ルート29のレビュー・感想・評価
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人生の時計
生きること死んでいること、生と死をトンボとハルを通して描く。
非常に分かり難い、見る人を選ぶ映画。
だが、映画が持っている世界観、テーマは面白く、映像も素晴らしい。特に、山でのシーンの新緑の生命を感じる映し方は綺麗だ。
本編は、トンボとハルが母親に会うために旅に出る。
旅路で出会う人々は生きているのか、死んでいるのか分からない、不気味な雰囲気を醸し出す。
山で暮らす親子の腕時計が止まっている描写や、お姉さんとのエピソードでは、言葉で生きているのに死んでいるようと感じる話が展開される。
事件発覚後、トンボとハルが立ち寄った喫茶店では、写真で神経衰弱をしている老人がいるが、『生きてる』『死んでる』と話している、そして、トンボに映像が移るにつれて『生きている』と話す。行方不明になったハルを探す描写ではトンボ以外の人が止まってみえる。トンボの時計が動き出したように。
そして、母親との再会へ。『私は死んでいます』と話し背中を向ける母親に、ホイッスルを鳴らし『死んでてもいいからまた会おうな』と伝えるハル。
ハルはトンボに時計店で譲り受けていた、腕時計を手渡す。人生の時間が止まらないように。
警察で自首して、連行されるトンボ。その後ろ姿は母親と同じ面影がみえる。
ラストの魚は、トンボの心の砂漠の中に、ハルが、魚が、潤いをもたらしていく…。そんな希望的な展開だったと信じたい。
独特な世界観の映画
予告で気になって鑑賞!
他者と必要以上のコミュニケーションをとることをしないのり子は、鳥取の町で清掃員として働いている。
ある日、仕事で訪れた病院で、入院患者の理映子から「姫路にいる私の娘をここに連れてきてほしい」と頼まれた彼女は、その依頼を受け入れ、単身で姫路へと向かう。
理映子から渡された写真を頼りに、のり子が見つけることができたハルは、林の中で秘密基地を作って遊ぶような風変わりな女の子だった。
初対面ののり子の顔を見て、「トンボ」というあだ名をつけるハル。
2匹の犬を連れた赤い服の女、天地が逆さまにひっくり返った車の中に座っていたじいじ、「人間社会から逃れるために旅をしている」と語る親子、久しぶりに会った姉など、さまざまな人たちと出会いながら、姫路から鳥取まで一本道の国道29号線を進んでいく2人の旅が始まった──。
というのがあらすじ!
U-NEXTでエピソード0を観て鑑賞しました
独特な世界観の映画で個人的にはなんかよくわからない映画でした笑
登場人物はどの人たちもとても個性的な人たちばかりでしたね!
特におじいちゃんは謎すぎた…笑
カヌーの場面は明らかに三途の川って思いました笑
もうあの会ったときに車がひっくり返ってましたしその場面ですでに亡くなってと勝手に思ってます…笑
不可解な出来事の連続で現実と幻想がよくわからなくなりますね🤔
周りの人たちも歩き方がおかしかったりしたし…
不思議な映画でした
もう一度観たら何か違う感想が出てきそうな気がする…
機会があれば是非もう一度観たいと思います!
ありがとうございました😊
この映画のスタイルの意味とは?
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
基本的に今作を興味深く面白く観ました。
ところで今作は、まずイメージされた決められた画面配置や立ち位置があって、そこに人物や動きがはめ込まれる、特徴があったと思われます。
例えば、主人公・中井のり子(綾瀬はるかさん)が働く清掃会社の従業員は、ほとんど板付きの立ったままの構図でカットが始まります。
その立ち位置は、(清掃員のそれそれの動きの過程でそこにいるというよりも)あらかじめ演出側で指定した構図に沿った立ち位置で、いわばこの作品の作者(監督)の作為的な立ち位置だったと思われます。
この、作者(監督)の作為的な画面内の人物立ち位置の構図は、映画の冒頭の修学旅行生の座り位置や走り出す女子学生の立ち位置タイミングや、主人公・中井のり子と木村ハル(大沢一菜さん)との出会いでの画面に合わせたそれぞれのフレームインや手を伸ばすカットや、2人が途中立ち寄る喫茶店の店員や2匹の犬を連れた赤い服の女(伊佐山ひろ子さん)の動きや、終盤の大きな満月を見上げる町の人々など、映画の全般を通じて徹底されていたと思われます。
この(登場人物の内心によらない)作者(監督)による作為的な構図は、一体何を表現していたのでしょうか?
