまりは商品価値をつけられ、他人から消費されていくことについて不安感というか何か収まりの悪さを感じる人なのだろう。
タイトルの「ナミビアの砂漠」だが、カナが劇中にスマホでみている映像、そしてエンドロールで映し出されるのは、サバンナの水場の光景である。ここにはオリックスやインパラといった草食動物や、チーターのような肉食獣がいて、いわゆる食物連鎖が形成されている。つまり消費関係がある。ところが画面には出ないがサバンナのすぐ隣にはナミビアの国名の由来となったナミブ砂漠が存在しここには見事なほどなにもない。ナミブは現地語では「隠れ家」あるいは「なにもない」ということを指すらしい。カナが希求する状況というのは人を消費せず、人に消費もされないことであって、それを象徴しているのが「ナミビアの砂漠」であるというのはうがちすぎだろうか?
大量消費社会の中で自分が消費されないでいることは尋常の覚悟ではできない。山中瑶子はカナに仮託して現代人の試練を生々しく描く。
そして、消費されるのは映画も同じ。だから、ほかの作品でもそうだが、垂れ流され消費されるプログラムではなく何かを残したいという山中の強い意志は感じる。でも映画がエターナルであるためには何か時代を通貫する価値を示すことが必要である。残念ながらこの映画は脚本も演出も撮影も全て凡庸。おそらく山中がもっとも期待したのは河合優実という女優の持つ突出した現代性であったのだと思う。そこの評価についてはどうだろう、私はやや不支持なのだけど。
【追記】
キノシネマで映画を観るたびさんざんみせられる木下不動産の賃貸マンション「プレールドゥーク」のCMに出演している女の子が河合優実であることに昨日気付いた。かなり野暮ったい感じだったんだけど。いや女優さんってキャリアを積めば積むほどきれいになるんですね。これからCMの世界でも引っ張りだこになるんだろうな。
こんばんは。
コメント失礼しますm(__)m
あんちゃんさんのレビューを拝読し、作品の理解が深まりました。
とても鋭いご指摘と解説に、同じ作品を観ても、それを捕まえる感性の違いで、ここまで深く関われるのか!と、羨ましくさえ思いました。
コメント欄も勉強になりました。
共感とコメントありがとうございました。
自分も、あのセリフに引っかかっていたので、誰も質問しなかったら手をあげようと思っていたところ、他の人が指名されてしまい、叶いませんでした。ところが、最後に「監督から一言」というタイミングで、監督自らが、「この映画を観た皆さんから、カナの“映画なんて”というセリフの質問をいただくことが多くて…」と話されたのが、私のレビューにあげた言葉です。
監督自身は、他の方の感想にも触れつつ「高校時代から学校帰りに立ち寄って来たこの映画館でこうして話せることが感慨深い」「自分自身は、映画を通して、日常の中で中々スポットが当たらない市井の人々の姿を丁寧に描きたいと思っている」「この映画は、わかりやすい起承転結があるわけではないが、大きなプロットでいうと関係の作り方がとても苦手な女の子が少し希望が持てるくらいに変化していく話」ともおっしゃっていて、映画人としての矜持と映画愛を感じると共に、あのセリフの入れ込みは、若者の映画離れの現状を示しつつ、フィクションとしての主人公があの場面では自然に口から出しそうなセリフということなのだろうと理解しました。キチンとメモをとっていた訳ではないので、全部が正確とは言えませんが、ご容赦ください。
共感&コメントありがとうございます。
アイドル映画と考えると一人のヒロインに荷を背負わせ過ぎですよね~、消費したく、されたくないなら寄生宣言はちょっと首肯けないです。
皆さんのレビューであのカモシカがオリックスと言うのを勉強しました。