ルックバックのレビュー・感想・評価
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京都アニメーション事件をこの作品のモチーフの一端としているとするの...
京都アニメーション事件をこの作品のモチーフの一端としているとするのなら、藤野ちゃんの喪失と再生には胸を締め付けられる思いです。
夢破れた者たちの思いを背負う覚悟がなければ、道は切り開かれないと思うのです。
京本さんと共同で作品を作っていた時は、あくまで漫画作りは「自分たち」のものでした。
ところが、京本さん亡きあと、藤本ちゃんの漫画作りは「自分たち」のものである場所から突き抜けて、先人たちや夢破れた者たちの思いも引き受けた覚悟をみせていたように感じました。
窓に貼り付けた4コマ漫画が、わずかに揺れています。京本さんが藤本ちゃんに(生きて夢を追う者に)、「がんばれよ!」って言っているようでした。
創作への賛歌
切り口は色々あるかもしれないけれど、自分に刺さったのは創作活動そのものへの賛歌でした。
藤野と京本がふたりで創作に費やした時間それ自体が、創作の成果物の出来や評価とは別に価値を持つ。
それこそが創作者を支えるもののひとつなのではないでしょうか。
また創作への賛歌という観点から見れば、本作であの事件の引用がなされる必然性も理解できます。
かの犯人もまた創作者のひとりであり、故に許されざる罪を犯し、それでも創作の輝きが損なわれることは無いのです。
背中(back)を見て‼️
京都アニメ事件の犠牲者への追悼から生まれた映画
この映画が完成して公開されたことは、とても大事な意義のあることだと
思います。
あの痛ましい事件の死者そして怪我して病に臥せる多くの人々。
彼らが如何に「描くことを愛し、描くことに尽くした人生だったか?」
《ひたむきな者たちの命が奪われることは、許されない‼️》
【ストーリー】
小学4年から学校新聞に4コマ漫画を掲載している藤野(声=河合優美)
は、ある意味で天才。
対して不登校の京本(声=吉田美月喜)は密かに藤野に憧れ、
自分も4コマ漫画を描いている。
小学校の卒業式の日に担任に京本の家に卒業証書を届けるように言われる。
京本の家は応答がなかった。
そうっと廊下を進むとスケッチブックの山・山・山。
ついつい4コマ漫画で、“出ておいでよ“と描いてしまう。
家の外に追いかけてきた京本は、“藤野先生“と呼び、
尊敬を隠さない。
これをきっかけに京本は藤野の背景を描くアシスタントになる。
しかし高卒後、京本は美術を学ぶため大学に入り、2人は
別れ別れになる。
そして藤野は漫画を認められて連載して、単行本を13冊も
出版する人気漫画家に成長する。
ある日、ふと描きながらTVニュースに手を止める。
東北の美術大学に、斧を持った暴漢が押し入り怪我人が出ているとの
ニュース。
京本の通う大学だ。
嫌な予感は当たる。
京本は殺されてしまう。
ショックで初めて連載を休む藤野。
葬式に行き、部屋を眺め、
あの時の事を思い出した。
自分が京本に“出ておいで‼️“と言わなければ・・・
京本は死ななかったかもしれない。
後悔の涙が頬を濡らす。
藤野(声=河合優美)の絵(漫画)への尽きることのない情熱❤️🔥愛を
通して、奪われてはならないもの。
奪ってはならないこと。
生きる事の意味と大切さを訴えている。
それでも藤野は強く生きていきたい・・・と。
女子版藤子不二雄物語、ではない
明るく自信満々の少女、藤野と、才能溢れる引きこもり不登校の女子小学生、京本がふとしたきっかけからコンビを組み、売れっ子の漫画家ユニットになっていくという話
藤本タツキ原作のコミックに登場する女の子は可愛くどこかセクシー魅力的、何かメンタルに問題を抱えた眼をしていると思っているが、アニメ化された本作でも印象は同じ
藤野が手を引いて街に出ていくシーンは美しく、「その手を離すんじゃないぞ」と心の中で呟いたが、手を離したのは引かれていた京本だった
失われた美しい日々をルックバックして、後悔と想い出、哀しみを乗り越えて前に進んでいくんだろう、多分
ただ、なんの伏線もなく訪れる凶報があまりにも唐突
この辺は原作をなぞらないと腑に落ちないのか?