ところで映画の中盤で、主人公・中井のり子と木村ハルは、中井のりこの姉である中井亜矢子(河井青葉さん)の家に行き着きます。
その時に、教師の姉・中井亜矢子は、主人公・中井のり子に対して、自分の生徒の子供たちがつぶつぶで襲って来ると感じる、との悩みを打ち明けます。
その上で、姉・中井亜矢子は、妹である主人公・中井のり子は自分の話を聞いてくれると感謝しながら、一方で、話を聞いてくれるのは妹の中井のり子が他人に興味がないからだ、とも言うのです。
実は、この姉・中井亜矢子の妹への吐露が、この映画の本質を説明していると私には思われました。
即ちこの映画は、他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界を描いた、作品になっていると思われたのです。
なぜ(それぞれの登場人物がそれぞれの感情で動く場面描写でなく)あらかじめ作者(監督)が作為的に意図した構図に当てはめて人物を立たせたりそこに当てはめる動きの画面にしているのかというと、この映画は、(作者(監督)含めて)他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界、を表現しているからだと思われるのです。
姉・中井亜矢子が、自分の生徒に対してつぶつぶが襲って来るように感じるのも、生徒一人一人の背後にそれぞれの違った多様な感情や関係性や人生があることを、想像したり考えたりすることに関心興味がないからだと思われます。
この映画が、(作者(監督)含めて)他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界を描く作品、になっていると考えれば、なるほどその世界観は興味深く、面白さがない訳ではありません。
しかし一方で、その、他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界、に観客として違和感を感じるのもまた必然だと思われました。
なぜなら、他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界の人々を描く時に、本当であれば作者(監督)の側は、その映画の登場人物たちに逆に興味を深く持っていないといけないと思われるからです。
もっと言うと、この世界には(その度合いは様々であっても)他人に興味を深く持って生活している人々も一方で数多く存在しているはずなのに、その(今作の登場人物から見れば逆側の)他人に興味を深く持つ人々が全くこの映画で描かれていないのも、観客として違和感を感じる要因になっています。
つまり、他人に(ほぼ)興味がない人たちの存在を肯定したいのであれば、一方の他人に興味が様々な度合いで深くある人々の中に、今回の登場人物を配置して描く必要はあったのではとの感想は持ちました。
すなわち、個々の登場人物をそれぞれの感情で自由に画面の中で動かしながら、他人に(ほぼ)興味がない人たちをその中に描く必要があったのでは、ということです。
そうしなければ、今作の森井勇佑 監督は、早晩、(他人に(ほぼ)興味がない人たちの世界に閉じ込められて)制作の行き詰まりを感じる事になるのではと、僭越思われました。
ただ、他人に(ほぼ)興味がない人たちだけの世界、を描き切った特異性ある作品である今作が完成出来たのは、この作品の完成の最後まで監督の作家性を信じて許した、映画に対する志の高い製作者の人達がいたからだとも思われました。
今作の製作者たちの姿勢は、映画の大切な部分を守ろうとしたとは一方で思われ、その志の高さには敬意を表したいとは、裏表の感情なく素直に映画の鑑賞後に思われました。
Mirror
