「親になるとは“どういう自分”であり、“どういう関係”を築いていくか、ということ」SCRAPPER スクラッパー sakuraさんの映画レビュー(感想・評価)
親になるとは“どういう自分”であり、“どういう関係”を築いていくか、ということ
母親はその身体に子を宿して十月十日を過ごす一方で、父親は実際に生まれてみないと自覚を持てない。
という話は、妊娠中や産後の女性たちの間でいつの時代にもされがちだけれど、ある種の信仰だと思っている。
そうとでも思わないと、十月十日しんどい身体で過ごし、内臓を負傷しながら出産し、何一つ思い通りにならない未知の生き物との生活をやっていけない母親の。
そして、そうと思うことで親になりきれない自分への言い訳にしたい父親の。
日々、身体の中で大きくなる命に愛着が芽生えないかと言ったらそうではないけれど、でもだからといって、周りの友達が遊んでいるのを横目に自分だけが自由を制限されることへの不満、社会との断絶への閉塞感や不安なんかを抱かずに、「親業」に邁進できるわけではない。
産む女も、産まない男も、我が子と向き合って子育てをする中で「親」になっていく。
親になるって、ミルクをあげるとかオムツ替えをするとか以上に、どういう自分で在り、どういう関係を築いていくかだなあということを思わされる作品だった。
本作においてはジェイソンに対して、これだから逃げられていいよなぁ男はよぉ責任を持てないなら(以下略)、という気持ちももちろんなくはないけれど、
すでに12歳になった娘+異性親というのもかなりハードモードだなと思うので、まあまあまあ大目に見たい。
現実社会では許さないし、女だけを吊し上げるこの国のキモさは糾弾し続けるけれど。
だれしも『フロリダ・プロジェクト』を思い浮かべるであろう色彩や空気感、『aftersun』を彷彿とさせる二人の微妙な距離感の変動。
これらの作品で描かれる「不完全な親」を見ていると、自分がいつ一歩踏み外してこちらになるかわからないと思う主観、と同時にそれは自分の中にステレオタイプな「親たるものかくあるべき」像が強くある証拠なのではというメタ視点に囚われる。
本作のちょっと酔いそうになるほどの手持ちカメラのショットは、同じく不完全な親と社会問題を描いた『きっと地上には満天の星』も思い出した。
先日『あんのこと』でも思ったけれど、この社会の過ちや不完全さで真っ先に打撃を喰らうのはいつだってどこの国だって弱者だ。
そんなことを思うか思わないかのところで、希望に向かって幕を閉じる本作。84分という近年にしてはだいぶコンパクトな尺。
長すぎることも不足することもなく、mvを100本以上も撮ってきた監督の実力と、ともすればもっと暗いテンションになりかねないお話を極めてポップに描くその手腕は長編一作目とはとても思えない。
とりあえず『aftersun』が好きだった人には迷わず進めたい一作。
わたしはファーストカットの壁で、『哀れなるものたち』が見たくなってしまったので、Disney+に行ってきます((^-^))