神は細部に宿る、という金言通り、北の国の雪の上を歩く音、早春のアスファルトに残る溶けかけの雪の儚さ、夕暮れの稜線をくっきり照らすぼんやりとした残照など、耳目を楽しませてくれる場面がいくつもあった
よくない
鍵が空いてるからといって勝手に他人の家に上がるのはおかしいし、京本が死んだのは自分が外の世界に連れ出したからだってのもおかしい
登場人物を死なせて感動させようとするのも安直
京本が美大行くの反対したのもげんなりした
60分弱の作品で割引も効かず1700円もした
絵は良いがストーリーはゴミでした
よくない
想像の翼!
タツキ先生、原作ファンです。
全148ページの読み切り漫画を、押山清高監督が脚本とキャラデザまでも担当し、映画として届けてくれました。
上映時間が58分と短めですが、鑑賞後は、喜怒哀楽の感情全てを揺さぶられ、余韻から抜けられなくなる作品です!
まずあの線!!手書き感が堪らなかった!
映像・演出・演者の演技、BGM全てが、とにかく素晴らしかった!
(知らせを伝える電話の着信音。
あの音量が絶妙で!心臓がギュッとなりました( ; ; )
小4の藤野と不登校の京本。
漫画を描く2人の成長ストーリーで、小中・高〜その後、、と、2人の人生を描いた作品です。
ある日全てを打ち砕く事件が起きて。。
◯藤野の最初の挫折。
絵がもっと上手くなりたい一心で机に向かう藤野。その背中。
本棚の本が一冊ずつ増えていく。
間接的に描かれたそれで、悔しさや焦り、もっと絵が上手くなりたいという気持ちなど、彼女の心情が十二分に伝わってきます。
◯京本宅の廊下に積み上げられたスケッチブック!あの一瞬で全てが分かる。
短いながらも衝撃が走るシーンです!
◯京本の部屋のドアの隙間に吸い込まれる様にして消える4コマ漫画の描写の美しさ!
「出てこないで!!」「出てこい!!」
(これが後半のキーになるので)
このシーンも胸がギュッとなりました。
◯"漫画の賞"に応募する為に2人で黙々と描くシーン。
それまでは1人だった藤野の部屋には京本の姿がある。
春夏秋冬、季節の変化を、セリフ無しのあのコマだけで見せていく!
2人の情熱に感動するのです!
ペンネーム"藤野キョウ"だけで泣けるのです( ; ; )
◯事件後、京本の部屋を訪れた藤野。
「シャークキック」同じ巻が何冊も!
読者アンケートのハガキが意味する事。
ここも涙でした。
挙げればキリがない程に、全編に渡りコメントしたくなりますが、やはりこのシーン。
初めて2人が出会ったあのシーン。
まさかあんなに褒められるなんて!
「先生」と呼ばれサインまで求められるなんて!
不器用な藤野の喜びを表現した雨の中のスキップダンス!
原作でもとても好きなシーンなので、
グッ!と来ちゃいました( ; ; )
「私の背中を見て成長するんだな」
その言葉通り、背中を追いかけてくれた京本。
だけどもう後ろを振り返っても彼女はいない。
藤野の夢想するifの物語は、彼女が前に進む為のパートであり、タツキ先生がこの作品を発表した事も、生きている者へ向けられた、進め!ってメッセージだと思うのです。
どんな運命をたどったとしても、前に進み続ける事ができる人間の強さを信じてる!って事なんだと思うのです。
タツキ先生にぶっ飛ばされたけど、元気付けられた作品です。
ここまでのクオリティで見せてくれた事に只々感謝なのだけど、満点なのだけど、、
映画オリジナルで加えられた"2人が手を離す"シーンに違和感が。。
2人はずっと繋がっているよ( ; ; )
そして
あのセリフが発表当初のセリフになっていました。
◎藤野の声をあてた河合優実ちゃん。
藤野の雰囲気を上手く表現してくれており、とてもマッチしていました。
本当に多才ですね!
そんな彼女が今、出演している
「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」
皆さんご存知でしょうか?
楽しくて幸せで悲しくて悔しくて。。
とても素晴らしい作品です。
ぜひ見て欲しいです!
