ルックバックのレビュー・感想・評価
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この作品が「アニメ化をして良かった」と思える理由。
◯作品全体
本作がアニメ化されると聞いたとき、果たしてアニメ化する必要があるか、と思った。物語としても足し引きがこれ以上いらないように感じたし、マンガを題材にしている作品だからこそ、マンガという媒体で表現した時点で完成されているのではないかと感じた。そしてなにより原作が公開されたタイミングこそが、自分の心の中に深く刺さる理由だったからだ。
ただ、監督が押山清高さんだと発表された時に、それだけではない何かが見られることを予感したし、実際に本作を見て、そのとおりだったことが嬉しかった。
この作品にはアニメだからこその原作とは異なる表現があった。それは「喜び」だ。
物語としてはほとんど原作と同じだが、原作の雰囲気では表現しきれない喜びの場面や表現は、アニメーションを活かしたものだった。
なにより「アニメだからこそ」と言い切りたいのは、京本に褒められたあと藤野が家へ帰るシーン。スケール感あるカメラワークとバラバラのフォームでスキップする藤野の大げさな感じが、藤野の心で爆発する喜びに直結していた。いろいろな角度やカメラの距離感で藤野を映しているのも素晴らしい。どこから見ても溢れている藤野の喜びは水たまりや背中のランドセルに反射する光ともリンクしていて、カメラの位置や藤野の動きによって光り方が変化する。アニメーションで描くには非常に難易度のあるレイアウトだが、破綻させず、そして押山監督のタイミングとタッチを加え、唯一無二の「喜び」を表現していた。
藤野の「喜び」に対して京本の「喜び」の表現は、外へ出かける二人のつないだ手と、手を引く藤野を見る京本の主観カットだ。絵を描く楽しさと、自分の世界を広げてくれる道しるべのような存在である藤野。その藤野との時間を京本だけが感じることができる「喜び」を主観カットで表現する巧さ。京本から見た藤野とその周りとのディティールや色味、彩度の差異は、アニメーションだからこそできる強弱の付け方だ。
原作を読んだ時、「京本が死んだの私のせいじゃん」という言葉が完璧に払しょくされたラストとは感じなかった。藤野の下へ落ちてきた4コマを受取り、「京本の分まで」というような決意を含んでいたように見えた。原作者・藤本タツキの描く人物は、そういう「影」とか「重さ」を眼に宿しているからだと思う。それが藤本作品の好きな部分でもあり、原作の持ち味でもあるのは確かだ。
しかし本作では「喜び」の表現があったことで、4コマを受取った藤野の回想が「それでも今まで京本と感じた喜びや経験は消えずにある」という前向きな感情を含んだもののように映った。振り返ることを贖罪のように「背負う」とした原作と、自分を形作るかけがえなのない時間として「胸に抱く」とした本作の差異が、この場面で強く出たように感じた。
物語の筋はほとんど変わらない原作と本作。しかしそれぞれの媒体の特徴と、それぞれの作家性によって受取るものは大きく異なっていて、それぞれに説得力がある。こういう作品を見た時、私は「この作品がアニメ化して良かった」と、心の底から思うのだ。
〇カメラワークとか
・極端な俯瞰やあおりのカットは前半と後半で割合が異なっていた。前半は俯瞰が多い。ファーストカットもそうだし、京本の家へ行くシーンや、藤野が喜びを爆発させるシーンも。個人的には後半と対比する「世界の小ささ」の演出に感じた。ファーストカットは宇宙から藤野の家へとクローズアップしていく。小さな日本の、小さな町の、小さな家の小さな部屋。そこから始まる小さな物語…というような。
一方で後半はあおりのカットが印象に残った。例えば京本が美大へ行くことを藤野へ伝えるカット。京本の横顔をあおりで捉え、奥には夕空から夜へと変わりつつある空を映す。物語の予兆でもあり、「宇宙の入り口」のような夜空を感じさせる空でもあった。
〇その他
