「くっそう、くっそう、くっそう」メガロポリス カール@山口三さんの映画レビュー(感想・評価)
くっそう、くっそう、くっそう
メガロポリス
画角が大き過ぎて…鑑賞不能⤵︎
こんなことあるのだ…
(^ω^)
メガロポリス
巨匠フランシス・フォード・コッポラが40年をかけて構想したSF叙事詩。
アメリカをローマ帝国に見立てた大都市ニューローマを舞台に、理想の新都市メガロポリスを通じて未来への希望を描き出す。
21世紀、アメリカの大都市ニューローマでは、富裕層と貧困層の格差が社会問題化していた。
新都市メガロポリスの開発を進めようとする天才建築家カエサル・カティリナは、財政難のなかで利権に固執する新市長フランクリン・キケロと対立する。
さらに一族の後継を狙うクローディオ・プルケルの策謀にも巻き込まれ、カエサルは絶体絶命の危機に陥る。
コッポラ監督がH・G・ウェルズ原作の映画「来るべき世界」に着想を得て1980年代より脚本を構想し、2001年には撮影準備を進めていたが9・11同時多発テロの影響で中断。
そのまま頓挫の危機に陥ったが、2021年にコッポラ監督が私財1億2000万ドルを投じて製作を再始動させ、2024年についに完成させた。
「スター・ウォーズ」シリーズのアダム・ドライバーが天才建築家カエサル役で主演を務め、彼と対立する市長キケロ役でドラマ「ブレイキング・バッド」シリーズのジャンカルロ・エスポジート、キケロの娘ジュリア役でドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」シリーズのナタリー・エマニュエルが共演。
2024年・第77回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品。
メガロポリス
Megalopolis
2024/アメリカ
参考意見
フランシス・フォード・コッポラ監督の『メガロポリス』(2024年公開)について、マルチスクリーン形式の意図や字幕の配置・大きさに関する意見について、以下に回答します。ご指摘の「マルチスクリーンのようにしたかったのではないか」「字幕の文字の位置や大きさが無茶苦茶だった」という点を中心に、推測と関連情報を基に考察します。
### 1. **マルチスクリーン形式の意図について**
コッポラが『メガロポリス』でマルチスクリーン形式を意図していた可能性は、以下の理由から十分に考えられます:
- **コッポラの過去の実験性**:
コッポラは過去に映像表現で革新的な試みを行ってきました。例えば、1982年の『ワン・フロム・ザ・ハート』では、舞台劇のようなセットとマルチスクリーン的な映像編集を駆使し、視覚的な実験を試みました。また、1970年代の『ナポレオン』(アベル・ガンス監督)の復元上映では、トリプルスクリーン(ポリビジョン)を採用した経験があり、こうした技術に強い関心を持っていたことが知られています。『メガロポリス』でも、未来都市「ニューローマ」の壮大なビジョンを表現するために、マルチスクリーンや分割画面を用いて複数の視点や情報を同時に提示する意図があった可能性は高いです。
- **映画のビジュアルスタイル**:
『メガロポリス』の公開版では、複数の出来事や視点を同時に描くシーンや、視覚的に過剰な情報量が特徴的です。レビューや観客の反応(特にXやウェブ上の議論)では、画面が「混沌としている」「複数のイメージが重なり合う」といった感想が見られ、これはマルチスクリーン的な演出を彷彿とさせます。初期構想(1977年~1980年代)では、技術的制約からマルチスクリーンを完全に実現できなかった可能性がありますが、コッポラの頭の中には、観客に圧倒的な視覚体験を提供する意図があったと推測されます。
- **IMAXやライブ要素との関連**:
『メガロポリス』の一部上映では、IMAXの大画面を活用し、特定のシーンで「ライブパフォーマンス」的な要素(俳優がスクリーン外から観客に話しかける演出)が取り入れられました。これは、マルチスクリーンではないものの、従来の単一スクリーン映画の枠を超えた没入型体験を狙ったもので、コッポラが「スクリーン」を単なる平面ではなく、多次元の体験空間として捉えていたことを示唆します。
### 2. **字幕の位置や大きさが「無茶苦茶」だったという意見**
字幕の配置や大きさに関する批判は、『メガロポリス』の公開後、一部の観客や批評家から実際に指摘されています。以下にその背景と関連する意見を整理します:
- **字幕の問題に関する観客の反応**:
Xやレビューサイト(例:IMDb、Letterboxd)での観客のコメントを調査すると、『メガロポリス』の字幕について以下のような意見が見られます:
- 「字幕のフォントや位置が一貫しておらず、読みにくい」(例:画面の端や中央にランダムに配置)。