NHKで火曜日PM10:00、今2話まで終わったけれど、再放送あるのでチェックして下さい♪
短いけどこれで良いなって思える
まず藤本タツキの漫画をCGじゃなく手書きのアニメーションで見れた事が嬉しい。繊細な動きや演出が細部にまで行き渡っていて素晴らしかった。ところどころCGやカメラレンズの中でしか表現できないような動きもあって手書きでどうやって再現できたのか気になるところまであり実写や映画に近づいたアニメーションでこういうのが見てみたかった〜と思わせてくれました。
クリエイターの方達の積み重ねた技の下地にある時間や努力がこのストーリーと重なって、この話を映像化するにあたって中途半端にはつくれないという思いが伝わってきて目を話すのが勿体ない短いながら濃厚な時間を体感できた。
見に行く前に少し迷っていたのですがさっさと見に行っとけば良かった。その理由が宣伝の動画を見て曲に違和感を感じていてなんだか随分優しくて良い曲で妙に映画が良い話に見えてしまうのではないかと心配していたというのがあります。
個人的にあの途中からのどう気持ちを持っていけば良いのかわからない置き場のない感じが好きで、明確な答えや置き場がないから止められないっていう着地出来ないから進むしかないという様な選択を決めてもらえない心地よさが良いのに無理矢理「良い物」のハコに入って映像化されるんじゃないかなといった心配があったんですが、結果色々な人に見てもらうための配慮は感じたけど気にするほどでは無いかもしれんと納得。
藤本さんの漫画の何というか観客側が抱く感想や感情から、潔く手を放した開放感みたいなものが好きで、世界が自分とべったりしていない感じがちゃんとあったなと感じて満足して帰りました。これこそバリバリの私見なんだけどね。
どゆこと?なぜ心に響かないの?
全く何のアニメ映画なのか分からず、58分で1700円均一ですが、意を決して観てきました。
どうやら藤野と京本が2人で漫画を描く物語のようですが、どうやら京本は何故か亡くなってしまうようです。京本の死因が劇中で明かされず、どうやら斧を持った男に殺されたのかもしれないと勝手に思いこみました。
藤野は、以前自ら描いた4コマ漫画が原因で京本が自殺したとでも思っているのでしょうか。
とにかく京本の死因を明らかにしてほしかったですね。
「絵を描く」ことのリアリティを欠くのでは
原作を読んでいないので以下に書いた事は映画というよりも原作に対しての指摘になるかも知れないのですが...
以前美大を出て学校で美術の先生をしている友人に聞いた話。「漫画を目指していて描いた作品を出版社に持ち込んで見てもらったことがあったのだけど画力は問題無いけどストーリーがね...」と言われたらしい。
だから画力は漫画家になるのに一番重要な要素ではないし、画力にしても美大受験に必要な画力のようなものじゃないだろうし、画家になるような人は絵が上手くなるために描くのでなくてタダタダ絵が好きで、一つのテーマを突き詰めて描くのだろう。主人公の藤本や京本が絵が上手になりたくてたくさん練習して努力してというストーリーは見る人には分かりやすいが絵を描く人のリアリティからはかけ離れているように感じました。
ですから京本がもっと上手になりたくて美大に行きたいと言い出したときに「それって美大で身につけるものじゃないし、あなたは元々素晴らしい。自分はあなたの絵を見て漫画をまた描きたくなった。」って告白が必要だったし、最後の場面でも「私はあなたに自分の絵を褒めてもらってうれしかった。不登校だったあなたに対して世話をしてあげてるみたいな上から目線だったことゴメン。漫画を連載していると読者の人気ランキングなんてあるけど本当はそんなのどうでもいいの。あなたといっしょに漫画を描いていたい。だって私はあなたの絵の一番のファンなのだから」なんて台詞ほしかったなあ。
週刊少年ジャンプに連載されている藤本タツキ先生だからこそちょっととがった台詞書いてほしかったなあ、なんてかってなことを思いました。
いい映画だっただけに絵を描く人としてのリアリティが欠けたところと台詞でもう一押したたみこんで来てほしかったなあ残念と思い。5点満点中3.5点としました。
見届ける気持ちで鑑賞しました
原作を公開時に読み、今回映画を観てきました。
原作を読んだ時は、面白かったとか感動した…というよりは、「ああ、このことを描いておかねばならなかったんだな」という感想を持ちました。
