「モリコーネの美メロに彩られた、麗しき女闘士とモーレツ社長の労使紛争版「ロミ」ジュリ!」ラ・カリファ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
モリコーネの美メロに彩られた、麗しき女闘士とモーレツ社長の労使紛争版「ロミ」ジュリ!
『死刑台のメロディ』に引き続いて、「エンニオ・モリコーネ特選上映」の一本としてこれを観て、いよいよ確信するに至った。
新宿武蔵野館は、エンニオ・モリコーネを口実にして、政権交代が叫ばれる昨今の日本の政治事情や、いよいよ近づいてきたアメリカ大統領選に向けて、「左派系の社会派映画」を上映したかっただけじゃねーか!!
いや、それで別に全然かまわないんですが(笑)。
まだ「なんの映画」で「どんな映画」かくらいの予備知識はあった『死刑台のメロディ』と違って、ロミ・シュナイダーが主演している以外は一切の情報がないまま、わくわくしながらのゼロベース視聴。
有り体に言って「まるで意味不明」のウルトラみょうちきりんな映画ではあったが(笑)、こういうの、自分は意外と嫌いじゃない。
すくなくとも『死刑台のメロディ』のアナーキスト×2より、僕は本作のモーレツ社長のほうに数等倍、共感してしまった。
僕もこの社長をいざ前にしたら、ちょっとよろめいてしまうかもしれない(とくん❤)。
60年代末~70年代初頭の激しい労使間闘争を背景に、物語は展開する。
ストやピケをはって対立姿勢を激化させる組合側と、それに対抗しようとする経営者側のぎりぎりの攻防のなかで、企業家側のボスと労働運動の女闘士が恋に落ちる……こんな粗筋の映画、ストやらデモやらがほぼ下火になってしまった今の日本じゃ、そうそう作れないよね(笑)。
その意味では、実に目新しいというか、新鮮な映画体験だった。
映画としては、根本的な部分でナラティヴが歪んでいるので、端からきちんと筋が追えるようには作られていない。
大抵のシーンが解決もないまま尻切れトンボに終わり、唐突に話が飛んだり、時系列が遡ったり、逆にずいぶん時間が進んだりするので、正直まともに筋を追っかけてもあまり仕方がない感じがする。
いちばん顕著だったのは、工場内のどことも知れない無菌室みたいな部屋に、なぜかロミ・シュナイダー演じるイレーネが閉じこもっていて、社長のドベルドも一緒に巻き添えにして閉じ込め、もうすぐ酸素が切れるわとか言ってるシーンがあって、意味不明な展開ながらさてどうなるんだろうと思って緊張しながら観ていたら、本当に何事もなかったかのように、まるで関係のない次のシーンにふつうに切り替わって、ガチで驚倒した。どういうモンタージュなんだよ、これ(笑)。
二人が恋に落ちるきっかけ自体、ボンヤリ者の僕にはまったくわからなかった。
ドベルドが男と寝ているイレーネの部屋に乱入するあたりで、「強引なの、好き!」ってなったのか? その後、いきなりなぜかイレーネがドベルドを連れて、ドベルドのお父さんのところ(丘の上のボロい一軒家でハイジの爺さんみたいに隠棲している)に行って、「あなたの息子だから信用したのよ」とか言いながら、いまだに二階に残っているらしいドベルドのベッドで彼とセックスをする。
労働争議は進行中なのだが、二人は優雅に高そうなランチをともにしていたりして、今なにがどうなっているのか、最後まで判然としない(笑)。
ラストのハードで酷薄な展開は僕はとても好きだが、なんでそうなったかも、イレーネがそのことをどう思っているかも、すべてが放りっぱなしで映画はすうっと終わってしまう。
他にも、イレーネがおばちゃん軍団を煽動して、ドベルドの工場の電化製品を次々と崖から湖に放り込むというひどい不法投棄&環境汚染のシーン(70年代であってもあんなことしたらメチャクチャ怒られると思うよw)とか、中盤でイレーネのやっている策動が単なるあからさまな御法度のスト破りに過ぎないとか、監督が良かれと思ってやらせている言動にドン引きせざるを得ないシーンも散見される。