・一番好きなカットは、京本の描いた4コマが藤野の足元へと落ちるシーンのカーテンのカット。この作品の一番のファンタジーは4コマを流す風だと思うんだけど、フィクションでたまに見るこの表現は実写だと凄く嘘くさくなるし、マンガでは静止画でしか表現できない。でも、アニメだと嘘くささがないし、その動きを表現できる。このカットの風は絶望に沈み切った藤野を救う風であって、その風が誰かを救うことができるのは前半で証明してる。ここで風が吹くということを視聴者側も含めてみんなが願っている中で、ふわっとカーテンが揺れて風が流れていく。その風には藤野が再び前を向くことを願う感情が乗っているような気がして、とてもグッときた。カーテンのなびき作画もとても良かった。部屋の中へ風を押し込もうとする透明な手が見えるような、そんななびき方だった。
友達は要らない。共に戦う仲間を集え。
などという受け売りを何処かで聴いたことがあります。これは極端な考えです。極端に尖った人生を送りたければ、友達は要らない。一緒に協力して目標を目指すための仲間が必要だということです。
ここでいう友達とは、一緒に遊んで共感しあい、日々の生活の楽しみや愚痴や思い出話に浸る遊び仲間のことです。学校の帰りにアイスを食べたり、家族と一緒にテレビを見たり。主人公・藤野が途中で漫画を書くのを止めて送った日々がそれです。
漫画を書く。芸術を極める。誰よりも上手くなり、自分の希少価値を高めて、収益を得られるほどの専門家となる。この映画でいう「漫画家を目指す」という道はそういうことではないかと思いました。遊びも勉強も何もかも捨てて、一心不乱に書き続ける。ただ、書き続けるバカになれ。さっさと書け、バカ。ということでしょう。
勿論、そういう人生ではなく友達と遊び、家族と共に過ごして人間関係を大切にする人生を送る方がよっぽど素晴らしいかも知れません。主人公・藤野のお姉さんが苦言した通りです。お姉さんのいうことは実に正しい。
そこに引きこもり・京本が現れた。京本は藤野を「藤野先生」と呼んでいたが、画力に関してだけは京本が圧倒的に上。その理由は劇中で描かれていた通り、ただ書くだけの生活を送っていた京本が上なのは当たりまえ。画力に限れば京本の方が「先生」と呼んだ方が良さそうだけど、書くばかりで普通の生活を知らず、漫画を書いてもオチもストーリーも皆無に近い。それと比べて、ある程度は社会に適合していた主人公・藤野の方が漫画家としての持ちネタが豊富。世間を知ることも漫画家には大事。だから、本物の漫画家が取材のため休載するのはその理由。専門家じゃないんだから料理や警察、競馬に競艇、格闘技など知識が必要。
そういえば、劇中でテレビをつけっぱなしで仕事をしていたけど、そういうのも必要なんだそうですね。無意識に知識を流し込む。日々、ネタ集めの勉強が必要で、ネタ帳片手などもそのため。お笑い芸人さんだってJR環状線回りっぱなしで人間観察するのだとか。
いろいろ長文を並べちゃいましたが、劇中の彼女達の動向がいちいち納得できるということです。この作品はアニメーター自身の自分語りに相当するお話で、自分達が送ってきた自分達の物語を描いているから、取材不要でリアリズムにあふれた作品づくりが出来たのでは無いかと思います。いや、本当のところ、作家さんの生活はそこまで詳しくないけど。
入選して貰った賞金でお祝いする二人の様子も、なんだか判る気がするなあ。10万円用意して、結局、5千円しか使えなかった点。遊びを知らない二人だから、どんなに頑張っても、それぐらいしか無駄遣いが出来ないんでしょう。いや、よく頑張ったと思います。美味しいもの食べても話が弾む二人なのかどうか。ぜったい間が持たずに「次行こう。えっと何処行こう」って迷っているはずw これから書く作品のネタとか、そういう話なら弾みそうだけど。常に遊びを知らず延々と作業に勤しむ二人だからこそ、無駄遣いの仕方も知らない。
そんな目標に進むだけの二人が唯一、過去を振り返ったシーン。それがラストの走馬灯ではなかったかと思います。IFの世界にタイムスリップした引きこもり・京本が、主人公・藤野が鍛えた空手で助けられ、そのタイムスリップならぬタイムトリップから我に返って見た走馬灯。それが唯一、藤野が京本と共に思い出話に浸った走馬灯ではなかったか。死に至り、最後だからこそ二人で振り返った走馬灯。遊びを知らず、ひたすら書き続けた二人の思い出。さぞ、「あのときはこうだったね」と語り明かしたかったことでしょう。作画の使い回しではなく、二人で過ごした日々が生き生きと描かれていたシーンが、とてつもないほど愛おしかった。