なので今回の映画も、「アニメーションにしなければならなかったんだな」と思い、いち漫画・アニメファンとして見届ける気持ちで見に行きました。素晴らしかったです。
絵を描く仕事をする人は、絵を描くのが好きな子供だった全ての人たちのヒーローだと思います。そんなヒーローたちも、始まりは同じ「絵を描くのが好きな子供」だったことを感じさせてくれる作品だと思いましたし、その姿のきらめきがとても愛おしかったです。
であればこそ、起こってしまった出来事に対するこのやり場のない気持ちを、言葉ではなく絵で残されたことに、深い尊敬の念を抱きました。
一本の映画作品てして傑出したものに
ルックバック・・・振り返ってみる、回顧する、追憶する、後退する、うまくいかなくなる・・という意味からも藤野と京本の関係性の状態と変遷を表したタイトルですね。
たまに時間が空くと映画でも・・とジャンル問わず時折映画館に足を運ぶくらいで、今回も観に行こうと思ったキッカケは「1700円定額・58分・結構話題になっている」くらいなもので原作はおろか「チェンソーマン」も読んでいない状態での鑑賞。・・・結果、心を鷲掴みにされ・涙が溢れ・寂寥感の様な切ない気持ちになり・なかなか余韻が抜けない状態になりました(余韻の継続時間が自分基準での作品の出来を決めている様なところこがあります)。
何でこんな不意打ちを食らった様な状態になったかとルックバックすると、2人のキャラクターが魅力的で、絵が綺麗、人間が皆持ちあわせている厄介(妬み、嫉み、素直になれない)な感情の危うい取扱方、タイムリープが出来たなら京本は今でも・・という切なる空想、相当に効果的だった音楽等々色々練って作り込まれた事が相乗効果を産み、傑出した1つの映画作品となった・・と自分なりに結論付けました。
蛇足ですが、作中の京本が通う大学が映画館から車で10分くらいのところにあったので鑑賞後正門前まで行って(休みなので勿論閑散としてました)みました。原作者が在籍していた事も先程知ったばかりという感じで何の前情報も無い中での鑑賞でした。
最後にこれも蛇足で細かい事ですが、京本の東北訛りは地元民からすれば「近い所まで迫っているものの、土着のものではない綺麗になぞった訛り」という感じでしたが作品に影響をあたえるものでは勿論ありませんでした。
心から行って良かったと思えた映画でした。
原作は何度も読みましたが...
藤野が初めて京本の漫画を見た時、クラスメイトから「京本の絵と並ぶと、藤野の絵は普通だな」
と言われるシーンがありましたが、まさしく私も小学生のとき、クラスで一番絵が上手かった人と一緒に絵を描いてるときに、同じような事を友達から言われたことを思い出しました。それがキッカケの一つとなり、段々絵を描くのをやめてしまった私とは違い、反骨心を持って漫画に打ち込んだ藤野を見て、過去の自分に対する後悔と、努力を惜しまない彼女に対する尊敬の念が湧いてきて、思わず泣いてしまいました。
タイトルにもある通り、このシーン自体は漫画で何度も読んだことがありますが、映像化されたことによって、藤野の書き殴るような必死な表情や動作を見ることができ、より彼女の熱い思いが伝わってきました。
Don't look back in anger
漫画で読んで分かりにくかった部分、描かれていなかった部分も58分尺ということで映画では細めに描かれていた。
なにかにチャレンジするという意味では、私たち他の人間にも藤野と京本に共通する点があるのではないか。違う才能を持った2人(特に京本)の藤野に追いつきたい。並びたいという気持ちが痛いほど伝わってくる。
いつかは超作画の漫画を藤野と一緒に連載するために大学で絵の勉強をしながらも、影ではシャークキックを応援していたところに気づく藤野のシーンには涙。
今もこれからも藤野は京本の為に漫画を描き続けるだろう。
藤本タツキ先生のバックグラウンドを知ると、より楽しめると思う。
運命の出会いと別れ
人は一人では頑張れないし、変われない。自分より絵の上手い不登校の同級生に触発され、絵に真剣に向き合うようになった主人公。一方、不登校の同級生も主人公の漫画に触発されていた。2人が出会い、化学反応が起こるも、ずっと一緒にはいられない。別れの痛み、そして…。キッズリターンズ的な展開を予想していたが、大いに裏切られた。1時間とは思えない濃密な映画だった。
「絵描きの才能」をめぐるクセの強い友情物語に、アニメーターたちがガチンコ作画で挑む!
