「申し訳ないですが、自分はダメな映画でした」シビル・ウォー アメリカ最後の日 komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
申し訳ないですが、自分はダメな映画でした
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
結論から言うと、今作は自分にはダメな映画でした。
鑑賞前はアメリカの分断社会の現実の中で、遂に内戦状態に陥り、双方の戦闘が主張と共に繰り広げられる内容を期待していましたが、ほぼ全くそういう内容ではありませんでした。
今作のストーリーは簡単に言うと、著名な女性報道カメラマンのリー・スミス(キルステン・ダンストさん)らと、彼女に憧れている女性報道カメラマンの卵であるジェシー・カレン(ケイリー・スピーニーさん)との4人が、権威主義的な大統領(ニック・オファーマンさん)にインタビューを試みる為に、内戦の中、ニューヨークからワシントンD.C.のホワイトハウスへ向かうロードムービーです。
すると、著名女性カメラマンのリー・スミスのカメラマンとしてのポリシーが映画の初めの方で伝えられます。
リー・スミスは女性カメラマンの卵のジェシー・カレンと共に、道中のガソリンスタンドの裏で武装した男に吊るされて半死になった2人に遭遇します。
しかし、リー・スミスは特に感情を動かすこともなく、武装した男を吊るされた2人の真ん中に立たせて、報道写真を撮影します。
リー・スミスは、暴行されて吊るされた2人を救うことなく、カメラマンの仕事は記録に徹することだとジェシー・カレンにその後の車中で伝え教えます。
私は(映画の1観客としても)、この報道カメラマンとしてのリー・スミスの報道ポリシーは(それがリアルだとしても)受け入れることは出来ません。
なぜなら人命を超えて報道が優先される考え方に、私は反対で同意出来かねるからです。
そんな私のような感想はさて置かれ、女性カメラマンの卵のジェシー・カレンはリー・スミスの報道ポリシーを受け入れて、例えば戦場であればジュネーブ条約違反の国際法違反である、人質を処刑する場面の報道撮影を心を動かすことなく遂行して行きます。
物語は進んで、4人の内の1人のジョエル(ワグネル・モウラさん)の報道仲間の車と遭遇し、走行している互いの車の窓を伝って移動遊びをしたりしている内に、1台だけがはぐれて、いわゆる権威主義的なアメリカを信奉しそれ以外の人間はアメリカ人とは認めず虐殺を続けている集団にジェシー・カレンらが捕らえられます。
リー・スミスやジョエル達は、捕らえられたジェシー・カレンらを助けに行くのですが、結局はジョエルの友人の香港出身のジャーナリストやその同僚が、純粋のアメリカ人でないということで権威主義的なアメリカ信奉の人間に殺害されます。
この場面は、もちろん現在の極右思想の持ち主が差別的に排外的に振舞っている帰結が大量虐殺であることを現わしていて、個人的にもその短絡思想の延長線上の殺戮に対し、激しく嫌悪する場面でした。
ところでその後、4人の内の1人のベテランジャーナリストのサミー(スティーブン・マッキンリー・ヘンダーソンさん)が、機転で車を権威主義的なアメリカ信奉者にぶつけて倒し、銃殺された2人以外の、リー・スミスとジェシー・カレンとジョエルの3人を救い出すことに成功します。
しかし、サミーもその救出の過程で凶弾に倒れ命を落とします。
そしてその後、リー・スミスとジェシー・カレンとジョエルの3人は、テキサス州とカリフォルニア州の同盟からなる「西部勢力」の陣地に合流し、その部隊に従軍することで、ついにワシントンD.C.のホワイトハウスの大統領に迫ります。
しかし、大統領に会う直前にリー・スミスはホワイトハウス内で凶弾に倒れ、3人の内、大統領に到達出来たのはジェシー・カレンとジョエルだけでした。
そして大統領は命乞いだけをして、「西部勢力」の兵士に殺害されて映画は終了します。
で、さてこの映画はいったい何を伝えたかったのでしょうか?
そして、この映画が伝えている内容の趣旨に対して、私は全く同意出来ないなと思われました。
おそらくこの映画で言いたかったことは、戦場あるいは無秩序な空間での報道カメラマンは感情を殺して記録することが出来るぐらいしかない、事だったと思われます。
では、その事でその先に一体何を伝えたかったのでしょうか?
感情を殺して記録に徹することで人間性が壊れていくリー・スミスを通して、このような非人道的な戦闘や戦争を起こしてはならない、だったのでしょうか?
その割には、ホワイトハウスに乗り込んで、大統領の周囲の人間や大統領の条件を伝えていた報道官などを簡単に「西部勢力」の兵士は殺害し、命乞いをする大統領も簡単に殺害し、ジョエルも大統領の殺害を喜んでいたと思われます。
この「西部勢力」による大統領や周辺に対する一方的な殺害は、道中の差別的で権威主義的なアメリカ信奉者による香港出身の人間などを一方的に敵とみなしていた殺害と、何か違いはあったのでしょうか?
それぞれの自身の陣営の思考を正当化し、相手に対する殺戮を正当化している時点で、他者を抹消したい欲動の帰結の点では(コインの裏表の)全く同じ思想だと思われます。
感情を殺して記録に徹することで人間性が壊れていくリー・スミスを通して、とてもこの悲惨な戦場や戦闘における殺害を、この映画は否定しているとは思えませんでした。
この映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』で描かれていたのは、(権威主義的な思想の信奉者であろうが、それに対峙する「西部勢力」の人間であろうが)敵とみなしたものに対する容赦のない殺害であり、一方の側の殺戮に加担するか、あるいは、それを否定することなく感情を破壊して記録する報道機関の姿でした。
私は、他者への想像力を抹消し他者の存在を消滅させようとする思想には(それが右派的であろうと左派的であろうと)組することは出来ません。
そして、それを記録する事を感情を消すことで可能にし、相手の蛮行に対して異議申し立てをしなくて良いとする報道機関の考えに同意することも出来ません。
報道機関の人間が感情を殺している事を1人になった時に苦悩されても、目の前に存在する他者に対して想像力を辞めたことで起こっている問題の責任から、免れることなど出来ないだろうと、映画を観ていて思われました。
であるので、徹頭徹尾、この映画が提示している考えに合わず、申し訳ないですが僭越ながら個人的にはダメな映画だったと思われました。