でも振り返るのは其処まで。藤野はまた、タブレットに向かって走り出す。その姿を見続けるスタッフロールで幕が閉じられましたが、何の苦も無く、夜明けまで書き続ける彼女の姿を、最後まで見届けることが出来ました。上映中の他のお客さんもそうだったのかな。今回、劇場では灯りが付くまで誰一人立ち上がる人は居ませんでした。
勿論、劇中の事件は例の京アニ事件がモデルでしょう。経緯は知りませんが、あの事件のやりきれなかった悔しさをぶつけたのがこの作品だったのかも知れません。
あの犯人が何を奪ったのか。若い頃からひたすら書き続ける日々を送っていた漫画家やアニメーター、イラストレーターがどれほどの研鑽を重ねてきたのか。自分の思い込みだけで全てを台無しにしてしまったのだぞ、と。
こうした画力のみならず、音楽家・芸術家やスポーツなど、専門の技術で生きていくためには、並大抵の努力と経験では成し得ない人生を歩むほかはないのでしょう。いや、自分はそうでないけど、なんとなく判る気がします。仕事は希少価値です。例えば、絵描きになりたければ少なくとも全国で100位以内ぐらい絵が上手くなければ名は売れないでしょう。100位です。1億ウン千万人中のトップ100位です。100人以上、絵描きの名をあげれますか? 上手くなるだけでなく、売れっ子になるというのはそういうことだと私は思います。
本当に何かを目指している人。頑張って。
描く理由と喜びと、そしてレクイエム
これは、映画だ。原作を初めて読んだ時、そう思った。
藤本タツキの漫画は「ルックバック」「さよなら絵梨」の読切2作しか読んでいないので、作者について十分に語る言葉を持たないが、カット割や絵で語る表現など、そのままスクリーンに落とし込んでも違和感がないように思えた。
そんな原作のアニメ化。尺は58分と短い。余計なものが付け加えられることはなさそうだとは思ったが、想像以上に原作に忠実だった。それでいて、既に内容を知っている私にも改めて刺さるものがあり、2時間の佳作映画に引けを取らない見応えに心が震えた。
やはり、「ルックバック」の語り方は映画だった。忠実な映像化でそれが証明された気がする。
物語の主題はふたつあると私は受け止めている。
ひとつは、藤本タツキの創作衝動の原点だ。何が彼に作品を描かせるのかということを、主人公の藤野の言動に仮託して語っている。絵の上手い京本への健全なライバル心に突き動かされるところから始まり、やがては彼女と創作の喜びを分かち合い、その分かち合い自体がモチベーションになってゆく。
小学生の藤野は、ちょっと共感性羞恥を覚えるようなキャラだ。井の中の蛙であるがゆえの万能感……とはいえ、あの4コマ漫画の起承転結は、藤野の方が最初から十分上手いのだ。この才能の方が漫画家には重要だと思うが、藤野は京本の絵を見て落ち込み、やがては描くことをやめてしまう。
その後、卒業式の日に京本と出会わず、あの賞賛を受けなかった世界線では、大学生くらいの年齢になるまで漫画を描かないまま空手を嗜むなどして過ごしている。誰かから認められること、喜ばれることが、いかに人に勇気を与えるか。また、そこから得られる喜びは時に人生をも変え得る力を持つということが、2つの世界線の対比から伝わってくる。
終盤の、「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」という問いへの答えとして流れる走馬灯は、原作よりも多くの場面を描き出している。だから自分は描くんだ、という藤本タツキの声が聞こえてくるようだ。彼にとっての京本は、似たような関係の身近な誰かかもしれないし、あるいは読者なのかもしれない。そしてその動機は、多くのクリエイターに共通するものでもあるだろう。
もうひとつは、京アニ事件の鎮魂だ。私個人の解釈に過ぎないことを前置きしておく。
物語終盤で京本を襲う通り魔の台詞や表現。原作が発表された当時「統合失調症を想起させる表現」「京アニ事件の遺族・関係者に対し無遠慮だ」といった声が一部であがった。また、精神科医の斉藤環氏が、藤本ファンを公言し本作を称賛しながらも「通り魔の描写だけネガティブなステレオタイプ、つまりスティグマ的になっている。単行本化に際してはご配慮いただければ」とツイートし、noteでもその主張を補足する記事をあげた。そういった意見を受けてか、通り魔の台詞は2回に渡り変更された。ただ、最終的に単行本に収録されたバージョンは、1回目の修正で別の言葉に変更されていた「元々俺のをパクったんだっただろ!?」が「パクってんじゃねえええええ」となって(ある程度)復活し(直前の台詞も変化しているが、長くなるので割愛)、映画でもそのまま使われている。