基本的には、王道のバディものであり、シスターフッドもの。
泣けるかといえば、ちゃんと少しだけ、ラストで涙がちょちょぎれた。
でも、結構くせのある話だよね、これ(笑)。
くせがある分、心に残る良いアニメ、ということだろうけど。
何が一番くせがあるかというと、ヒロイン・藤野の性格設定。
というか、この性格設定でヒロインに「挫折させない」のは、結構「斬新」だと思う。
いや、精確にいえば、彼女だって挫折していないわけじゃないし、相応にダメージもくらってるんだけど、物語として、こういうタイプのヒロインが「断罪されないままのさばって、そのまま終わる」話って、意外と少ないと思うんですよ。
とにかく偉そうで、高慢で、マウントを取りたがるタイプ。
お調子のりで、努力家ではあるけど、融通がきかない。
頑張った結果が伴わなければ、自尊心が折れて逃亡する。
でも、褒められたら有頂天になって、今度は大望を抱く。
相手との関係性を、「あたしについてこい」で規定して平気な人間。
相手の有り余る才能を自分の夢のために搾取して、なんとも思わない人間。
相手の善意と友情をナチュラルに「主従関係」にすり替えて、恬として恥じない人間。
こういうヒロインはいていいと思うし、
むしろ嫌いじゃない。
人間くさいし、生々しいし、意外に悪いヤツじゃない。
表面に出さないだけで猛烈に葛藤しているあたり、可愛いところもある。
でも、この手のヒロインって、たいがい物語のなかで「鼻をへし折られる」し、隷属させていた相手に反逆されたり、才能の逆転を見せつけられたり、周囲に性格の問題を指摘されたりして、「自分の分を知る」展開が待っていることがほとんどだと思う。
でも、このお話では、そういう「罰」がヒロインに与えられない。
そこは、本当に「珍しい」というか、「くせがある」と思う。
彼女は、たしかに「後悔」する。
取り返しがつかない現実が起きたあとで。
自分が京本に対して相応に遇してこなかったことを。
素直に、相手の才能への賞賛を与えてこなかったことを。
あなたが一緒にいてくれてよかったと伝えてこなかったことを。
だが、物語上の流れからいうと、
藤野はやはり、厚遇されている。間違いなく。
どんなに藤野が上から京本に当たろうと、
どんなに同い年なのにマウントをとろうと、
藤野は京本に嫌われない。
京本にとって、藤野はつねに「先生」で「ヒーロー」で「恩人」だ。
京本の藤野「愛」は猛烈で、尽きることがなく、盲目的。
京本も最後は「自分の夢」に目覚めて、共同作業者としては藤野と袂を分かつことになるけれど、別段、藤野のことが嫌いになったわけではない。藤野への悪感情はないまま、「外に連れ出してもらって、成長させてもらったおかげで生まれた自分なりの夢」の実現のために「巣だっていった」というのが、正しい認識だろう。
「私についてくればさっ、全部上手くいくんだよ?」
「まあ、この子は背景を描いてるだけなんですけど」
こういう言いぐさを平気で出来るキャラでありながら、
藤野は最後まで「罰せられる」ことがない。
彼女は、引きこもりだった絵の天才を自分の「まんが道」に巧みに取り込み、才能を搾取し、友達面でさんざんこき使ったうえ、なんと最初の持ち込みチャレンジで、佳作を勝ち取ってしまう。
そこからもとんとん拍子で、中高を通じて読み切り7本を重ね、ついには連載をゲット。
彼女は結局、漫画家としては一度も「挫折」していない。
で、京本が美大進学のために共同作業から離れたら、とたんに画力が落ちて、人気がなくなり、泥を舐めるはめになるかというと(凡百の作品だとついやりがちだよね?)、まるでそんなことにはならない(笑)。
たしかにジャンプの人気投票システムは過酷だし、順位は上がったり下がったりで大変だが、彼女は持ち前の根性とたゆまない努力で、苛烈な漫画家間の競争を勝ち抜き、連載の巻数を重ね、ついにはアニメ化にまでたどり着く。
