「嫌われないための善良は努力。傲慢さは時に人を素顔に導く。」傲慢と善良 あおねるさんの映画レビュー(感想・評価)
嫌われないための善良は努力。傲慢さは時に人を素顔に導く。
藤ヶ谷さんと奈緒さんの距離感がとても自然。
お二人の写真がたくさん登場した冒頭のシーンは、お芝居としてではなく本当の恋人同士の写真のようで微笑ましかったです。
ただライトな作品ではないことを理解していたので、微笑ましいのは束の間でしたね。
架といる時の真実は間違いなく幸せそうだった。だとすればなぜ真実は姿を消したのか。
その後足取りを掴むべく架は奮闘するわけですが......。
架が真実の両親に会いに行ったシーンは、「この両親、世間体ばかり気にして自分達が信頼しているものは絶対に正しい。自分達が信頼していないものは真っ向から反対」みたいな雰囲気。
過去に真実にお見合い相手を2人紹介したという小野里、当時のお見合い相手など、周囲の人物から話を聞けば聞くほど、最初こそ「そんなはずない」と思っていた架にとっても、真実自身が自分の意思で架の元を去ったと思わざるを得ない状態に。
同時に自分が知らない真実の様子が周囲から語られることによって、自分が共に過ごした真実と、自分が知らない真実との間で剥離していく。
傲慢と善良。これは全ての人間に当てはまるのかもしれません。
人は見た目が100パーセントなんて言葉もありましたが、実際に視覚が占める割合は9割以上といわれており、相手の印象はほぼ外見で決まるとも。
それは美人とかイケメンとか顔だけではなく、穏やかそう、怖そう、といった性格的要素も含みます。
人間というのは外見と少しの会話から得た僅かな情報から自分や相手に点数を付けてしまう。
「僕なんて」「私なんて」と思う人でさえ、自分の価値は高いと思っているから自分と人生を共にする相手に妥協はできない。
「あの子いい子なのになんで結婚できないんだろうね」「明るいし話すの上手いし好きになってくれる人たくさんいそうなのに」と周りが言う人が結婚できないのは、自分を卑下する割には知らず知らずのうちに高望みしてしまっている「傲慢さ」がある。真実はそれに加え、親には従順になってしまう「善良さ」も持ち合わせている。
架自身も、小野里の話を聞くうちに、友人に真実とどのぐらい結婚したい気持ちがあるかと聞かれ「70%ぐらい」と答えていたことで、彼女に点数を付けていたことに気付かされ、自分の「傲慢さ」を知る。
それが架を取り巻く人物達によって真実に伝わっていたことも知り、自分を正当化しようとする様は滑稽でした。
真実が出ていった原因が自分にあるとは微塵も思っていなかった。だから真実の消息を辿るべく駆けずり回っていたのに。
その滑稽さが際立つ藤ヶ谷さんのお芝居が素晴らしいと感じました。
真実もあの家庭環境で育ったことで「本当の愛」を知らずに育った人物なんですよね。毒親の元で従順に育った一人の女性で、ただ本当に愛してくれる人と出会いたかっただけなのに。
真実はそんな親から重圧を受けて育ったから、早く架にプロポーズしてほしい焦りからストーカーなんて嘘をついてしまったけど、初めて一緒に居たいと心から思った相手が自分に70点なんて点数を付けていたと聞かされたら悲しみに押しつぶされますよね。
時間が経ち「あの頃の私は」と真実は自分を客観的に振り返り、架の上っ面しか見ていなかった自分を「傲慢」だと言い放ちます。
奈緒さんの繊細なお芝居により真実の抱える苦しみが伝わり、凄いなと感服させられました。
架と真実は再会して、架は真実に「やり直せないか」と提案しますが、しかし真実はやり直す気はないことを態度で示します。
その後真実がよしのに「今の若い子達って自分が恋愛してるかどうか人に言われなきゃ分からないんだ?カッコ悪くなっちゃうのは、それだけ必死だったってことじゃない」と言われたことで、再会した時の架がどれだけ必死だったのか思い出します。
架が自分が未熟だったことを痛感し真実に別れのメールを送ったことで、真実も架への気持ちに気付かされ、架に思いを伝えに行きます。
正直真実はボランティア活動をしていた高橋と一緒になる展開なのかなと思っていたんです。
しかし架も真実も互いの「傲慢さ」を認められたことで、見栄を張らず素顔を曝け出すことができ、共に生きていく結末を迎えられたんだと思います。
「傲慢と善良」というタイトルからは想像もしなかった奥深い愛の物語。素晴らしい映画でした。