多くの人に読まれた作品だからこそ、さまざまな見方が出てくるのは仕方ない。誤った見方が広まるのではという心配も、わからなくもない。だが個人的にはあのシーンは京アニ事件に向けたもので、修正前の通り魔の台詞は、あのキャラクターから事件の犯人個人を想起させるためのものに見えた。だからあの台詞には必然性があった。心を病んだ人の単なるステレオタイプだとは思わない。
そして、あのパラレルワールドは「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」のオマージュだ。
(以下、「ワンス・〜」の結末を書きます)
史実では人違いでシャロン・テートを殺害したマンソン・ファミリーを、映画ではクリフとリックが完膚なきまでにボコボコにし、凶行が起こらない世界が描かれた。
現実世界の理不尽な悲劇に、フィクションの世界でだけでもささやかに、せめてもの仇討ちをする。そして、クリエイターたちの情熱はそんな理不尽になど負けないと、高らかに宣言する。本作は、そんな切実な思いのこもった物語でもあるのではないだろうか。
その物語が映像として動き出し、そういったメッセージとともにアニメーション表現の素晴らしさをも伝えてゆく。そんな熱い58分間なのだと思う。
未来と現在、決して元には戻れないからこその決断の重要性を教えてくれる
クリエイティブな仕事における才能、情熱、そして人との繋がりを軸として物語が展開される非常に奥深いものでした。
単なる青春ドラマではなく、ビジネスの成長やリーダーシップの本質に通じるテーマが数多く見えました。
一見、対照的な2人の少女(藤野と京本)が、それぞれの得意分野や情熱を活かしてお互いに切磋琢磨しながら夢を追いかける姿はチームワークの在り方を描いているようでした。
藤野の行動力や結果に対するこだわりは、ビジネスで言えば「プロジェクトを前進させる実行力」。一方、京本の職人的な集中力や繊細な技術は、「製品やサービスの品質を高める専門性」と捉えることが出来ます。
何かを成し遂げるために必要なのは、才能やスキルだけではなく「人との相互関係」だということを教えてくれました。しかしながら、後半ではバランスが崩壊し、関係に亀裂が生じます。自分の力を試したい京本の気持ち、一緒にやっていきたい藤野の気持ち、両方のことが大切だと思う反面、どこかで人生にとって選択を迫られるものだと感じました。
結果的には人は一人では生きていけないものの、選択は自分自身で行っていく必要があります。そのときに信関係がどう働くのか、、、物凄く考えさせられる展開でした。
過去の決断が現在にどのような影響を与えるかを問いかける構成は、長期的なビジョンを見据える大切さと、目の前で前進していくために突っ走る行動力の両方が必要であることを教えてくれました。
創造性やチームワーク、時間の使い方を考えさせられるこの作品では、
時に立ち止まり「過去を振り返る」ことで、未来をより良いものにするヒントが得られる。そんなメッセージを儚さを含みながらも静かに力強く描いているそんな作品でした。
良いです。
河合さんが声をやっているの、後から知ってびっくりしました、プロの声優さんだと思っていたので、すごいです。
そしてチェンソーマンの作者さんのアニメと知ったのがきっかけで見ましたが、すごく胸がぎゅぅと締め付けられるけど暖かくなる映画でした。
あの時部屋から出ていなくても、違う世界線だったとしても2人は違う形で出会えていると思います。
でもあの時出会って、あの日部屋から出たからこそ京本が外の世界への希望を持てたと思います。
2人が過ごした時間に決して無駄な時間は一つもありませんでした。
最後は決意をして絵をまた書き進めていって終わったのが良かったです。
前を向かせてくれるアニメでした。
アニメの映像もすごく綺麗で、ずっと見ていられました。変なスキップよ田んぼを走るシーンとかすごく大好きです。
