「どんな意味を込めて“記録”するのか」シビル・ウォー アメリカ最後の日 つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
どんな意味を込めて“記録”するのか
戦場カメラマンは酷な仕事である。目の前で人が死ぬ。死ぬ様子を撮る。死んだ顔を撮る。殺した人を撮る。殺す時の表情を撮る。淡々と。
人道とはかけ離れた行為を記録する。何のために?
「シビル・ウォー」は近未来のアメリカで内戦が起こった、という状況を戦場カメラマンの目線で描く社会派映画だ。
主人公であるカメラマンのリーは言う。「祖国への警告として写真を撮ってきた」と。紛争地域でのあらゆる悲惨な現実を記録し、それを目にすることで紛争地域とは遠く離れた祖国・アメリカに「軍事介入」や「空爆」などの字面では掴めない恐怖や痛みや苦しみを想像してもらいたかったのだと思う。
だが、リーの思惑は外れ、アメリカが紛争地域となった。その虚無感はいかほどだっただろうか。
自分の命も危険に晒しながら、切り取り続けたおぞましい光景は何の役にも立たず、目の前で消えていった命が彼女に託したものは、彼女の祖国に届かなかったのである。
ベテランのリーと対比になるのが、戦場カメラマンを夢見るジェシーだ。最初は近づき過ぎて怪我をし、給油所ではカメラの存在も忘れるド素人のジェシーだが、徐々に慣れてきたところで一行は最大のピンチを迎える。
内戦に乗じて差別的な根拠による殺戮を行っていたと思われる連中に襲われ、間一髪で危機を逃れるがジェシーと同様にリーと同行していたサミーが銃弾を受けて亡くなる。サミーはリーの師である。
ここがターニングポイントとなって、リーとジェシーの行動が変わる。
ジェシーは奇跡的に生き残った経験から肝が据わってガンガン前に出るようになる。序盤、リーが銃撃戦の間隙を縫って写真を撮りまくっていた時のように。もう同行する記者・ジョエルのガイドも必要ない。誰よりも近くで、誰よりも早く、この場で起きていることを全て、撮り続けることだけに集中しているようだった。
一方で、師を失い自分が写真を撮る最後の意味を失ったリーはほとんどシャッターを切れずに、圧倒的な暴力の嵐の中をついて行くのがやっと、の状態になっていた。“記録”したい、という目的と覚悟が消え去って、惰性でカメラを構えるだけだ。
そんな状態のリーが、写真の事しか考えずに飛び出たジェシーを庇ったのは、“記録”よりも残したいものとして“未来”を、つまり若いジェシーを選択したからだと思う。
ジェシーがこの先戦場カメラマンとして、どんな意味を込めてシャッターを切るのかはわからない。金や名声や、或いはジョエルのようにスリルと高揚を求めて戦場へ出ていくのかもしれない。
だが、リーが成そうとして成し得なかった「祖国への警告」を別の形でジェシーが届ける未来だってあるはずだ。
映画の中でジェシーが撮ったモノクロの写真には、いつもリーやジョエルやサミーが一緒に写りこんでいた。ジェシーの世界にはいつも支えてくれる先輩がいる、という証左である。
だがエンドロールの写真にジョエルはいない。ジェシーが独り立ちしたからと考えるのか、それとも「大統領の死と兵士たち」という写真は祖国に何の意味も与えられないのか。ジェシーが写真を撮る目的が明確になるまでそれは分からないかもしれないが、せめてリーが望んでいたような美しい未来につながればいいと思う。
【蛇足】
戦争映画へのオマージュ的なシーンも含め、世界中で起こった様々な戦争、戦争にまつわる出来事が近未来のアメリカという一つの国で起こるところが面白い。
嘘まみれの大本営発表、混乱に乗じた殺戮、差別主義者の台頭、物資の不足、貨幣価値の暴落。
そして、そんな状態なのに「我関せず、が一番良いかなって」という態度の市民がいたりする。
産油地域や聖地の近くや東側国家で起こっているんじゃない。違う国民が争ってるわけでも、宗教対立でもない。同じ国の人間が殺し合う中で、正義と悪を単純に決められないから、アメリカ国民は震えるのだ。いつもはアメリカが正義でそれ以外は悪、という二元論で良いからね。
映画そのものが、リーと同じ「祖国への警鐘」という目的で作られていて、それが伝わらないんじゃないか?(映画の中では内戦が起きてしまっているので)という皮肉も含めて、本当によく出来ていると思う。
最後の「大統領の死と兵士たち」の写真に、薄ら寒いものを感じたのは私だけだろうか。人間の死体を前に笑顔で写真を撮れるほど、勝利って良いものだろうか。
どこかの大統領は「勝つまでやれば負けない」が信条のようだが、勝てば何しても良いわけじゃないはずだ。「勝てば官軍」の考えで進んで行く世界の未来が、美しい未来だとは思えなかった。