要するに、彼女には「本当に才能があった」のだ。
小学4年生のときに京本が信じ、ほれ込んだ才能が。
僕たち「外野」の人間(観客)から見ると、ヘタウマにしか見えない絵で(しかもあれだけ教本を買って練習し倒してもたいして成長しているようには見えなかった画力で)、4コマとしてもたいして面白いとはいいがたい内容だったとしても、「京本が見出した藤野の才能」は、本当の本当に、ホンモノだったのだ。
藤野は、なんにつけ偉そうだ。
藤野は、それでも断罪されない。
藤野は、成功する。
藤野は、それでも愛されキャラのままだ。
藤野は、許される。
藤野には、才能があるから。
このへんが、僕が「くせがある作品」と感じた中核だ。
「もしかして原作者の藤本タツキは、藤野と京本の関係性を、素で肯定的にとらえているんじゃないのか???」
「もしかして絵描きの世界では、本当に物語を作る才能を持った一握りの人間を支えるためなら、絵の巧いだけの有象無象はアシとして奴隷のように仕えてそれで良しという思想が当たり前だということなのか???」
こういった「違和感」を、藤本タツキは巧みな語り口と自然なキャラクター描写で、力業でねじ伏せてくる。僕たち観客にも、いつしか藤野というクセモノキャラを肯定的にとらえ、寄り添って応援し、ろくでなしだけど嫌えない友人であるかのように扱うよう強要してくる。
そこが「よくできているけど、くせがある」。
そういうことだ。
この「価値観」――端的にいえば「才能のある人間はマウントをとって良い」「主従関係で規定されてもなお女子の友情は成立する」――をふりかざして、漫画描きでもない読み手に同意を求めるというのは、結構無謀だし、あぶなっかしいやり口だと思う。
でも、藤本タツキはそれをちゃんとやり遂げた。
やり遂げているからこそ、「このマンガがすごい!」2022オトコ編で一位を獲得したわけだし、このアニメ化においても4点を超える高評価を見事に勝ち得ているわけだ。
僕も、観ながらいつしか「こういう友情もありかもなあ」と妙に「説得」されてしまった(笑)。
『チェンソーマン』のアニメ(僕は未見)を視聴したうちの妻曰く、そっちのヒロインも似たり寄ったりのキャラらしいし、主人公はそういう女にこき使われることになんの疑念も抱かないタイプらしい。そうなってくると、藤野と京本のキャラ設定は藤本タツキの作家的個性そのものと繫がっているということかもしれないが……。
― ― ―
もう一点、クセがあると思ったのが、終盤の展開。
みんなは、唐突に訪れる京本のアレって、違和感なかったのかな?
申しわけないけど、僕は大ありだった。
いや、突然死んでもいいんだよ?
でも、なんでいきなり青葉ってんの??
『君の膵臓をたべたい』で似たような展開が起きたときも、さすがに怒っていいのか笑っていいのかわからないくらい呆れたけど……。
というか、観ながら思ったんだよね。
「なんで、震災で亡くなったことにしないんだろう?」って。時代設定的に。
そっちのほうが、話としてはよほど自然じゃないのかな、と。
で、帰ってからパンフを見たら、まさに東日本大震災を契機に生まれた作品だというではないか。そうだとすると、逆に藤本タツキにとっては、震災というネタは「あまりに生々しすぎて、作品に取り入れ難いファクター」だったのかもしれない……。
でも、この物語の流れのなかで、罪のない京本が、才能のないルサンチマンの犠牲となる展開は、作品のテーマとあまりうまくフィットしているようにはどうしても思えず、いやな夾雑物というか、ちょっと何かが本質からズレてしまったような、「うまくいっていない」感じがしてならなかった。
それ以外は、多少強引なヒロインの性格や物語の展開も含めて大いに説得力があっただけに、気になったってところかなあ。
― ― ―
で、ここまでが未読だった「原作」由来の感想だが、アニメ化としてはもう文句なしだったのではないでしょうか。