藤野歩
世界にたった一つしかない藤野歩名義のサイン
一度は止めた歩みを前に進めたきっかけが今度は「藤野キョウ」という天才の背中を押す
京本がいてよかった
本当によかった
様々な映画のオマージュが散りばめられた作品とのことだが、私がわかったのはリズと青い鳥だけだった
死んでいない状態を生きているとは言わない
学年新聞で4コマ漫画を連載している小学4年生の藤野。クラスメートから絶賛され、自分の画力に絶対の自信を持つ藤野だったが、ある日の学年新聞に初めて掲載された不登校の同級生・京本の4コマ漫画を目にし、その画力の高さに驚愕する。以来、脇目も振らず、ひたすら漫画を描き続けた藤野だったが、一向に縮まらない京本との画力差に打ちひしがれ、漫画を描くことを諦めてしまう(公式サイトより)。
ストーリー展開に若干無理めなところがあり(さすがに卒業証書は先生が持っていくだろうとか、たった1回の出来事で友だちを失うほど何年もデッサンに没頭できるだろうかとか)、群像劇によくあるプロットやモチーフが並ぶ。京本のフラグもなんとなく読める。
山場は、京本が凶行に襲われ荼毘に付された後、藤野が部屋を訪ねるシーン。そもそも自分が引き籠っていた京本を外に連れ出さなければ事件にあうことはなかった、あの時、思い付きで描いた何の役にも立たない4コマ漫画が描いてしまったことが、全ての引き金となったと落涙する藤野。
そこから場面は、あの時、出会っていなくて、一緒に漫画を描いておらず、藤野は空手を学び(たぶん強くなっている)、京本は美大で学んでいる、「都合の良い世界」に飛ぶ。「都合の良い世界」で描かれた京本の4コマ漫画が、結界としての扉の隙間からひらりと「現実」の藤野に届く。
幸か不幸か、わたしたちはたった1種類の、この「現実」を生きることしかできない。「都合の良い世界」では生きられない。この「現実」を生きるために、普通は生きられない「都合の良い世界」を創作して生きてこられた藤野と京本は幸いだ。創作の過去を振り返ることで、死んでいない状態を生きているとは言わないということに気づかされ、藤野はまた創作に戻る。
エンドロールの背景美術が夜景に染まっていくシーンは物悲しくも動的な萌芽を思わせる。京本が左利きなのも絶妙に良い。
ここ数年で一番良かった
映画のレビューはいつもまあおもろいかな3点、うまい+0.5、すげーや+0.5点、個人的に好きすぎる+0.5~1点という感じでつけているが、これはすべてを計算して5点だった。それくらいよかったな。
ルックバックは読み切りが掲載されたときにも読んだのだが、「まあおもろいね、流石だね」という感じ。それから映画化して、レビューがいいというのは耳にしていたが、元来漫画派の私は「うーん、まあええやろ」と見るのを先延ばしにした。それからも先延ばしにしていたが、年が明ける瞬間寝る前、なにか映画を見よう。このタイミング、このおふとんがふかふかの状態に最適なものを見ようと思った。それがルックバックである。
正直最初はまあ、普通だなー、普通だなーという感じだった。まあ無難におもろいなーという感じ。それが衝撃的な事件がいきなりナイフのように降ってきて、おいおいハッピーエンド信者の私もそこからどうやってこっからハッピエーエンドになるんじゃと目が釘付けになった。後半は「ルックバック」というテーマとも伏線とも取れるすべてが回収され、「あーこれはこれはもう完璧や」となった。トドメを指したのはエンドロールである。
エンドロール丸ごと含めて、これは「映画」なんだと思った。単なるアニメ化じゃなくて、監督がクリエイターがアニメーターが解釈して、表現した映画なんだと思った。昨今は生成AIでそれっぽい映像がすぐ作れるぜ、アニメ制作にも取り入れようぜと新興企業がニョキニョキ出てきているが、このシーンのこの山の形、色味、このアングル、すべてが表現者の意図がある中で、それっぽいなにかじゃなくて、「これじゃないといけない」なにかがあるような「表現」が凝縮されていて、これが表現するということの一つの意味なのだろうと思った。
2025年のはじめにこれを見れたのはとてもいい感じだ。
内容、画、声の演技、音楽、すべてが見どころ、聞きどころ