予告の感じからして自分と合うかどうか半信半疑での鑑賞でしたがたまーに面白いところはありつつも、全体的に首を傾げるシーンが多かったです。
清掃員をしているトンボという女性が施設にいた女性から娘を探して来て欲しいというお願いを聞き入れ、ハルという女の子を見つけ出し母親の元へ届けるロードムービーです。
序盤から無気力さが目立つストーリーかつブツッブツッと次へ次へ展開が進んで行くのが1本の映画としてしっくりこないところもあって大丈夫かな?と思っていましたが、登場人物のセリフの1個1個のクセが物語には繋がってこなくてモゾモゾしました。
軽く笑ったところを羅列していきます。
トンボが清掃の人の車を盗んで、盗まれた後を棒読みで見ているおばさんが最高に面白かったです。
怪しい女性が連れてるワンコが床にぺたーってなってるところはキュートでたまらなかったです。
死んだかと思ってた爺さんが後をついて来たり、突然カヌーに乗りたいと言い出したり、かと思ったらカヌーのチームに合流したりするところも素っ頓狂で良かったです。
都会の喧騒から離れて暮らしている親子の父親の一節一節は笑えもしつつ、考えもしつつでした。
トンボの姉との再会のシーンは感動ではなくどちらも心情的に何かを抱えているようで思いを吐露したりするところは結構良かったです。
にしても深夜にそんな爆音で猫踏んじゃった演奏したらそりゃクレーム飛んできますわと。
途中で予告にもあった誘拐というワードがきっかけで2人が大変な事に巻き込まれていくんですが、そこまでの道中がファンタジーすぎるのもあって急にリアルに戻すやんと思ってしまいましたし、トンボは行動的なものに誘拐を感じなかったのかとも思ってしまいなんだかなーという気分になりました。
おそらく死生観とはなんたるかを表現した作品だと思いますし、要所要所にこの人はこの世にいないんじゃ?と思わせるシーンもあって考察する楽しみがあるんだとは思うのですが、いかんせんつぎはぎに進んでいく物語のせいかそこまで考察してもな…と気分になってしまったのが惜しかったです。
意図的に棒読みにさせていたのか、それとも素で棒読みなのか分からないラインの演技なのもモヤモヤさせるところでした。
主演お二人や高良さんあたりはしっかりしてるんですが、背景に近い登場人物はどうしても言葉に命がこもっていないような気がしましたし、映画ならではの演技と舞台演技が混ざったような感じなのも観る側としては困っちゃうなと言ったところです。
この棒読みも実はこの世にはいないからという解釈もできるんですがあまりにも都合が良すぎるのかなと邪推してしまうところもあります。
自分にはハマりませんでしたが、撮影の仕方だったり、姫路はじめロケーションの良さだったり、主題歌の爽やかさだったり、1エピソードの濃度は感じられる作品でした。
原作にはかなり興味が出てきたので読んでみようと思います。
鑑賞日 11/21
鑑賞時間 12:00〜14:05
座席 E-10
人生がはじまる時に風は吹く
まずこの映画の本質は「誰のことばを聞くのか」という所にあると思う。
誰がどう「話すのか」ではなく、とんぼに「どう聞こえているのか」だ。
とんぼは、最初、精神疾患の患者さんが入院している隔離病棟で清掃員の仕事をしている。
そこで上司から「患者さんとは話をしないでね」と釘をさされる。
でも、なぜかスルッと話しかけて来る1人の女性から頼みごとをされてしまう。
そのやり取りが一連のロードムービーのスタート地点であるという所にこそ、この映画の良さが詰まっている。
要するに、言葉を軽んじられ易いであろう人の言葉を「引き受ける」良さである。
久しぶりにこんなに言葉を大切に使う映画を観たなと思った。
あとセリフを際立たせる構図が綺麗。
めっちゃ良かったです。
永年の綾瀬はるかファンで,本作公開後のレビュー・観客動員がエライこ...
