「冤罪ファンタジーとして観れば良作」正体 ブタポークさんの映画レビュー(感想・評価)
冤罪ファンタジーとして観れば良作
鑑賞直後は各俳優の素晴らしい演技とこの映画のために作られた主題歌も相まって、身震いしました。
しかし、鑑賞中感じていた設定の粗さがどうしても受け入れられず、否となります。
横浜流星演じる鏑木が逮捕されてから死刑判決を受けるまでの設定がずさんであり、観客が本作を観て「警察ってこんな風に冤罪を作るのか」と、何気なく、割と本気で思ってしまうのではないかと心配になっていると、実際そのような感想を映画批評サイトに書かれる方がいて失笑してしまいました。
また、松重豊演じる刑事部長が、「ボクが考えたワルいケイサツ・コッカケンリョク」と言わんばかりのステレオタイプのものであり、冤罪でも良いから犯罪抑止のために鏑木を死刑にしたいというのは無理があるように思えます。
原作あとがきでは、冤罪が起きる原因を「高度な政治判断(わざわざ横に点を打って強調している)」であると断定している旨の文章がありますが、映画パンフに書かれていたインタビュー記事には、原作を書くにあたって冤罪事件に関する資料を読んだと言います。
しかし、捜査書類は一般人が読めませんので報道発表されたものや週刊誌などの情報しか読めないと思うのですが、それらを読んで「高度な政治判断」が冤罪の原因であると決めつけるのは、スマホ検索で世界の陰謀論を信じ込む人と同等では?と思います。
作中の指摘部分は数多く、
鏑木の逃亡・潜伏がスムーズに成功してる、事件現場にてDNA資料がたくさん残されているはず(足利が鼻水ダラダラ、髪ボサボサのフケまみれ)、鏑木に対して凶器の入手経路・殺人の動機を詳しく描いていない、錯乱後に憔悴仕切った被害者遺族の目撃証言がなぜか証拠として最重要視される(なんなら鏑木もなぜか重要視する、普通は物的証拠優先では?)、ガバガバな捜査結果がなぜか検察を通って(送致できて)裁判でも通る(検察、裁判所が機能してない)、労働基準監督署を今まで知らずいきなり検索しだす肉体労働者達(肉体労働なめんな!馬鹿にし過ぎ!)、高度な政治判断で冤罪を作り出せるのに被害者遺族の居場所が把握できない警察、自称セキュリティーの高い介護施設にスルッと就職できる鏑木、長野県で現場指揮を取る警視庁の又貫(警視庁の管轄は東京都)、山田杏奈演じる酒井舞のライブ配信が一瞬で日本中に視聴される(有名配信者かな?)、生きたいと願ったのに殺されるリスク承知で刃物を警察に向けて突進する鏑木
などなどキリがありません。
また、本作は「冤罪」というテーマに加えて「人を信じる」というテーマもあるように思いますが、冤罪と人を信じることは別問題です。
吉岡里帆演じる安藤沙耶香の父が痴漢の冤罪で一審有罪となりますが、作中では痴漢の状況については描かれないため、実際のところ父が冤罪かどうかは誰にもわかりません。
何の根拠もなく、「娘が父を信じているから無罪!」、「みんなが鏑木を信じているから無罪!」と主張しているようにも見え、とても危険な描き方です。
別の男(痴漢の真犯人)が痴漢をしているシーンでもあれば安心して観れるのに、それがないため、鏑木のために再捜査の署名活動する「痴漢したかもしれない」父の姿には気持ち悪さや違和感を覚えます。
そして最大の問題点が、「目撃者の証言を信じた」ことが原因で冤罪となり、目撃者の証言が覆ったことで冤罪が晴れるというのは、最初から「目撃者を信じてはいけない(=人を信じてはいけない)」と、本作が物語っており、「人を信じる(大切さ)」というテーマを自ら否定している作品だと思います。
無能で傲慢な警察・司法、無知な肉体労働者、人柄と見た目だけで無実だと信じる人々など、原作者と監督にはこのように世界が見えているのかなと思うと非常に残念であり、この人達とは友達になりたくないと思いました。
本作パンフレットに書かれていたエンドロールの「取材協力」には警察・司法関係はなく、せいぜい「名古屋拘置所」しかないため、本作の設定の粗さは考証をまったく気にしない「某警察ファンタジー」シリーズの君塚良一を彷彿させ、本作は「冤罪ファンタジー」と言えます。
しかし、各俳優の演技は本当に素晴らしく、ファンタジーとして観れば良作です。
原作のあとがきにて、作者は本作をエンタメ本、娯楽本だと明言しており、冤罪というテーマを軽々しくエンタメ化した小説・映画を作り、意図は無いとしても観客に対してファンタジーを現実と信じ込ませる奴らこそ大罪人であり、私は映画「イコライザーFinal」のマッコールさんのように、TBS(本作)とフジテレビ(踊る大捜査線)に対して「nine seconds(9秒だ)」と囁くのでした・・・(イコライザー4&5制作決定おめでとうございます!!)。