アニメも含めて邦画の悪いところのひとつは、なんでもかんでもセリフで説明してしまうところだ。だが、このアニメは違う。
藤野は自分より画力が上の京本から慕われて優越感に浸っている。この作品のクライマックスは圧巻で、そんな藤野の京本に対する気持ちの変化を一切セリフでは説明しない。藤野が京本と過ごした日々を回想するシーンがすべてを物語る。藤野は「あなた(京本)がいたから、私はここまでやってこられた」と心で思ったに違いない。
泣くのは当然。
原作既読作品。
原作者の連載作品がどうも苦手で(ぶっとんでるところ)あまり触れてこなかったのですが、この読み切りは当時読んだ。毎日読んでたジャンプラで載ったからというのが大いにある。
それで泣いて読んで、こんなのも描けるんですか〜ってなった覚えがある。
泣く作品だったので、映画化と聞いた時も「泣くからなぁ…」と観に行こうとは思ってたなかった。
ただまぁラストにいいか!ムーブオーバーでやってるのも何かの縁!てことで観に行ったんです。
泣いたのは当然です。
線がガサガサ少し乱雑感があるのが、作品と合ってました。
藤野が小学生らしい万能感と無遠慮感で、家人が迎えてこない家に入っていくものだから、笑っちゃいました。田舎だからこそ出来る。そんな藤野が担当編集に電話でアシスタントのことを言葉選んで話してるところで「大人になって…」と感動してましたね、変なところで。
美大に行かなければ、じゃなくて、美大に行ってる京本を救う世界線な辺り、藤野の、京本を思う気持ちを考えてしまった。そんでもってやっぱ漫画に誘うんですよ。二人はそんな二人なんですね、どの世界線でも。
どこかの藤野と京本は幸せでありますように、最後に一人で机に向かう藤野の背中を見て、そう思いました。その世界線がある限り、この藤野も京本も生きていけると思う。
と、浸りました。
長過ぎずちょうど良い映画でした。
来場特典?色紙の二人が可愛かった…
ライバル
藤野が必死で絵の勉強をしてうまくなったのは京本の存在、やっぱり、ライバルって大事だなと思いました。ただ、藤野はお金に執着心が高かったり、美大に進学しようとする京本にあんたには絶対無理、漫画を続けようという上から目線のくだりはがっかり、わたしも一緒に美大に行くと言って欲しかった。
事件の後は夢か幻想か分からないが二人で漫画を描いている回想シーンが出て来たのでルックバックって回想のことかなと思ったのですが、気になったのは京本が藤野に「背中を見て・・」と言うと藤野の背中につるはしが刺さった4コマ漫画、実際に死んだのは京本ではなく藤野だったのか?なんて一瞬戸惑いました。盗用を逆恨みして美大生を襲う凶悪な事件ですが、動機がどこか京アニ事件を思い起こさせるところもあって被害者のアニメーター達へのレクイエム的な印象も受けました、名前を京本にしたのも京アニ事件へのオマージュだったのかしら・・。
単純な友情物語かと思いましたが不可解な展開、奇妙な映画でした。
伝えたい気持ち
中学の時の親友を思い出した。
めっちゃ仲良しなんだけど、対等じゃなくて、どこか相手のことを下に見てて、 そんな関係性がすごく身近に感じて共感、京本のこと見下したまま最悪な終わり方でお別れしたふたりなんだよな、、😢お互い出会えたから、良いように作用していたのよな
普段伝えられない素直になれないそういう気持ちを、ストレートに伝えられるといいなと思った
うまくなりたくて頑張っても届くか分からない不確実性。不安定さを抱えながら頑張る気持ちが強く伝わる。自分より才能がある人や、自分よりも努力してる人を目の当たりにすることもある、
先生!って尊敬してくれている人の前では、良い自分でありたいしプライドも芽生える。見栄を張ったりした藤本だったけど、実際は京本の絵を見て、強く感化されてたし敵わないと思って諦めようともしたし、京本の描く絵は藤本にとって凄く大きな力を持っていた。
変なプライドで伝えられなかった本当の気持ち、もう伝える事はできない。それがすごく惜しい、、尊敬してた人が、自分の絵で心を動かされてた、一方通行の気持ちじゃなかったんだよ、ってことが分かったら嬉しかっただろう。ふたりの間には更に強い結束も生まれてたんだろうなって思った。、でもそういうのってなかなか伝えられることではない。理想郷。そこがとてもリアル。
雨のシーンで、藤野は何を想っていたのか?