永年の綾瀬はるかファンで,本作公開後のレビュー・観客動員がエライことになっているので,応援の意味で観に行った。日曜日の20時過ぎからの上映とはいえ,100席のスクリーンに観客は小生のみ。貸し切り状態。映画人生55年で初の出来事だった。
とにかく意味不明の映画だった。主人公の行動も不可解だし(口数が少なく自ら説明することがない),次々登場する人々(少女・老人・婦人・親子・姉・母親)の行動・思想・独り言も理解・共感できず,多くの謎が後々回収されるかと期待して最後まで眼を凝らして観ていたが,回収・説明されることもなく,終わってしまった。
欧米の映画でもときどき理解不能な映画があって,見終えてからモヤモヤすることがあるが,これも同じ。理解できない当方に問題があるのかと悩んでしまう。
ただドアップの綾瀬はるかは可愛いし(でも笑顔のシーンがほぼないのは悲しい……),映し出される景色は素晴らしい。カメラワークは感心するところがあった。
綾瀬自身は「新しい自分を見つけられた」ような発言(ちょっと不正確です。すみません)をしていたが,ファンとしては……。にこやかで,ちょっと天然で可愛い役がお似合いだと思っているが,本人は新境地を開拓したいと考えているのか,ちょっと残念。
削ぎ落とさない
何か観ようと行きつけの映画館に行って、ちょうどタイミングが合った作品。
だから前評判や前情報なしで観ました。
若い頃に観たATG系の作品にこんなのが、あったなあ、、、なんて思い出しましたが、正に言って、物語としては何が何だかよくわかりませんでした。
もちろん、製作側も、そういう意図で作ったんでしょうけど。もう少し「要素」を削ぎ落としても良かったのかな?なんて思いましたが、削ぎ落とさないのが美学なのかもしれません。
伊佐山ひろ子さんが出てましたね。なんとなく70年代のニオイがしたのはそれか、、、
渡辺美佐子さんも出てました。いくつだよ、と思って検索したら90歳超えてるんですね。もはや、芝居が上手いとか下手とかではなく存在を魅せている感じ。
いわゆる「映画通」ではないので、難し解とかできませんが、綾瀬はるかさんはキャラクターに負けず素敵でした
いろんな世界。映画館向きの作品。
「ロードムービー」「ふたり旅」に「綾瀬はるか」…ほのぼの?ドキドキ?涙?…この映画に分かりやすい感動を求めて映画館に行った人は撃沈だったのかも。
自分が生きている世界がすべてじゃなく、いろんな人の世界が重なりあってこの世は成り立っている。お隣さんの世界が、自分の常識とは限らないし、自分の世界が少数派かもしれない。
ハルのお母さんは心の病で精神科病院に入院していて、たぶん、ハルも何らかの病を引き継いでいると思われる。妄想や幻覚と共存しているのかもしれない。ハル自身はそう思っていないかもしれないが、客観的にみると人との交流もうまくいっていない。
トンボも同じ。何らかの生きづらさを抱えて生きてきたと思われる。
ハルとトンボが出会う人たちは、何となく詩を読んでるような話し方。宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の、ジョバンニとカンパネルラが汽車の中で出会った人たちの雰囲気に似ている。
生きてるのか、死んでるのかわからない、不思議な雰囲気。
音楽は無く、自然の音が心地よかったり不気味だったり。叙情的なシーンが多かったことも印象的
トンボのお姉さん。やんちゃな児童たちを注意せずに、優しそうな笑顔でプリントを配る違和感。トンボへの優しい言葉と同時に嫌み・妬み・嫉妬のこもった言葉を淡々と発する怖さ。何かを信じて疑わず、必死に生きてきた姉自身の世界。それがだんだん歪んできていることに姉は気づいている。
よかったシーンは ハルがトンボにした、「おまじない」。 ハルの手つきがとても優しい。ハルのお母さんもそうやって優しくおまじないしてくれたんだろうな。トンボもなにかを感じたよね。 ジーンとした。
人との関わりが苦手だとしても、やっぱり、人は人を求めてる。トンボがハルと出会えてよかった。
トンボを抱きしめてあげたくなった
いろんな世界に触れられる映画。
私は、この映画に出会えてよかった。
追記
他のかたのレビューにあるように、不思議な作品です。気忙しい日常では、雑念が入り込んでなかなか深く感じることが出来ないかも。ぜひ、映画館で!
