「清く正しきボーイミーツガールの大活劇……大好物だけど、脚本の精度にひっかかりが……。」好きでも嫌いなあまのじゃく じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
清く正しきボーイミーツガールの大活劇……大好物だけど、脚本の精度にひっかかりが……。
最初に言っておくと、
僕はこの手のボーイミーツガールものが、大好きだ。
三度の飯より大好物だといってもいい。
『天空の城ラピュタ』や『未来少年コナン』のような、男の子が女の子を拾って、彼女の想いを助けるために奔走する筋書の話は、何度観ても、何回読んでも、全く飽きることがない。なんなら、主役の名前と設定だけ変えて、永遠に作り続けてほしいくらいだ。
その意味では、本作のヒロインの鬼っ娘は十分に可愛かったし、
ヒーローたる少年は好感のもてる良い子だったし、
ふたりのロードムーヴィーとして空気感は悪くなかったし、
淡泊だった相手への想いが次第に熱を帯びていく様子もよく描けていた。
とくにヒロイン。
どきっとするくらいの貧乳属性推しが、尊い。
監督の性癖が良く出ていて、そこは本当にすばらしい。
アクション要素も背景美術も、ふつうにハイ・クオリティだった。
いかにも「元ジブリ」といった感じで、テイストが懐かしいし、こなれている。
前半の日常に入り込む怪異の描写から、どんどんエスカレートしていって、雪の隠の郷(なばりのさと)での大スペクタクルになる流れも楽しい。
というわけで、「表面的には」ふつうに面白かったというのが前提である。
ボーイミーツガールものとしては、個人的に十分楽しめた。それは本当だ。
だけど……いろいろこれ、ちょっと話がひどすぎないか???(笑)
スクリプトチェックがまるで機能していないと言っていい。
ここまで出だしから終わりまで、描かれていることに万事ツッコミが入れたくなるアニメを観たのは、いつ以来だろうか(『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』以来か)。
映画はたくさんの人が関わって、たくさんの人が自分の全力を投下して、たくさんの人が自分の運命を懸けて作られるものだ。なので、もう少し監督なりプロデューサーは、周りの人の話をちゃんと聞いて、「それおかしくないか?」と指摘されるような脚本のアラはある程度つぶしていかないとダメだと思う。そんなことで観客からそっぽを向かれては勿体ない。
まあ、プロデューサーが『フラクタル』で山本寛と岡田磨里と東浩紀の暴走を止められなかった山本幸治だから、こうなっても仕方ないのかなあ。
まず、出だしからして、なんで柊が親に連絡を取ろうとしないのか、まったく意味がわからない。父親に反抗している部分はあるんだろうけど、母親だって妹だって心配してて、関係性は悪くないんだから、初日のどこかで連絡を入れるのが当たり前だと思うんだが。
これが、柊とツムギが何か仕でかして出奔したのならまだわかるが、怪異に追われてやむにやまれず飛び出した完全に責任のない事態なのに、家に連絡を入れられない理由が思いつかない。まして、部屋の中身はめちゃくちゃになっているのだ。残された家族が猛烈に心配するのは、誰だってわかることだろうに。
もちろん誰だってそう思うわけで、温泉旅館の女将もまた柊を問い詰める。しかし、彼はかたくなに理由を言わないし、話を必死でそらそうとする。なんで??? もしかして監督も理由が思いつかないから、思わせぶりな演出で誤魔化してるだけなんじゃないの?(笑) しかも諭されたら普通に電話入れてるし。お母さん怒鳴りもせずにしれっと受け入れてるけど、夜半に息子が部屋荒らしたまま、初めて会った女の子と出奔したんだよ? 簡単に息子の謝罪を受け入れちゃダメなんじゃないのか?
そもそも、あの流れでなぜ「いったん帰宅して親に事情を説明して、車で日枝神社まで連れて行ってもらう」という展開にならないのか、まったく理解に苦しむ。
なんでお金もスマホも持たない状態で飛び出したまま、徒歩で向かうの?? バカなの??
