劇場公開日 2025年2月28日

「上方落語の味わいが江戸落語の湿っぽさに取って代わられる瞬間」ANORA アノーラ いたりきたりさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0上方落語の味わいが江戸落語の湿っぽさに取って代わられる瞬間

2025年3月5日
PCから投稿
鑑賞方法:試写会、映画館

本年度アカデミー賞で作品賞、監督賞など5冠に輝いた『ANORA アノーラ』。ここで過去のショーン・ベイカー監督作を振り返っておくと、大抵セックスワーカーが主人公として登場する。多くの場合、彼/彼女たちはうだつが上がらず、社会の底辺で貧困にあえぎながら場当たり的に暮らしている。そしてかなり自己チューで口約束は平気で破ったりする一方、ロクデナシに入れ込み関係を断てないでいる。ときにはケチな悪事に手を染めたり、深く考えもせずヤバい橋を渡ったりもする。

自分の周囲にこんな人たちがいたら相当迷惑だろう(笑)。だが「善とか悪とか単純に割り切れない、それこそが人間なんだ」といわんばかりに生きざまの多様性を認め、そのいい加減さも含めて丸ごと「人間味」として肯定するのが、ベイカー監督の一貫した姿勢であり、こちらの心に深く刺さってくる点でもある。
最新作でもその根っこの部分は変わらない。さらにテクニカルな面でも、直近2作と同じく個性的な手ブレ描写も交えたフィルム撮影を敢行して、アート系インディペンデント映画の肌触りを保っている。

そのかたわら、過去作とはちょっと様子が異なるのが、人物設定とラストのオチだ。話の大筋自体はこれまでの変奏曲ともいえるのだが、今回いくつかの「新たな試み」が取り入れられているように思える。
それは、まず第一に主人公を若いながらもプロのセックスワーカーとしてそこそこ稼げている設定にしたこと。第二に、結婚相手のロクデナシ男を何一つ不自由ない御曹司という設定にしたこと。第三に、ラストでほろりとさせるような二段オチを設けて余情たっぷりに描いてみせたこと。この3つだ。
これらの狙いは、うがった見方をすれば、マイナー映画を脱してより広範な大衆性を獲得すること、とも言えそうだ。事実、本作は日本でも若い女性から圧倒的支持を得ているようにみえる。

この3つの「新たな試み」についてもう少し詳しくみていきたい。まず一つ目の「ある程度稼ぎのある主人公という設定にしたこと」について、本作は主人公のアノーラを「賢くて抜け目なく、したたかに生きるプロフェッショナル」として描いている。その様をオープニングから一気に見せつけられ、ストリップには高度なテクニックやスキルに加えて適性と忍耐力が必須なんだと否応なしに納得させられる。

このアノーラに扮したマイキー・マディソンは、小松菜奈を崩したような顔立ちというか、一度見たら忘れがたいファニーフェイスだ。その宮本信子みたいな容貌に妙に惹きつけられる。これがエマ・ストーンだったら美形すぎてダメだろう(…と引合いに出したが、実はエマ・ストーンもじっくり眺めると「典型的な美形」というわけでもない)。

そのマディソンが体現する「自立した女性の生きざま」には清々しさや小気味好さすら覚えるほどだが、一方でこれは諸刃の剣でもある。自らのカラダを武器に稼ぎまくるアノーラは「客とは恋愛しない、お金にならない恋など願い下げ」といわんばかりのタフな人間だからだ。そんな彼女が、ベイカー監督の過去作の女性キャラと同様、ロクデナシに夢中になるとは思えない。キモチの半分は財産目当てだとしても、アルメニア人のボンボンにまんまと騙されるだろうか。

ここでの監督の演出は一つの見どころとなる。本作で「新たな試み」の二つ目として挙げた「大金持ちの御曹司が結婚相手という設定にしたこと」にもつながるのだが、カネこそ全てと信じるバカ息子を、一歩間違えれば庶民感覚を逆なでしかねない「王子様/クソキャラ」として描かず、いつもの監督作に出てくるような「人間味溢れる憎めないキャラ」として描いてみせたのだ。

