ありふれた教室 : 映画評論・批評
2024年5月7日更新
2024年5月17日より新宿武蔵野館、シネスイッチ銀座、シネ・リーブル池袋ほかにてロードショー
切実なまなざしが映画に没入させる。瞬きできない99分間
ドイツの義務教育は9年間(一部は10年)。6歳から4年間の初等教育を施す基礎学校または高校まで通える総合学院(一貫校)で学んだ後、中等教育へと進む。一貫校を選べない多くの子どもたちは10歳にして人生の分岐点に立つ。親にとっても進学先選びは最重要課題のひとつである。
「ありふれた教室」の舞台は、10歳で進路を選択した15歳までの生徒たちが通う中学校。主人公は新任教師のカーラ。聡明で快活。ポーランド系ドイツ人の彼女は、生徒との交流を最優先に精力的に授業を続けている。
タイトルの「ありふれた」とは裏腹に冒頭から“きな臭い”。会議室に呼び出されたふたりの生徒に教師が質問を試みる。どうやら校内で続く金品盗難の犯人捜しをしているようだ。「話したくない」と言う男子生徒に男性教師がリストを呈示し、暗に指を差せと迫る。リークを強要する誘導尋問まがいの卑劣な行為にカーラの心中は穏やかではない。調査の後、“不寛容方式”を掲げる校長が授業中に抜き打ち検査を決行する。財布の中身を確認する荒技である。常軌を逸した学校の姿勢にカーラは複雑な想いと大きな憤りを感じる。
ある日、職員室でカーラは一計を案じる。財布を入れた上着を椅子にかけ、ノートPCのカメラで罠を仕掛けて犯人を特定するのだ。数刻後、財布の中味を確認した映像には特徴的な模様のシャツを着た人影が映っていた。調査を回避して生徒を守ろうとする彼女は決定的な証拠を手にする。
だが無許可の撮影は違法収集証拠とされる可能性があり、人格権の侵害は犯罪に該当する。犯人とされた人物も黙ってはいない。我関せずと言い切ると、カーラの教え子である息子を連れて帰宅してしまう。
トルコ系移民の子としてベルリンに生まれたイルケル・チャタク監督は、幼少期の実体験を基に複数の教師に取材し、社会問題化する教育の在り方に正面から向き合う脚本を執筆、現代社会への警鐘となる緊迫感に満ちた作品を完成させた。
我々が生きる世界には様々な落とし穴が潜伏している。陥穽に落ちた者に対する噂は瞬く間に一人歩きを始め、新たな罠となって当事者に襲いかかる。非を認めることなく、相手を貶めることで自分を守る。そのためには手段を選ばない。完膚なきまでに敵を叩きのめすのだ。
閉塞的な教室で声高な噂が暴走を始めるや保護者たちがモンスターペアレンツに豹変し、生徒たちは“怪物”と化す。さらに出自をめぐるレイシズムが無意識のバイアスをかける。
もはや自分の言葉には誰も耳を貸さない。予想だにしない事態に呑み込まれ、孤立無援の窮地に追い込まれていくカーラを体現したレオニー・ベネッシュの演技は特筆に値する。切実なまなざしが映画に没入させる。瞬きできない99分間。
(髙橋直樹)