「×尺が足りない ◯尺を無駄遣いした末路」コードギアス 奪還のロゼ 最終幕 からすまたろうさんの映画レビュー(感想・評価)
×尺が足りない ◯尺を無駄遣いした末路
特攻・神風する描写がアニメにおいて批判の的になり疑問視されて久しい今の時代にこうも特攻・自爆戦術を肯定的に描く作品が現れるのは、時代性や政治性を抜きにしても浅慮だと感じざるを得ない。
というより、単純に脚本家、監督の引き出しが乏しいのでは?
作中において他者の尊厳を踏みにじるギアスとの対比として自らの意思で自爆を行うさまを描いているのは分からないでもないが、それを毎章繰り返されると感動ではなく呆れ混じりの嘲笑を生むことになると理解したほうがいい。
そのうえで、戦術的にそれらを利用せずにどうにかする描写が尺の都合からできなかった、などという噴飯物のフォローもいかがなものかと思う。
そもそもTVアニメとして放送、または配信前提の作りのため毎回OPEDを差し込むわけだが、当然映画の枠で見るとOPEDだけで毎回9分近くの時間を浪費する形となる。そこへ殺人掃除機などと揶揄されているロキによる執拗な虐殺シーンを含めれば下手したら12分は費やしていることになるかもしれない。
その尺の半分でも用いれば戦術要素をまともに描くことは可能だろうし、キャラクターの掘り下げだってできたはずである。
そもそもこの作品は本編である反逆・映画三部作や復活のオマージュ要素が無駄に多く、それを連想させるキャラクターも多数配置されている。二次創作ならハイハイ、で済む話だがこれは公式外伝なのだから自身を持ってキャラクターを作ればいいものを、本編モドキのキャラを脇に配置されたのではオマージュやリスペクトと言うよりパロディのようですらある。それだって積み重ねが生きれば悪くはないのだが、現実にはそうならない。
またサクラとサクヤの関係性からの物語の顛末に関しては非常に理解しがたいものがある。一幕から描かれてきた積み重ねをいわばリセットしてうわべだけ取り繕ったような気持ち悪さすら見える。入れ替わりネタをここまで不味く表現した作品は正直記憶にないかもしれない。制作陣は逆張りがよほど好きなのか、同じネタを取り扱う作品に一度も目を通したことがないのか、どちらかだろう。バンダイ傘下にはそういうネタを扱う作品もあるのだが。
サクヤとアッシュに関しては、ネタバレ有りとは言え触れないでおく。個人的にはあの展開は「展開」ありきで到底納得できるものではなく、ノーランドがプライド高いだのエナジーが尽きると二機分の重さじゃ減速できないだとか急に生えてきた設定には呆れてしまったが、それはそれとしてあの終わり方自体を否定するほどではない。サクヤとアッシュのキャラクターは個人的には好きだったから残念という気持ちもある。
ただ一言、もったいない流れだしこれでもしもの未来を作ったらなんとも茶番だな、と。
また、当然ながら本作は本編後数年内の物語であるため本編に登場した様々な有能キャラクターも当然登場する。それらを活躍させろとは言わないし、活躍させすぎても本末転倒であるというのはよく分かる。
が、活躍させない・できないからには相応の理由を用意しなければ、お話の都合で今まで出しませんでした、というのが嫌と言うほど伝わってきてしまう。これはシトゥンペの壁の設定がいかに浅く、雑なのかが原因だろう。
紅蓮特式は広範囲・長射程に輻射波動を放つことが可能であり、シトゥンペの壁は触れさえしなければ即エナジーが切れたりすることもない。水中には効果が及ばず、仮に北海道内でも飛行が難しくなるだけでKMFは問題なく稼働できるしエナジーウィングのような高効率であればこちらも稼働できる。それ、紅蓮特式で問題解決しない? という疑問が最後まで拭えなかった。
これがたとえば他でも紛争が起きているとか、ネオブリタニアの工作でかつてのKMFが破壊されていたとか、そして軍縮でワンオフ機を生産するのが難しいとか、それっぽい理屈が述べられているならまだ納得できなくはないが、そういった説明はなかった。
またホッカイドウで現在進行系で虐殺が行われている内情を把握しているにもかかわらずゼロとナナリーが他をのんきに見て回っているのも理解し難い。
べつにホッカイドウ占領は発生から一ヶ月の出来事とかではなく、年単位の時間が経過しているのにである。彼らにとっての平和とは鳥かごの中で鳥が虐殺されていても自分等には関係ないからね、と後回しにできるような代物なのだろうか。そして鳥かごの中から自分たちに害のあるものが出てきてようやく平和を壊したな、などと憤るのだろうか。だとすれば大層な平和だと思う。無論、占領がなくとも世界中では飢餓や暴動、殺人などは起きているしそれらすべてに胸を痛めろとは言わないが、少なくともネオブリタニアの蜂起は彼らにとって決して他人事ではないはずである。ナナリーもゼロも大人になって面倒事や厄介事から目を閉ざすことを身に着けたのだとしたら、それは人間的な成長と呼べるかもしれない。悲しい成長ではあるものの、現実的な成長だろう。
そして問題のルルーシュ、改めL.L.に関しては、とくに触れない。私はもともと人間だったものが超人的な存在になった、社会から逸脱した存在になったという理由で社会に干渉しなくなる、それこそ神様目線のキャラクターが非常に嫌いである。
L.L.もC.C.も見事その境地に至ったし、気まぐれで引っ掻き回して後は何もしないのも実に神話に出てくる神様のようで素晴らしいと思う。制作陣はこの二人を人々から嫌われる魔女・魔神として描いたのだろうし、その試みは見事成功した。以後どのような後付や言い訳がなされようとそれは制作陣が日和ったと解釈する。
改めて。さようなら、人間だったルルーシュ・ランペルージ。くたばれ魔神L.L.。