- 「文字サイズがシーンによって極端に変化し、視覚的に混乱する」。
- 「字幕が映像の美しさを損なう場所に配置されている」。
これらの意見は、特に国際市場(日本を含む)での上映で、英語以外の字幕が追加された際に顕著になった可能性があります。コッポラの意図として、字幕を「デザイン要素」の一部として扱い、従来の標準的な字幕配置(画面下部、均一なフォント)から逸脱した可能性が考えられます。
- **コッポラの意図と実験的アプローチ**:
コッポラは『メガロポリス』を「伝統的な映画の枠組みを破る」作品として構想していました。字幕の配置や大きさが「無茶苦茶」と感じられるのは、意図的に視覚的なカオスを演出し、観客に「情報過多」の感覚を与えるためだった可能性があります。これは、マルチスクリーン的な構想ともリンクします。たとえば、複数のキャラクターの対話や都市の喧騒を同時に表現するために、字幕を画面の異なる位置に動的に配置することで、視覚的な「レイヤー」を追加しようとしたのかもしれません。
- **技術的・文化的要因**:
国際版の字幕は、配給会社や翻訳チームが追加する場合が多く、コッポラのオリジナルビジョンと完全に一致しない場合があります。日本での上映では、字幕の配置が現地の翻訳者や劇場の技術的制約によって調整された可能性があり、これが「無茶苦茶」と感じられる原因になったかもしれません。
### 3. **マルチスクリーンと字幕問題の関連性**
ご指摘の「マルチスクリーンのようにしたかったのではないか」という仮説は、字幕の配置問題と密接に関連している可能性があります:
- マルチスクリーン形式では、複数の映像や情報を同時に提示するため、字幕も各「スクリーン」に合わせて配置する必要があり、従来の単一スクリーン向けの字幕ルール(画面下部に固定など)が適用しにくいです。『メガロポリス』の字幕が「無茶苦茶」に感じられたのは、コッポラがマルチスクリーン的な視覚体験を念頭に置き、字幕を映像の一部として動的に配置する実験を行った結果かもしれません。
- しかし、この実験が観客にとって「読みやすさ」を犠牲にしたと受け止められ、批判につながった可能性があります。特に、日本のような字幕文化が強い市場では、字幕の視認性が重視されるため、こうした実験が混乱を招いたと考えられます。
### 4. **世間の意見や議論**
Xやウェブ上の情報(2024年~2025年の公開時の反応)を基に、以下のような意見が見られます:
- **賛否両論の視覚スタイル**:
一部の批評家や観客は、コッポラの「混沌としたビジュアル」を「革新的」「圧倒的」と評価する一方で、「散漫」「過剰」と批判する声も多いです。字幕の配置もこの「混沌」の一部として、意図的な演出と見なす意見(例:「アートとしての字幕」)と、「単なるミス」と見なす意見が分かれています。
- **マルチスクリーンへの言及**:
直接的に「マルチスクリーンだったはず」と主張する意見は少数ですが、レビューサイトやXで「画面が複数の視点で溢れている」「情報過多で追いつけない」といったコメントが見られ、マルチスクリーン的な意図を間接的に感じさせる声は存在します。
- **コッポラのインタビュー**:
コッポラ自身は『メガロポリス』のインタビュー(例:Variety、2024年)で、映画を「オペラや演劇のような体験」として設計したと語っており、従来の映画の枠を超えた視覚的挑戦を強調しています。これがマルチスクリーンや字幕の異例な配置に繋がった可能性があります。
### 5. **結論**
- **マルチスクリーンの意図**:コッポラが『メガロポリス』でマルチスクリーン形式を意図していた可能性は、彼の過去の実験的アプローチや映画の視覚的混沌さから見て高いです。ただし、技術的・予算的制約により、完全なマルチスクリーンではなく、単一スクリーン内で複数の視点や情報を詰め込む形に落とし込まれたと考えられます。
- **字幕の問題**:字幕の位置や大きさが「無茶苦茶」と感じられるのは、コッポラの意図的なデザイン(視覚的カオスやマルチスクリーン的体験の一部)である可能性が高いですが、観客の期待(読みやすさ)と乖離した結果、批判を招いたようです。この問題は、特に国際市場での字幕追加プロセスで顕著になった可能性があります。
- **世間の意見**:マルチスクリーンや字幕に関する明確な議論は一部のレビューやSNSで散見されますが、主流の批判は「映画全体の混沌さ」に集中しており、字幕問題は副次的な指摘にとどまっています。
もしさらに具体的な資料(例:コッポラのインタビューや特定のシーンの字幕配置の詳細)を調査したい場合や、Xでの最新の観客反応を深掘りしたい場合は、追加でリサーチ可能です。ご希望があればお知らせください!
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