総じて、すべてのシーンが「ニュアンス」と「直観」で「なんとなく」出来ていて、映画としては非常に緩やかな構成感と断片化されたロジックによって成立している。
熱で浮かされて見る白昼夢のようにあやふやな語り口で、オヤジの偉丈夫ぶりとロミ・シュナイダーの美貌をひたすら愛でる。そういう映画だ。
これを、独りよがりだ、作劇がおかしいなどと叩くのは簡単だが、ふと振り返ってみるとこの時期のイタリア映画というのは大抵こんな感じで、ちょっと頭のおかしな映画ばかりが揃っていることに気付く。
わからなさ加減の「塩梅」が良いフェリーニやアントニオーニあたりは、なんだか文芸的な感じがして勝手に「名作」扱いされているけど、実はルチオ・フルチやダリオ・アルジェントの撮るようなカスみたいなホラー映画だって、まともに観ていても筋がちゃんと追えない作りというのは何ら変わりないのだ。
とくにルチオ・フルチとコンビを組むことの多かったダルダーノ・サケッティという脚本家の書くホンは、とにかく不整合かつ意味不明なことで悪名高く、どうでもいいようなゾンビ話が常に、驚くほどに前衛的で難解きわまる不条理譚へと変貌していた。
まあ、フルチの『墓地裏の家』やアルジェントの『インフェルノ』のことを考えれば、『ラ・カリファ』の演出&脚本のいい加減さなんて、ぶっちゃけ屁みたいなもんである。
さらに言えば、同時代に活躍していた鈴木清純や池田満寿夫や寺山修司や橋本忍のような日本人監督だって、格段に程度のひどい「不条理劇」を撮っていたわけで、『ラ・カリファ』の根本的な歪みと捻じれは、むしろ「時代に浮かされた結果」だと言ってもいい。
要するに、単にわかりやすい骨太なドラマを呈示するのは「ダサくて」、適当に不条理だったり話が途切れているほうが「粋」だと考えられていた時代の産物として、『ラ・カリファ』は扱われるべき映画だということだ。
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とにかく全編を通じて、ロミ・シュナイダーは脱ぎまくり&やりまくりでよく奮闘している。ロミ本人は素人監督(もともとアルベルト・ベヴィラックァは作家で、本作は自作の映画化で監督第一作。村上龍の『限りなく透明に近いブルー』みたいなもんですね)の手腕にかなり不満を持っていたらしいが、しなやかな獣のような肢体と、炎のように燃える心を持った、美しき寡婦を毅然と演じていて、その女優根性はやはり素晴らしい。
大半の人は、この映画のことを「ロミ・シュナイダーを愛でるための映画」と称するはずだ。でも、僕は相方の社長ドベルドを演じるウーゴ・トニャッツィにも、結構ぐっと惹かれたのだった。
僕は、働く男の映画が好きだ。
自分も働くのが好きだし、20代のころは週6日勤務で1日12時間くらい働いていた時期が2年くらいあった(まあ、ひどいプロジェクトだったw)。会社に連泊はざらで、3徹になったときに初めて幻聴を聞いた。
大学の友人にも、法曹や官公庁、大学内で出世している人間は多く、彼らの献身的で立派な仕事ぶりを見ていると、無条件に権力への反感を募らせる感覚をどうしても持てない。
それもあって、自分は企業家サイドにも心情としては宥和的だし、魅力的な人物がいたらそれはそれで好きになれるタイプである。
ウーゴの演じるドベルドは、たたき上げの社長だ。
経営者として冷徹にふるまうが、非情には徹しきれない。
どんなときでも身の危険を顧みず、現場に足を運んで直接行動する。
立てこもる労働争議の闘士たちにも、自分なりの言葉で熱く語りかける。
自らの決断の結果死にゆく男の静かな復讐に、敢えて朝まで付き合って見せる。
いい男じゃないか。そう思う。
言っていることも、たいがい正しい。
なにより、決断力とリーダーシップに長けているし、
長くトップにあっても「情」を失っていないのは立派だ。
