「今年も、年に数本の逸品に出会えました。」ありふれた教室 グレシャムの法則さんの映画レビュー(感想・評価)
今年も、年に数本の逸品に出会えました。
我々の日常の社会活動において、「状況証拠」だけで、何かを判断しなければならないことは結構たくさんある。最後まで決定的な証拠が出てこなくても、裁判であればそれなりに結審するし、納得できない側の者も法律上の審判であれば(最終的には)矛を収めざるを得ないし、よほどの恨みや執着がない限り、当事者同士の社会での接触機会は一応終了する。
ところが、学校や会社などで発生した「疑わしき事案」は当事者間の関係性が複雑かつ厄介でいびつなまま、継続される。
その後の展開がどう進んでいくのか、大まかにこんな感じで意見が分かれるのではないだろうか。
① もういい加減、正直に自白してよ(状況証拠だけで決着しちゃおうよ)
② 証拠がない以上、追及自体が人権侵害ではないか(論点が犯人探しから、いつの間にか倫理的な課題に移行)
③ この事案はもうなかったことにして、みんなで穏便に済ませませんか(これだけ騒ぎになれば、真犯人ももう罪をかさねないでしょ、という希望的観測に逃げることで問題解決を図る)
この映画では、明確な真相は語られない。というより、ルービックキューブに象徴されるアルゴリズム(ある問題を解決する方法や目標を達成させるための手順)こそがテーマの核心なのではないか。
事実(正解)がどうだったのか。そこに行くつくための手順を初動で間違えてしまったカーラ(まさか、不寛容ルールをこんなにも杓子定規に運用するとは…)。
結果として、全面同じ色になるはずのキューブがバラバラのまま、時間切れ。
それでも、教師であるカーラは、本当にたどり着くべきゴールは事件の真相などではなく、オスカーのこれからの道筋を整えてあげることであるとアルゴリズムを修正する。そして教室では、生徒一人ひとりが、他者からの情報(噂)に惑わされるのではなく、自分の直感で人や事象を判断できるように導くことが今なすべきこと。
アルゴリズムというとコンピューター的で無機質なイメージが先行するかもしれないが、人間社会では驚くほど自分で確認もしていない外部情報からの先入観や偏見によって、本来思考すべき手順が始めから歪められている。
この映画はカーラという、正義感・他者への思い・行動すること自体への熱量をもった教師を通じて、不測の事態が発生した時のアルゴリズムの重要性とその修正能力について、無機質とは反対の有機的な物語で示している。