絆
薄味な映画でミニシアター向きだとは思いましたが、私はいい映画だと思います。
よくあるテレビ番組の延長のような映画とは違い、「ちゃんと映画をやってる」作品です。これを低評価に埋もれさせるのはもったいないです。
テーマは、有り体ですが人と人が絆をつくっていく話なのかなと。
主人公はトラブルを避けるために「患者とは関わるな」と言われていましたが、タバコを吸いながら話して心を通わせる。
姉に覚えていたことを驚かれるほど対人関係が希薄だった主人公が、ハルが事故にあったのではないかと心から心配する。
母親は死の淵でも笛の音を通じてハルとつながっている。
主人公とハルは、離れ離れになっても夢を通じて心はつながっている。
主人公たちは道中のいろいろな出来事に影響されて心を通わせていきます。
わからないところはいろいろありますが、例えば主人公がフクロウに導かれてハルと再開したのは笛の音と対応していそうだし、事故で死んだおじいさんと行動をともにしたのはハルの「死んでいてもまた会おう」という言葉につながると思います。病気で心が死んでしまった母親を肯定し、それでも絆で結ばれているということです。
魚釣りをしていた親子は社会を怖がり拒絶していますが、彼らを見たうえで彼女らは社会で生きようと決めたのではないかと。警察に出頭するのは社会で落とし前をつけるということです。
見どころは映画全体の空気かなと思います。一部シーンを除いてセリフが極端に少ないのが良いです。カウリスマキを連想しました。
幽霊がおじいさんを迎えに来たり魚が砂漠を泳いだりといった超現実的で幻想的なシーンもよかったです。
いわゆる余白の多い映画というやつで、絶対的な正解があるわけではないと思います。いろいろ考えてみるのが面白いのではないでしょうか。
前作の「こちらあみ子」は強烈過ぎるほど味がついている映画で、今作より見やすいと思います。今作と共通する部分もあったので、前作のファンの私は受け入れやすかったです。
この道の先
コトの大小、モノの強弱ではなく、観る側も創る側も見落としていた、忘れていた映画のよろこびが生まれる前夜を目撃した気持になった。
綾瀬はるかが街を駆け出した終盤からの展開、シーン、映像表現、ひとつひとつの台詞の必然。ただ引きずり込まれてしまった。
決して幸福なラストではないのに、映画が無闇に言いがちな希望に触れた気になれたのは、監督が言うところの御伽噺そのものの力だろう。森井監督は嘘をつかなかった。
このチームは次にとてつもない日本映画を生む予感がする。その意味でルート29は、いま絶対に観ておくべき映画だと思う。
3〜40年前のインディーズを
観ている気分に陥りました。
おそらく主人公が見ている夢の世界のお話では…。
風の音、川のせせらぎ、鳥の囀りとある意味森林浴的な感じは気持ちが良かったです。
逃げる人達
兵庫県民として、鳥取と姫路のロードムービーて、2時間も話し持つんかなあ、と思うてましたが、歩きとは、充分持ちましたな。この2人、あのおじいちゃん、三途の川ならぬ三途の湖に連れて行ったんですね。現世逃避のおじいちゃん、現実逃避の父子、規律逃避の犬おばさん、そして法律逃避の二人。確かにロードムービー、なにがしかの逃避の映画でした。
ラストの魚。おじいちゃんと食べた魚と何か関連が有るんでしょうか。
好きな映画です
時間潰しの映画を探していたら、お、これ見たいかもと思い、映画館に入りましたが期待に違わず楽しい映画でした。この類の映画は好みが分かれると思います。館内に響き渡るような○○○をかいて、お眠り遊ばされている方もいらっしゃいましたが、まあ、そういうBGMもあるだろうと思いました。
この枝葉は要らんな。とバッサリ剪定された後の「主木」と「枝」から構成される映画なので空白は、鑑賞者が想像しながら、自由にお話を作れます。この「主木」と「枝」を象徴するような絵が繰り返されます。
殺伐たる無法地帯を女性二人で行くアメリカ製ロードムービーとは異なり、こちらは、ほのぼのとしたロードムービーです。