僕の大好きな映画に『プレステージ』というのがある。
クリストファー・ノーランの有名なヤツではない。
アラン・ドロンが主演している、1976年のフランス映画である。
(ご存じの通り、アラン・ドロンはロミ・シュナイダーとかつて同棲して浮名を流したことがある。)
病的なワーカホリックの美術品ディーラーが、作中ずっと早回しのように働いて、働いて、働いて、働いて、めまぐるしく働きづめに働き倒して、最後に唐突に●●●●で●ってしまうという、壮絶で珍奇で摩訶不思議な「お仕事映画」。
誰がなんといおうと、こんなにロマンティックな夢物語はない。
僕のなかでは、アラン・ドロンが最も美しく輝いている映画として、折を観てはDVDを観直すくらい偏愛している作品である。
今回のドベルドには、この映画のアラン・ドロンと同じ香りを感じる。
こういう「出来る社長」のヴァイタリティは、なぜか僕の内側のこそばゆいところを、いたくくすぐってくるのだ。
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この映画のもう一つのメインディッシュは、エンニオ・モリコーネの甘美で切ない音楽だ。
正直言えば、僕は併映された『死刑台のメロディ』より、こちらのほうが映画音楽としてのモリコーネ・ミュージックがしっくりはまっていたように思うし、使い方にも違和感がなかった気がする。
モリコーネならではの息の長い美メロが、オーボエによって切々と吹かれて、これを聴けば誰しもが『ミッション』の「ガブリエルのオーボエ」を想起することだろう。
のちにチェリストのヨーヨー・マや、歌姫サラ・ブライトマンによってカヴァーされているくらいの有名な楽曲(僕は知らなかったが、日本ではNHKのドキュメンタリー『ルーブル美術館』のテーマ曲として知られていたらしい)で、自分も海外輸入のベスト盤で昔から聴き知っていたが、まさかこんな映画のこういうシーンで流されていたとはもちろん知らなかった。数十年を経て実際に確認できて、本当にうれしく思う。
その他、細かいことなど。
●イタリアの労働争議がどういうものかは正直まったく詳しくないが、自分のイタリアのイメージは、フェリーニやヴィスコンティやアルジェントといった昔の映画以外だと、けっこう相田裕のコミック『ガンスリンガー・ガール』によって形作られている部分が大きく(笑)、街中でしょっちゅう極左と官憲が銃撃戦を展開したり、アナーキストが爆弾を仕掛けまくったりしていても、さもありなん、やりそうやりそうとしか思えない。
そういや新婚旅行でイタリアに行ったミレニアムの頃、メーデーの日にミラノに居たら、ほぼすべての観光施設が休んでいて墓地すら入れなかったことを思い出す。昔から左派や組合が強くて労働争議が盛んな土地柄なんだよね。
●パンフを見ていると、アルベルト・ベヴィラックァ監督って、マリオ・バーヴァの『ブラック・サバス 恐怖!三つの顔』と『ヴァンパイアの惑星』の脚本も書いているんだな。後者はそれほどでもないが、『ブラック・サバス』(脚本はバーヴァとベヴィラックァにマルチェロ・フォンダートを加えた三者の連名になっている)のほうは、間違いなく世界のホラー史上に残る大傑作であり、特にオムニバス2話目の「吸血鬼ブルダラック」は必見の名作。それを考えるとやはり、ベヴィラックァを『ラ・カリファ』だけで「ダメな監督/脚本家」として断罪するのは早計な気がする。
●パンフの巻末に「まだまだあるエンニオ・モリコーネ未公開傑作選」と題したコーナーがあって、とくに『ヴェルゴーニャ・スキフォージ』(全裸の男女10人が円卓を囲む謎ビジュアル)、『カニバル~自由への鎮魂歌』(街中に死体の転がる超全体主義の某国で、死体を片付けて回る男女をアメリカン・ニューシネマ風に描く!?)、『女にシッポがあった時』(ジュリアーノ・ジェンマが原始人!)の三本はぜひ観てみたい(笑)。