「主義主張があるこうした行為とない行為と、そして日本との比較(参考までに)」HOW TO BLOW UP yukispicaさんの映画レビュー(感想・評価)
主義主張があるこうした行為とない行為と、そして日本との比較(参考までに)
今年216本目(合計1,308本目/今月(2024年6月度)16本目)。
(前の作品 「蛇の道」→この作品「HOW TO BLOW UP」→次の作品「」)
※ 法律系資格持ちとしては、「いかなる理由があるとしても犯罪行為を推奨するものではない」ことをまず強く断っておきます。
映画内で描かれる行為は決してほめられた行為ではありません。ただ、その思想論として流れる「石油工場が環境を破壊している」ことそれ自体は程度の差はあれ事実だし、こうしたテロ行為(ほか、いわゆる通り魔等)と比べたとき、量刑の問題や取った行動が許されるかという点はさておきも、まるで合理性も何もない通り魔事件などと比較すれば、許されるかの問題はさておき、「主張は理解しなくもない」といったところです。
日本では、この手の事件といえば、あさま山荘事件や、地下鉄ガス事件などがあると思います。どちらも犯罪行為を推奨しませんが、これら2つについても、「理解するかどうかは別にして」、特定の思想の元行われていたのは事実です。また、日本で「ほぼ」同じ事件のターゲットになりうるのは、日本の特性上「発電所がらみ」「自衛隊がらみ」になろうかと思いますが、後者の「自衛隊がらみ」は実は日本に存在する事件で(この点後述)、もちろん自衛隊(アメリカ軍基地も含む)も原発もとてもこうした行為が「取りうる」ほどの甘さに日本はなっていないので(戦中の混乱期等除く)、日本ではこの意味で同種の事件は起きにくいのですが、「自衛隊がらみ」では起きたことがあります(後述)。
ただいずれにしても「犯罪行為を助長する趣旨の映画ではない」ことは最初に述べるべきだったし、この映画をご覧になった方はわかるのですが、なぜか人物ごとに描写が繰り返される謎の進行に???状態で、「入った映画館間違えたのか」ということになりそうな点も一応ある(パイプラインの話は途中くらいまで出てこないため)ところがやや難です。
採点は以下まで考慮しています。
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(減点0.3/この映画の背景にあるものの説明が足りない)
重ねてかきますが、このようなテロ行為とも言えうる犯罪行為は推奨されるものではありません。抗議手段なら、ここまでの行為ではなくても、仮に犯罪にあたるとしてももっと「緩和した方法」があるからです。いきなりその思想(映画内の爆破しちゃえの理論)に飛ぶのは話がぶっ飛びすぎで、ややこの点、何を言いたいかわからない部分があります。
※ ただ、最初に「怒りを抑える方法」みたいなグループワーク(当事者の会、あるいは、ダルク相当のもの)が映るシーンがあるので、「怒りを抑える方法がないキレやすい当事者を描いたもの」?とも見たのですが、この辺もよくわからず。
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(減点なし/参考/日本で起きた「自衛隊への行為」について)
北海道は恵庭市(当時は恵庭町)で実際に同趣旨に近い事件が起きたことがあります。「恵庭事件」といいます。当時も今も北海道は牛が多くいますが自衛隊基地も多い北海道で、自衛隊が当時、訓練時の音量に配慮がなかったため、酪農農家が申し入れを行ったにもかかわらず、約束通りにならなかったため、自衛隊基地に入ったうえで、電話通信器具等を壊して逮捕された事件です(いわゆる「恵庭事件」)。実際に酪農に支障をきたしていた事情もありますが、被告人が自衛隊の合憲違憲を争った事件のひとつです。
この事件は、もっぱら当時の自衛隊法121条(当時)の「武器・弾薬等の破壊行為」に「電話通信装置等の破壊」が含まれるかが争われた事件ですが、地裁判例(昭和42年)は、
・ 武器・弾薬等とあるところに「通信器具」を入れて考えることはできない。なぜなら、前者の規定はそれが兵器であるため、兵器にならない通信器具を拡大解釈して論じることは罪刑法定主義に反する。
・ 器物損壊罪(刑法)なら成立の余地はあろうが、それは争われていない。争われていない事項は裁判所は有罪無罪を判断できない。
・ したがって被告人は無罪である
・ よって無罪である以上、自衛隊が合憲違憲かの判断を行う必要はない
…という判決を下し、このまま確定しています(国側は控訴せず)。
ただ、もちろんこの事件のあと、法律もちゃんと改正されたし警備も厳しくなったので、およそこういったことは発生しない事項ですが、日本でも同じような事件が起きたということ「それ自体」は事実として知っておく必要があります。