いや、日枝神社が禁足地とかだったらわかるよ。でもただの神社だし、米沢の市街地まではかなり距離があるみたいだし、ツムギは柊の友だちとして家族にちゃんと認知されてるようだし、「神社まで送ってあげて」と親に頼んで断られる可能性が思いつかない。結局、ふたりはヒッチハイクも含めて「何日もかけて」神社までたどり着いている。あのあと家に帰って「なんか変なものに襲われてヤバいことになってるんだけど、どうしてもツムギが明日、神社まで行きたいっていうんだ。車まわしてもらえるかな」と頼んで、母親に車出してもらったら、翌日の午前中には余裕で着いていたはずだ。そして、現地ではお父さんとも会えずに、ふつうに里に戻っておしまい、と(笑)。
だいたい、あの流れでふたりがつっかけとスリッパはいて逃げてるの、なんでだっけ??
ベランダにあった? 道すがらパクったの? 後半になると、結構立派な靴二人とも履いてるけど、古着屋って服くれただけじゃなかったっけ? あそこで靴までペチッたのか? それとも旅館で靴はくれたんだっけ? 俺なにか大事なシーンを見逃してたのかな?
親を心配させながら逃避行のように飛び出して、ヒッチハイクをして神社の近くまでたどり着いたのに、古着屋の蚤の市を手伝っていこうとする柊の思考回路もまったく理解できない。急がないといけないから、そのまま出て来たんじゃなかったのか(笑) あの兄妹の和解エピソード、ほとんど物語に必要だとは思えないし。
雪の神に襲われたあと、助けに行くのはいいけど、ボロボロになって意識を喪った少女を、病院にも連れて行かずに、救急箱で処置しただけで部屋で寝かせ切りにしている旅館もたいがい頭がおかしい。まだ多少元気だったのならわかるけど、一日近く意識がなかったんだよ? 鬼だから連れて行けないわけでもないでしょ、鬼だとは気づいていないんだから。
そのあとも、柊がかたくなに家に連絡出来ない理由を言わないで「働かせてください」と主張するのを、おばちゃん受け入れちゃダメだろ。警察にすぐ連絡しろよ、怪我人もいるんだから事件性だって有り得るケースなのに。
どうせ数日の滞在なのに、柊に一から仕事仕込んでいるように見える演出もどうかと思うし、二人が目的地を告げずに徒歩で旅立っているらしいのも解せないし(車で送ってもらえよPART2)、心配して駆けつけた父親をババアが恫喝してるのも信じられないし、神社に着く前に現地で発生すべきイベント(屏風の発見)が始まってしまうつくりも意図がわからないし、なんであの屏風があそこにあったのかもよくわからないし(母親が滞在時に描いたとか? それにしては古い絵だが)、そのあと二人の少年少女に傘を一本しか渡さない喫茶店主もどうかと思うし、結局神社で起きるイベントが追いかけて来たツムギパパとの遭遇だけというのも演出としてあり得ない。
父親に示唆されて向かった目的地である日枝神社に、お母さんはいないどころか単なるガセネタで、何も特別なイベントは起きずに、そこにガセネタの張本人が「里に帰るな」と伝えるためにやって来て、その流れでなぜか「ふたりで里に戻る」ことになるって、作劇としてちょっとひどすぎないか??
大前提として、柊が鬼に変化するロジックがよくわからない。
鬼の里があって、そこから鬼っ娘が下界に下りて来るというのはわかる。
でも、それを助けた少年が「鬼化」する体質だというのなら、それはまるで別の話であって、いっしょくたにするのなら、ちゃんと世界観を用意する必要がある。
他にも鬼化する要件を備えた「後から鬼になる人間」(小鬼を身体から放出する体質)がたくさんいるということは、あちこちで「鬼化している人達」がたくさんいるはずで、もっと社会現象化していておかしくないし、生まれつきの鬼と後発的な鬼の棲み分けとか関係性もちゃんと描かないと、このボーイミーツガール自体が成立しない。
だいたい、言いたいことが言えないくらいで鬼化してたら、『鬼滅の刃』どころじゃない大量の鬼が世間に紛れ込んでることになるし、その大半が陰キャかチー牛か魔法使いオジサンという阿鼻叫喚の地獄絵図になってしまう(コミケの40万人がみんな鬼だと考えよ)んだが、どうなのよそれ?