「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」という言葉に翌々日の日曜日に出会いましたが、まさしくこれだったなと思います。
大ヒットするような万人向け映画ではない(★一つ減)と思いますが、今時の映像技術で作ったラストのシーンがなかなかの余韻を残し、あれは何だったのだろうと考えるのも楽しいです。
人と関わることを避けても、人の役に立ちたいと思うのが人間なのかな
2024年の日本映画(120分、G)
原作は中尾太一の詩集『ルート29、解放』
ある女性の願いを叶えるために鳥取〜姫路間を往復する女性を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本は森井勇佑
物語は、鳥取にて清掃員をしている中井のり子(綾瀬はるか)が、とある精神病院にて、入院患者の木村理映子(市川実日子)から「あるお願い」をされる様子が描かれていく
理映子は「もうすぐ死ぬ」と言い、「姫路に住んでいる娘・ハル(大沢一菜)に会いたい」と言う
初対面で縁もゆかりもないのに、のり子は清掃会社のワゴンを拝借して、姫路へと向かってしまった
映画の冒頭は、ハルを探している最中に泊まっていたゲストハウスのシーンで、そこもなぜか摘発を受けて追い出されてしまう
また、時系列的に一番最初になるのが、のり子が脳のCT写真の説明を受けているシーンで、これが一連の出来事の「5日前」となっていた
脳に腫瘍があるものの、経過観察と言われていたのだが、あの映像が誰のものかは明確にはなっていないのだが、おそらくのり子のもので、定期的な検査であるように思えた
物語は、知らない人・のり子になぜかついてくるハルが描かれ、彼女はのり子に「トンボ」と言う名前をつけた
彼女と親しいシャケ師匠(播田美保)のペットは「坂本」だし、ネーミングセンスが結構ズレている
そんな二人は、当初はワゴン車で鳥取を目指すものの、ドライブインで知り合った犬を探す赤い服の女(伊佐山ひろ子)に車を奪われてしまい、徒歩で向かうことになってしまった
そこからは、よくわからない人たちと出会い、途中でのり子の姉・亜矢子(河井青葉)と再会を果たしていく
だが、このあたりに登場する人はおそらくすでに死んでいる人たちで、帰り道は精神世界にでも入り込んでいるかのように思えた
結局のところ、姉のところで自分が誘拐犯になっていることを知り、ハルを母親に引き合わせた後は、きちんと警察署に出頭したりするのだが、どこまでがリアルなのかはほぼわからない
ぜんぶが夢のようにも思えるし、何なら「のり子=理映子」とか、「ハル=のり子の幼少期」なんて構図にも見えないことはない
このあたりは想像にお任せしますレベルなのだが、あまり深く考えない方が良いのかも知れません
いずれにせよ、かなりファンタジックな内容で、イメージとしての大魚が登場したりとか、変な夢を見たりとか、シュールな展開も多かったように思う
原作の詩を解釈した内容になっているが未読なので、その再現度というものはわからないの
だが、映画の舞台が「ルート29(若桜街道:鳥取県側)」であることに意味があるのかなと思った
鳥取から南下する若桜街道は「浅井」という場所で、左が伊勢道(現在の482号線、氷ノ山経由の但波馬道に続く)、直進(右)が播磨道に分かれている道で、この播磨道の先に姫路がある
伊勢に行かないというのは、忌中であるとも言え、それゆえにスルーする行き帰りだけになっているのかなと思った
帰りにハルを手放すことになることにも意味があると思うので、おそらくはのり子はすでに死んでいて、その魂が母と娘を引き合わせる役目を担ったのかな、と感じた
個人的な解釈なので的外れかも知れませんが、のり子という人物は人と関わることを避けてきた人間で、そんな彼女が「本当にしたかったこと」がこの映画で描かれていることなのかも知れない
そう言った意味もあるのだとするならば、生きているうちに人の役に立つことをすれば、迷い道には迷い込まないというメッセージになるのかな、と思った
おーい!とんぼ
綾瀬はるか主演の割に、話題にもなってないし評価も低いが…なるほど。笑
喫煙する中学生やら、簡易宿泊所での容疑者確保やら、冒頭からよく分からない。