例の雨道での藤野のシーンは、本作の白眉と賞賛されている。
ただ、単に喜びのシーンだと言う解釈が多いが、拙僧の解釈は少し異なる。
確かに、心の底から自分を必要、尊敬してくれたのだという喜びの感情もあるだろう。
しかし、藤野の表情をよく見ると、どこか辛そうな表情にも見えなくも無い。
元々プライドが高く、他者を見下す傲慢なところがある藤野としては、よりによって自分貶めた相手からの賞賛を、果たしてプレーンな気持ちで嬉しいと感じたであろうか。
現に、直前の京本とのシーンで、藤野は虚勢を張ってしまっている。
恐らく、悔しさや、恥ずかしさ、でも同時に嬉しさといった様々な想いがあったのではないだろうか。
そんな複雑で大きな感情に渦巻かれながら、それを体で体現するかのように、ただ遮二無二、雨道を駆け抜けて行ったのだと解釈した。
最初は、女の子版の「バクマン。」みたいな話かと思ったが、
創作や表現、即ちクリエイターの話。所謂モノづくり映画というやつだった。
「映画大好きポンポさん」に近いかもしれない。あれより遥かにヘビーな話だが…
後半が賞賛されていますが、個人的には前半の努力パートの方が観ていて刺さりました。
自身のアイデンティティが、完膚なきまでに打ちのめされた瞬間の絶望感。
天狗になっていた自分が、まさに鼻っ柱を叩き折られた時の屈辱。
所詮は路傍の石であり、周囲の賞賛が持て囃しだったと気づいた時の惨めさ。
この時点で強烈なまでに藤野に共感を抱き、胸がズキズキと痛んだ人も多いのでは無いだろうか。
しかも、どれだけ努力しても努力しても、届かない。
家族、友達、次々と失っていくもの。
ただただ孤立していき、嘲笑にさらされる。
こんな事に意味はあるんだろうかと、無情な現実を突きつけられる。
才能と現実の理不尽さ、というと「リズと青い鳥」を彷彿とさせるが、本作はより容赦が無い。
叩き伏せられた相手からのまさかの憧憬という、奇妙な縁で友情を結んだ藤野と京本。
しかし、楽しい日々は長くは続かず、悲しい決裂からの、急転直下の悲劇。
原作を知らずに観たため、例の大事件を彷彿とさせるあの展開には、あまりにもショッキングで目の前が暗くなりかけた。
そこからこの物語は、ある非常にトリッキーな展開を見せる。
意表を突いた展開だが、これもまた、「漫画」という創作物だからこそできた表現であり、藤野のせめてもの願いでもある。
即ち、この作品が、クリエイターという職種への多大なリスペクトが込められている証だろう。
ラスト、新たな覚悟と決意に、すぅっ、と息を吸う藤野。
ここで、下手に台詞で、「よしっ!」とか、「がんばるぞ!」などと言わせず、
ただ、すぅっ、と息を吸うだけのアクション、たったこれだけでそれを完璧に表現してみせたのが素晴らしい。
そして、次のシーンでは藤野は、冷たく、足取りが重くなる雪道を踏みしめている。
思い返すと、先述の雨道のシーンも、空はどんよりと暗く雨が降り続けていた。
まるで、これから自分が進む道を暗示しているかのよう…というのは、深読みだろうか。
if世界では、事件は防がれて死者は出ず、京本も無事で、藤野は再び漫画に再燃する。
もしかしたら、藤野と京本はこの世界でもコンビを組んで漫画家活動をしたかもしれない。ブレイク出来たかどうかはともかく。
こう聞くと、現実世界よりもif世界の方がハッピーじゃないかと思うかも知れないが、
しかしこの世界では、
毎日を二人で楽しく過ごしたかけがえのない日々が無かった世界なのだ。
自分が漫画を描いたから、京本を不幸にしてしまった。
自分が漫画を描いたから、京本は幸福になることできた。
相反する業の深さ。
哀しく壮大な主題歌である「LIght song」が、さながら鎮魂歌のように響き渡る。
大きな不幸が訪れたとしても、描きつづける。
なぜ、描きつづけるのか。
そうする事で、京本が、京本のような人がどこかで笑ってくれるから。
「ルックバック」。「背中を見て」
不満点としては、58分という驚きの短尺は確かに観やすくはあったが、さすがに季節や時系列の移り変わりがハイテンポすぎる気はした。
あと、せっかくのクライマックスで止め絵が多すぎるのも実に勿体無い気がした。
監督が作画の半分を手掛けたという衝撃の制作背景には魂消たが、それそれで言い訳にしかならない。
あと、同じくクライマックスで、京本の部屋の前の藤野が説明セリフが多すぎるのも勿体無かった。
あんな一から十まで心情を吐露してしまうのはダサい。
正直なところ、他の大絶賛の人たちほどの熱量は感じなかったのですが、と思いつつもこの映画の事がなぜか頭から離れず、結局3回も観てしまいました。
例えるなら、前半がバクマン×リズと青い鳥、後半がポンポさん×ワンハリ。
インターステラーっぽさもありました。
文句なし
元々原作が好きだったが、それの映像化としてこれ以上ない仕上がり
映像も音楽も、丁寧で繊細
京本と会った日の帰り道は最高のシーンになっている