もともとツムギを追ってきた雪の神が、柊も鬼化したから襲ったという話にしたかったんだろうけど、さんざん「お母さんを探す」ことで引っ張ってきた話で、ツムギ以外の里の人間全員がじつはツムギ母は人身御供でオヤシロの依り代になっているのを知ってるっていうのもたいがいにひどいと思うし(『ひぐらし』の雛見沢村並みに胡散臭い)、柊を食べた雪の神が隠の郷の上空で弾けて落ちて柊が助かる流れは「完全に偶然」でガチで死んでいておかしくなかったし、「日枝神社」に向かう話が隠の郷の「鬼が島」を目指す話に切り替わる展開があまりにズサンすぎる。
結局、雪の神の叛乱が何故起きたのかも、なんで鬼たちを雪の神が襲って食べていたのかも、作中でははっきりした描写が出て来ない。喰われた鬼が結局どうなったかも。これが「娘と会えなくて寂しい依り代の妄念があふれ出て雪の神が狂った」ということなら、お母さんのしおん(名前ww 転スラパロなの??)は何人もの鬼をほふった咎を背負うことになるし、そうでないなら何かしらの雪の神変調の理由がほしい。
しかも、お母さんのせいで雪の神が暴走したのに、娘が会いに来てくれたからお役目を放り出して一般人に戻るという理由で、何千年と続いてきた雪の神による街の防空結界システムも完全終了となって、おばばが「里も変わっていく必要があるかのう」とか言ってハッピーエンドって、展開があまりに勝手すぎる。だいたい、面の依り代って、そんなに簡単に放棄できちゃうようなお仕事なの? 村の上層部の部隊も、ツムギがお母さんに会いに行く手助けとかして本当に構わないの? あと、ツムギは勝手に聖域に侵入して、勝手にお母さんと会うことに成功してたけど柊少年の役割って?
「落下すること」に対する安易さも、終盤観ていてかなりひっかかった。
高いところが怖いのは、落下したら死ぬから怖いのである。
だが、ツムギは(身体能力が違うんだろうけど)平気で飛び降りるし、何度落ちかけてもあまり動じていない。で、本当に落下してどうなるかというと、さして理由もなく二回も「ただふわっと」地面に着地するのだ。なんだよそれ、ピーターパンか? 鬼の能力なのか?
高所でのアクションと落下のスリル、空中浮揚の高揚感というのは、まさにジブリの十八番なわけだが、宮崎駿という人は結構いろいろ考えてやってたと思う。無防備かつあまり考え無しに「落下と浮揚」のアクションをやられると、いかに違和感があるかを今回改めて確認させられた。
他にも、日ごろから住み慣れたホームを舞台にアクションが展開されるしみったれた感じとか、仲間を傷つけて平気らしいツムギパパの脱出アクションの非道さとか、大団円の後その場から一人送り出されて、長い戻り路を帰っていく柊のようすとか、ずっと外で待たされていたらしい柊のお父さんの扱いとか、およそすべてについてまるで得心がいかない。
まあこんなところで脚本への不満をグジグジと書き立てても感じが悪いだけだし、こういう「王道のボーイミーツものの冒険活劇」を作ろうと一念発起した監督やスタッフについてはむしろ応援したいくらいだから、もうこの辺で辞めておく。
だが、いずれにせよ、ここまで主人公の行動原理に共感できず、各種の設定に納得がいかないと、さすがにもう少しなんとかならなかったのかな、と率直に思う。
きっと監督は、ジブリや新海みたいな少年少女の活劇をやりたかったんだろうなあ。
で、『すずめの戸締まり』みたいなロードムーヴィーっぽい部分もやって、「父と息子」「父と娘」という関係性について、もっと掘り下げたかったんだろうなあ。
でも、今回そのへんは正直、あまりうまくいっていなかった気がする。
もっとシンプルな設定で、要らないギミックなんかなしに、男の子が女の子をひたすら助けて戦う『コナン』や『ラピュタ』や『今、そこにいる僕』の現代版を、てらいなく作ってくれると嬉しいんだけど。
とにかく、次回作に期待します。
追記:ふと思い出した。俺、この小野川温泉の「宝珠の湯」って立ち寄ったことあるわw 西吾妻山登山と即身仏見物のついでに。
ツムギ、見事にぺったんこでしたね。笑
古着屋は靴どころか靴下までくれたみたいです。(最初のサンダルは分かりません)
キャラ、作画、雰囲気はよいだけに、脚本が本当に残念でした。