でも何故か分かる、これは今後に一切絡まないと。
わざとなのはすぐ気付くけど、全体的に棒読みです。
等間隔に棒立ちしたり、同じようなものをやたらと並べたり、シュールながらリズムのある画づくり。
この辺りはウェス•アンダーソンか『物語シリーズ』か。
また、独特の擬音こそ出てこないが、言葉選びや台詞のリズムは完全に宮沢賢治だ。
となると、やりたかったのは現代版『銀河鉄道の夜』だろうか。
…と、推察できるのはここまで。
旅の中で出会う人物や起こる出来事にも、物語的あるいはテーマ的に意味があるのでしょう。
でもまったく理解できないのだから仕方がない。
重要に思えたノートも、水没したきり。
予告で男の子だと思ってたハルは、本編を観てもやっぱり女の子には見えない。
顔立ち、髪型、服装、声、仕草、言葉遣いまでそうなのだから、これも意図的なのだろうが…
森の緑にトンボのピンクが絶妙に映えてたりと端々にセンスは感じるが、これは絵画ではなく映画だ。
平坦な演出で何かが浮き上がってきただろうか。
ただ感情移入やテーマへの理解を阻害していたようにしか思えず、役者も誰一人活きていない。
これでは“ルート”ではなく“アート”だよ。
シュールなファンタジー
監督作者脚本家、だれが一番これを作りたかったのか?
ただのファンタジー作品に2時間付き合わされるお客さんの
辛さがわかっているのだろうか??
綾瀬はるかの無駄つかい。特にたばこの扱い方がひどい。
あの状態でたばこだけ持っているのか?宿泊代は?
金色の魚の意味は?せめて一緒に見たクジラの設定とか
まるっきり観客(シネコンに映画を見に来る人ね)置き去り。
(こういう作品こそいい作品という方には申し訳ない)
久々に何も感じることが出来ない映画だった。
シュールな作風は嫌いではないが、「絆の物語」が心に響かない
無表情で立ち尽くす人々を正面から長々と映し出す独特の「間」、喜怒哀楽の感情に乏しい風変わりな登場人物たち、人を食ったような突拍子もないような展開と、確かに独特でクセのある映画だが、こうしたシュールな作風は、決して嫌いではない。
トンボが、居場所と写真だけで、どうやってハルを見つけ出したのかとか、どこからカヌーを見つけてきたのかとか、誰が、ハルのことを警察に通報したのかとか、ハルが、あれだけ多くの石をどこから持ってきたのかといった疑問も、あまり気にならない。
ひっくり返った車に乗っていたお爺さんが、カヌーに乗った新郎新婦たちと去っていく場面や、大きな赤い月が街の上に昇っている場面や、山道の上を巨大な魚が泳いでくる場面などのファンタジックな見せ場にしても、唐突ではあるものの、それほど違和感を覚えなかった。
ただ、話としては冗長で、あまり面白さを感じることができなかったのは、残念としか言いようがない。
特に、「3匹目」の犬を捜す赤い服の婦人が語る話や、人間社会を「牢獄」と捉えて、息子と山の中で暮らす父親が語る話はまだ良いとして、トンボの姉に、教師の職とか妹の性格について、それこそ支離滅裂な話を、あれだけ長々と語らせる必用があったのだろうかという疑問が残る。
病院で、ハルと母親が対面するクライマックスにしても、お互いが身に付けていた笛によって心を通じ合わせるようなシーンはあるものの、そもそも、その笛についての説明がないし、いくら母親に精神的な疾患があるのだとしても、もう少しカタルシスが感じられても良かったのではないかと思えてしまう。
結局、これは、それぞれに孤独を抱えて生きてきたメガネとハルが、旅を通じて心を通わせ、絆を深めていく過程を描いた映画だったのだろう。
しかし、その割には、これまでの2人の生き様や、キャラクターの描き込みが不十分だったと思わざるを得ず、そのため、2人の心が繋がっていく様子にも、感動することができなかった。
これが、「理屈」ではなく「感性」の映画であるということは十分に承知しつつも、それならそれで、もっと「心に響くもの」が欲しかったと思えるのである。
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