芸術家としての自信と傲慢、承認欲求や向上心、もろもろ含めた友情と青春
そしてそこに不意に訪れる不条理
京アニ事件を作品に落とし込み、一つの作品として、悲しみ、追悼し、それでも前を向く、その過程や覚悟を描き切ってみせている
ああ、良すぎる
友情と絆
こんな1時間あるかないかないかなのに、アニメーションもすごいし、不登校の子と、マンガに向き合う子の大人になってもどんなに悲惨なことが起きても無くならない友情はすごい アカデミー賞級やっぱ日本はアニメがすごいね
それでも人生の扉を開けたのは藤野
うーん、殺さないで欲しかったなぁ~
確かに藤野が京本を外に出さなかったら、死んでいなかったかも知れないけど、あんなに充実した青春時代を過ごせなかったかもしれない。
思ってたような内容じゃなかったけど、藤野と京本の絆を感じてグッと来たシーンがあったので、悪くはなかった。
でも、殺さないで欲しかったなぁ~
ちょうど1時間くらいは動けなくなる
適当にアマプラで見つけたアニメ映画でしたが、とんでもなく感情揺さぶられました。
褒められたらすぐに調子乗ったことを口走る藤野、分かりやすくてかわいい。
同級生のことを先生とかつけてガチ尊敬してる京本、かわいい。
2人の出身は山形だけど京本は極度の人見知り+訛りが他に比べると強いから引きこもってたのかなーとか思いました。
一緒に漫画を描き始めてから藤野に引っ張られつつ、世界が広がっていた京本。結構序盤からこの2人がいずれ別の道を行くんだろうということは分かってた。けど、最終的にパワーアップして最強の2人になる!みたいなエンディング期待したかった、。
終盤に出てきた4コマの想像の世界で、藤野が飛び蹴りした時「え〜よかった〜」とか声出たのに。
やっぱり現実じゃないんだって引き戻された時の悲しさと、京本を思って泣く藤野の気持ちが刺さります。
本当は知らない男に襲われて怖かったよね、自分の知らないことで責められながら何度も刺されて声も出なかったのかもしれない。4コマ漫画をみて自分がこんなふうに助けに行ってあげられたらいいのにとか。画面上で見てるだけなのに勝手に共感してました。
京本の部屋に入ってみると、漫画の出費が今まで藤野の部屋だったから気づかなかったのか。これまでの2人の関係を大切にし、藤野を応援しながら糧にしている京本の生前の姿が浮かぶ。ここで「悲しんでる場合じゃない、漫画描かないと。」って。
なんとなく今まで自分のために漫画を描いてそうな感じった藤野が京本のためにも、、な流れになるところも青春ものとしての主人の成長が伺える作品でした。
想像の世界と現実に引っ張られながら、最終的に地に足ついた感じです。
晴れやかなハッピーエンドではありませんが1時間ほどで見れるので中弛みもなく楽しめます。映像や登場人物の表情にも引き込まれる作品でした。
面白いので見始めると約1時間くらいはその場を動けなくなりますが、家で見るにはちょうどいい長さです。
前を向いて歩んでいこう
原作読破済みでこの作品は上手くまとまるのかな?声優さん大丈夫なのかな?と公開前は不安ばかりであった。
私は藤本タツキ先生のファンであり、チェンソーマンのアニメの出来にがっかりしていたからである。
だが、そのような心配は杞憂に終わった。
一つ一つのシーン細部にこだわりがありメッセージ性があり、印象深く脳裏に焼きつき、思い返しても涙が溢れてくる。
余談だがワンシーンにエマニエル坊やのコラの藤野がいて笑った。
また、声優さんもバッチリこれだ!という感じだった。小学生の頃の自分が秀でているんだ!とちょっと生意気盛りな少女の藤野と、引きこもりで誰とも話してなさそうな滑舌の悪さの東北弁の京本。
物語の行く末を知っているせいで最初の藤野が漫画を描くところから目頭が熱くて堪らなかった。
藤野と京本が絵を通じて出会い、お互いを尊敬し合い高めあい、協力して一つのことに魂を打ち込む。なんて尊いんだろう。
引きこもりだった京本に藤野が明るくて楽しい世界に引っ張っていき、京本が目を輝かせて喜ぶ様子がなんとも可愛らしい。ちょっとずつ喋るのも滑らかになってきた。
別々の道に歩んだとしても京本は藤野の1番のファンであった。それが、京本のなくなった後に初めて分かるのが辛すぎる。藤野の同じ作品を幾つも買い、読者アンケートを熱心に出していた痕跡が見られる。小学校の頃の学年通信も丁寧にスクラップしていたり、窓に貼っていたりと一番近くで見守り応援してくれていたのだと。
終盤では、バッドエンドとハッピーエンド、どちらも見せてくれる。創作って素晴らしいんだなと強く感じるシーン。
たとえどんな辛いことが起きたとしても、強く前を向いて歩んでいかなければ。
最後に映る藤野が独りで机に向かう背中がすごく切ない。
一時間もない中ですごく感情が揺さぶられた作品だった。
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