なんか、「絵を描くこと」と「才能」と「共同作業」と「友情」をメインテーマとする、ある意味「まさに自分たちの物語」に、監督とアニメーターがガチのがっぷり四つで挑戦して、死に物狂いで「自分たちも巧く描ける側の人間」であることを証明しようとしているかのような、そういうリアルなバトル感があって素晴らしかった。
冒頭の、手描き作画の夜空を満月を中心にぐるりと水平回転させたあと、今度は天地をぐるりと縦に回してみせる珍しい試みからして、「俺たちは今回手描きで勝負するんだ」という意気込みがビンビンに伝わって来る(笑)。
場面変わって、藤野の部屋。動かない画面と時間に、漫画を描くことに必要な「根気」と「身体性」がにじみ出る。貧乏ゆすりと床の紙ごみにはヒロインの煩悶があらわれる。鏡の映り込みを使って、表情だけ抜いてくるやり口は実に映画的だ。
動かない画面に退屈して、つい画面のすみずみにまで目をやってしまった観客は、そこに散りばめられた様々な前提となる要素に気付くことだろう。
低山を前方に臨む田舎の風景。一戸建ての二階に住むそれなりの家庭環境。前方の赤いランドセルからわかるヒロインの年齢と時代設定。机の上の4コマ漫画のネタ帳。棚にならんだ漫画誌。あとでパンフで確認したら「りぼん」「ジャンプ」「ふれんど」とある。「Salut」は「ちゃお」のフランス読みってことでよろしいか?(笑)。良く観たら時計は5時。要するにこの子は締め切りに間に合わなくて、「朝まで四コマ漫画を推敲しつづけていた」のだ。
アニメーターとしての押山清高監督の「勝利」を確信したのは、京本に認められた喜びを爆発させながら、雨のなかで藤野が奇怪なステップを踏みながら帰っていく描写を観たときだった。あれはマジで、アニメ史に残るくらいの名シーンではないだろうか。
あそこに、作り手は「セリフとしては語られない」藤野のさまざまな思いをすべてぶちこまねばならなかった。そして、それをガチで成功させた。
たかが引きこもりの京本に画力で負けたという挫折感。
いくら努力しても追いつけない、埋められない能力差。
命を懸けていた漫画から、距離を置くくらいの絶望感。
そんな凄い相手に自分が認められていたという望外の喜び。
自分には「本物のファン一号がいた」という矜持と自信。
やっぱり自分は漫画を描いていいんだ、という解放感。
そういったルサンチマンの解放が、雨のなか有頂天になって踊り歩く少女の「アニメーション/アクション」という形で、見事に結実している。
この「ロケットスタート」が、そのまま彼女を天下のジャンプ連載漫画家にまで導く原動力にもなっているわけで、そんな物語上の「重み」に負けないだけの「凄い作画&動画」に仕上がっている。これを観られただけでも、映画館に足を運んだ甲斐はあったと思う。
あと、持込漫画がいかにも手塚賞応募作っぽい外観をしていたり、そのあと徐々に画力があがるなかで、星野之宣や楳図かずおの初期作みたいな作風を示してたり、いろいろ細かいネタを投下してあって楽しい。ときどき挿入される湖上に遊び空を駆ける白鳥も、現地感と季節感を出している。
一番びっくりしたのが、京本が別れを切り出す場面。
後ろを向いた藤野の顔に、初めて「漫符」としての「汗」が描き込まれるのにも、どきっとさせられるのだが、そのあと一瞬、藤野がとにかくまあ凄い顔をするんだよね。
衝撃と反撥と危機感と焦りと怒りと悲しみと懇願がひしめき合っているような。
描き手が心から観客に自慢したくなるような、神作画。
でも、監督はそれを1秒で、さくっと流してしまう。
敢えて、強調しない。止めて、誇らない。
それは、藤野が誰にも見られたくない表情だから。
この辺に、監督の度量というか、本気度が伝わって来て本当に良かった。
あとは、IF分岐とも藤野の妄想ともいえそうな終盤の展開の解釈とか、河合優実の話とかをぜひしたかったのだが、残念、紙幅が尽きました(笑)。
まずは、ほんとに良いアニメでした!
