「☆☆☆★★ ほぼ原作に忠実に映像化してはいるのだが、最後の最後に原...」かくしごと 松井の天井直撃ホームランさんの映画レビュー(感想・評価)
☆☆☆★★ ほぼ原作に忠実に映像化してはいるのだが、最後の最後に原...
☆☆☆★★
ほぼ原作に忠実に映像化してはいるのだが、最後の最後に原作を変更し、無理矢理に感動作品へと作り変えたラストの為、中途半端感が増してしまっているのが勿体ない。
原作読了済み。
原作の題名は【嘘】なのだが、映像化にあたっての映画題名は『かくしごと』
成る程!確かに、観客に対して「感動させよう!」とした様に感じる強引なラストを見ると、少年拓未から見た【かくしごと】に相違ない。
おそらくは感動作品として製作したかった為に、あのようなラストになったのでしょう。
それはまあ理解出来る。
但しそれにより、幾つかの疑問を持たざるを得ない箇所も生まれてしまった感は強い。
そんな一つが、洋一の母真紀の描き方。
映像化に於いては、DV男の父親安雄が悪役としてクローズアップされている。
が、しかし。この物語での1番と言える【悪の権化】《悪魔》は、実は洋一の母親真紀なのだ!
千紗子は身分を偽りこの夫婦に接触する。
その際に、始めは警戒していた母真紀。
お金が貰えると分かるや態度は急変し、(もう死んでいるに決まっていると決めつけ)「保険金が下りないのが許せない!」…と怒りを露わにする。
しかも、入会金が必要と言われると、手のひらを返すかの様に、狂った様に怒り出す。
その姿に憤った千紗子は、自分が少年を育てる決意をする。
千紗子の正体を突き止め、DV夫を「お金を巻き上げよう!」とそそのかし。裁判では、子供を奪われ、夫を惨殺された悲劇の母親として、平気で嘘泣きをする《悪魔》なのだ!
そんな洋一の母親真紀を、映像化に於いては、何故DV男に怯えるか弱い母親として描いたのか?
おそらくは、(原作とは変更した)この作品のラストシーンで洋一が放つ一言により、感動作品とする意図が感じられる。
原作だと洋一の母親は、【悲劇の母親】として、その後は洋一を引き取るのだが、やがて育児放棄をする。
だが洋一=拓未は、裁判前から「自分の名前は拓未です!」と言い続ける。
裁判以後、服役し厚生する千紗子。
育児放棄をした母親から、叔父・叔母の家で育てられるも馴染めず、亀田に引き取られ拓未の母親千紗子の出所を待つ。
流石に《その後》を詳しく描くと、更に尺が伸びてしまうのを嫌った為…と考えたならば合点は行く。
たがそれゆえに、原作でのプロローグがエピローグへと繋がり、原作のラスト1行の秀逸な【嘘】は、残念ながら生かされずに終わる。
原作だと、ブーメラン現象と言える箇所が有り、その後の千紗子に色々と影響を及ぼしている場面が。
そんな一つが、千紗子が虐待夫婦に接触した時に、子供をペットの様に扱う夫婦につい説教をする千紗子。
だがそんな千紗子も、当初は父親を嫌っていた。
そんな千紗子に、介護認定調査員は「親を施設に入れて自分は楽しみたいのね!」と叱る場面は秀逸な描写だったのだけれども、映像化では描かれてはいない。
原作だと、千紗子は拓未に《嘘のノート》を。
拓未は《記憶のノート》を。
父親(おじいちゃん)は日記を残していた。
それによって、純=拓未となり、父親(おじいちゃん)は生涯会えなかった孫の《純》を想い続けていた事実が分かる。
更には、おじいちゃんに教わった技を伝授した純=拓未が存在する。
父親を嫌っていた千紗子。
唯一母親だけは千紗子の思いを受け止めてくれていた。
「あなたは母親にずーっと辛くあたった。」と言い放ち、母親が急死したのは父親のせいだと考えていた。
そんな父親は、母親の死後急に観音菩薩を掘り始め、粘土で地蔵を作り始める。
自らの認知症に不安を感じ、母親の顔を観音菩薩に掘り始めた父親。
どんどんと母親の顔を忘れて行くに従い、その不安からか作った観音菩薩を壊してしまう。
また粘土で作る児童菩薩は、母親の骨をすり潰し土に混ぜた粘土で作り。一度も会えなかった孫の純の霊を悼む為のものだったのを、千紗子は後に知る。
また、DV男に襲われた際には「娘に手を出すな!」と《マキリ(魔を切る》で立ち向かう場面の一言は重要だと思ってはいたのだけれども、、、
【嘘】がまた更なる【嘘】を上塗りする。
しかしその【嘘】が、強固なる【家族の未来】へと到達する。
だけどもこの映像化には、その原作が持つていた《意図》を見出せなかったのではないか?…との思いを強く抱いてしまったのです。
2024年6月7日 TOHOシネマズ日比谷/スクリーン11