「次の時代に引き継がれたパッションとスピリット」がんばっていきまっしょい あんちゃんさんの映画レビュー(感想・評価)
次の時代に引き継がれたパッションとスピリット
少し整理すると原作小説の発刊は1996年。実写映画は1998年公開で、TVドラマは2005年の放映となる。ただそもそも原作小説の舞台となった時代は1976年。もはや50年近く前のことなのである。映画やドラマではまだしも時代を回顧しようとする感覚はあったと思う。でも本作ではもはやそのような気遣いは失われた。主人公たちはスマホで連絡をとりあい茶髪やロングヘアが普通な全く今どきの高校生である。
競技からして原作とは異なる。他の方のレビューに「エイト?」というつぶやきがあった。何のことか作品を観るまでは分からなかったが、漕手がそれぞれ2本づつオールを持っている。計8本。これは舵手付きクォドルプルという競技。原作は漕手が1本づつオールを持ち、進行方向に向かってバウ、二番、三番、整調と名付けられた順に並び、左右両舷から2本づつオールが出る。計4本。コックス付きナックル・フォーと呼ばれた競技である。艇は木製でありクルー以外にも乗船が可能なくらい大きく、ともかく重くて女性クルーだけで持ち運ぶのは困難であった。
時代が違うのである。そして主人公たちも、悦ネエ、ヒメ、リー、ダッコ、イモッチとニックネームこそ同じながら、名前も背景も皆、原作とは異なる。悦子でさえ原作をよく読むと映画とは違う性格であることがわかる。(もし映画の製作者が同じ性格にしたつもりならばそれは読み違い。悦子はもっと強い娘である。)
だから新しい時代の「がんばっていきまっしょい」をつくろうとしたのだろうと解釈する。実写、アニメの違いは関係ない。これはボート競技に取り組む高校生たちのパッションとスピリットの話であり、時代が変わろうが、競技の内容が変わろうが、「一艇ありて一人なし」の精神で受け継がれていくものだ。
その上で苦言を。既存の作品にこだわる必要はないが、無意識に自動的に前をなぞるのはやめて欲しかった。例えば最初の大会でリーが体調を崩し漕げなくなるところ。これは生理痛のためで原作や映画では言及されている。何も説明せず設定を垂れ流すのは思考停止といわれてもしょうがない。一方で主人公たちが伊予弁を一切しゃべらないのはいかがなものか。(転入生という設定になったリーは別)そもそも「がんばっていきまっしょい」というタイトルともそぐわないし、さんざん引用される松山の風物、海や山に対しても失礼である。それと伊予弁を取り入れたほうがチャーミングな作品になったと思うのだが。