バカ息子は、極端な過保護のせいでこんな聞き分けのないお子ちゃまみたいな成人に育ってしまったのだろう。それでもツルツルに磨かれた大理石の床を無邪気に滑ったり、でんぐり返しでベッドイン(!)する仕草などはハッとするほどチャーミング。アノーラの心を武装解除させるのも無理ないと思えるほどだ(※この「無心のでんぐり返し」は、ロベール・ブレッソン監督の『白夜』で主人公が突然でんぐり返しをするシーンに迫る秀逸さだと思う)。

ただし……このあほぼんと主人公がママゴトみたいに体を重ねた末に結婚に至るまでの前半は少々長すぎて、さすがにダレてしまった。も少しチャッチャと要領よく描けなかったものか。

ここで、あほぼんから周囲の登場人物に目をやると、表向きアルメニア正教会司祭だが実は地元の“世話役”も、その手下で一見コワモテな二人組も、ひいては新興財閥オリガルヒのバカ親たちでさえも、各人愛すべきキャラとして分け隔てなく、監督の温かい視線が注がれていることが分かる。カネはあってもどこかトンチキな連中全員が、アノーラ一人にきりきり舞いさせられる様子は、観ていて思わずにやにやしてしまう。

では、本作における「新たな試み」の三つ目に挙げた「ラストシーンの思わずほろりとさせるような二段オチ」についてはうまくいっているか。ここで言う「二段オチ」とは、イゴールが差し出す“アレ”とそれに対するアノーラの一連の“リアクション”のことを指すが、ここは人によって感じ方が分かれるのではないか。個人的には最初のオチのところで止めておいた方が良かったように思う。

ライムスター宇多丸さんは本作について、ショーン・ベイカーが落語の「長屋もの」みたいな話を撮る名手であり、今回は「芝浜」のような人情系落語になっている、とコメントしている(※「アフター6ジャンクション2『ANORA アノーラ』コラボ試写会トークショー」での発言より)。ナルホドと得心しつつ、この宇多丸さんの見立てをもう一歩押し進めると、一番最後のアノーラの“リアクション”によって、それまでの「上方落語のからりとした味わい」が流れてしまい「江戸落語の湿っぽい人情噺」に取って代わった、と言えないだろうか。
江戸落語と違って、上方落語には「三枚起請」「らくだ」「算段の平兵衛」のように、善悪抜きで人間の小狡さや欲深さ、愚かさ、したたかさなどを乾いた笑いとともに味わう噺が幾つもある。その意味で本作全体はまさしく「上方落語」的なのだが、したたかに再起せんとするアノーラの予兆で話を終わらせず、彼女が脆さ弱さを覗かせるという「情」で落としたあたりがきわめて「江戸落語」的なのだ。

「おしつけがましい情てなもん、わてらの最もかなわんもんでっさかい」と言ったのは、たしか故・桂枝雀だったか。胸アツになる、湿っぽくなるのは観客に任せて、作品自体は最後の最後までクールに突っ張り抜いてほしかったな、と思ったのだった。

以上、宇多丸さんほか登壇「アフター6ジャンクション2」トークショー付きコラボ試写会にて鑑賞。

追記その1:
下世話な話で大変申し訳ないが、ショーン・ベイカー監督作品お約束の(?)ゲロッパ・シーンが今回も登場する。『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』『レッド・ロケット』…と回を重ねるごとに量も増し増し(不適切発言ごめんなさい)。ここまできたら、ゲロッパ映画(?)の最高峰『スタンド・バイ・ミー』(ブルーベリーパイが…いや、重ねての不適切発言ごめん)に追いつけ追い越せ、と人知れず応援する今日この頃デス(ホントごめん!)。

追記その2:
この映画と似通った落語をあえて選ぶなら、上方落語の「たちぎれ線香」が挙げられるだろう。大金持ちの若旦那と芸者の悲恋もので、上方落語が限りなく江戸の人情噺に近づいた一席だが、それでも最後のオチは金銭がらみでキッチリ落とす。「あらゆる落語の中で屈指の大ネタ」と称される名作だ。

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いたりきたり