ストーリーについて
原作は未読でしたがレビューの高さに惹かれて鑑賞しました。
前半宮本が外に出られるようになって一緒に制作活動をする楽しさも描かれていてよかったのですが、後半唐突に京アニ事件を想起させる事件が起こります。
まさかそのようなことが起こるとは思っていなかったので、その後のストーリーも当時のことが甦ってしまい、引きずられるようにストーリーもあまり頭に入らず話が終わってしまいました。
制作活動にひたむきな青春物語なのかなと思って見に行ったので、できれば事件を連想させる描写があることをポスターやホームページに記載してほしかったのと、正直この事件を元に描かれる必要が本当にあったのか初見だと謎に感じ、見る側としてはただただ当時の感情を思い出して重たい気持ちになりました。それがゆえにこの事件を取り入れた理由も明確に知りたいと感じましたし、軽く扱われてしまっていると捉えられても仕方がないと思います。
この映画が流行っていることは個人的に複雑で、言葉を選ばなければ残念に思います。
短いながらも秀作
丁寧に作られたアニメでした。コンビ解消してもペンネームを藤野キョウから変えなかったのは、いつかまた二人で漫画を描く日がくるのを信じていたんだろうな。編集者との電話での受け答えに主人公の成長を感じました。
原作の漫画は京都アニメーションの放火事件を思わせる描写があるということでネットで炎上したそうですが、俺のネタをパクっただろ!と事件を起こした犯人のアイデアをパクるというメタな「パクり」はむしろ犯人に対する皮肉が効いてると感じました。炎上して内容を修正したそうですが、修正後のものしか知らないわたしには修正するような内容だったのかはよくわかりません。
季節の移り変わりが、淡々と窓の外の景色の変化で表現されていたり、小津安二郎作品を思わせる低ーいアングルからの固定ショットがそこここに出てくるのもわたし好みでした。
映画館は高校生〜大学生ぐらいのお客さんが多かったです。上映時間58分は昭和生まれのわたしは短いかなと思うけど、YouTube世代の彼らにはちょうどいい長さなのかもしれない。
マンガを描く少女の成長譚
自分より上手い絵を見て受ける衝撃、その相手に認められた喜び、描く辛さ、描きあげる喜び、受賞の喜び、パートナーとのすれ違いと別れ、絶望からの再生…色んな感情をマンガの線の質感を忠実に再現しつつ美しい映像として昇華されている。
が、そこまで心に刺さる感動にはならなかった。レビューには泣けた話がたくさんあるが、クリエイティブに対する経験不足なのか感性の問題なのかいまいち感情移入しきれず。
この空気感を味わうのにこのストーリーでよかったのか
主人公2人が手を引き、引かれながら街中を駆け抜けるシーンを予告編で見て魅力的に思い、普段アニメを見ないのだが本編を鑑賞。
藤野は漫画に執着しているくせに努力を人に見せず、片手間で書けるように振る舞う。そこに強力なライバルの京本が現れ、必死に漫画に打ち込んだり、逆に筆を折ったりと漫画家生命を脅かされる。ある偶然が作用して、その京本とタッグを組むことになる。世知に長け虚勢を張る藤野とは対照的に、京本は純粋に藤野の才能を信奉する。
対人緊張で常に前髪で顔を隠している京本、普段はクールだが京本に褒められた嬉しさを一人になると爆発させる藤野。タイプの違う2人が出会い、広い世界に向けて自分を解放していくストーリーはちょうど「ソウルメイト」のようだ。
そうした2人の関係性が生き生きと伝わってくる映画なのだが、その空気感を味わううえで肝心のストーリーにひっかかってしまった。京本が事件に巻き込まれたあと、藤野は京本を漫画の世界に引き込んだこと自体を後悔する。それでも漫画を愛する気持ちは藤野も同じだったことを確認し、書き続けることを選ぶ。そのような結論だったように見えた。
しかしこのストーリーは、藤野と京本のすれ違いや別れのドラマを逆に薄めてしまったのではないか。あまりの大事件を持ち込むことで、それらの人間関係の機微が吹き飛んでしまったように思う。かつて藤野は京本に、「京本は背景を書いているだけ」と言い放った。人物を得意とする藤野と背景を描く京本、たとえばそのコラボレーションと葛藤などが深められるのかと思ったのだが(もしかすると「ルックバック」というタイトルに「背景」の含みがあるのだろうか)。
事件のあと回想シーンとして描かれる、2人が漫画に打ち込む長い時間。これも理不尽な事件のあとだからどうしても類型的な感動シーンのように見えるが、もう少し日常の姿として丁寧に描かれていたら本当に切ない場面になったのではと思う。
人間味溢れる主人公と純粋な相棒
視聴者に何を見せて、何を見せないかが巧みに選別されている。見せていない部分は表情や直後の展開でわかるようになっている。
本作のタイトルにもなっている「背中」
というテーマが、作中で別の表現で何度も登場する。いずれも展開を壊すことなくさりげなく組み込まれている。
上映時間が1時間とは思えないほど内容が濃く、もっと観ていたいと感じる不思議な魅力がある映画だった。
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