劇場公開日 2024年4月26日

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「 自衛という名のもとで行われた殺戮の記録」マリウポリの20日間 レントさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5 自衛という名のもとで行われた殺戮の記録

2024年7月24日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

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ロシアのウクライナへの侵攻が開始されてからしばらくして現地での映像がテレビで流れだした。本作でも描かれていた産婦人科への空爆で担架で運ばれる妊婦の映像は衝撃的だった。こんなところまで空爆してるのかと。その直後にこれはフェイク映像だとロシア側が主張していたのも覚えている。しかしこの映画では映像はなかったが、他にも居住地域で遺体が数体道端に転がってる画像なんかもあり、それについてもロシア側は居住地域は攻撃していない、画像はフェイクだと主張していた。しかし後程フェイクの主張自体がフェイクだと明らかになった。
本当にこれらの映像がフェイク映像だったならどれだけよかっただろうか。殺された子供たち、殺された妊婦、それらテレビで流された映像がすべてフェイクだったならどれだけよかっただろう。しかしそれはフェイクではなく現実だった。それを起こした張本人たちだけがフェイクだと叫んでるだけだった。
産婦人科への爆撃で亡くなった妊婦さんの写真は「マリウポリの妊婦」という名でピューリツア賞を受賞したという。だが彼女は身ごもった子供ともに亡くなってしまった。彼女の名前はイリーナ、そして生まれてくる子供にもミロンという名がつけられるはずだった。しかしその子は一度も自分の名が呼ばれることもなくこの世に生まれでることもなかった。
ロシア側が主張するあの妊婦は女優だとか破壊された建物はセットだとか、本当にそうだったらどれだけよかっただろうか。しかし長年待ちわびてやっと子供を授かることができたイリーナさんは赤ん坊とともに亡くなった、彼女は女優でもなんでもなかった。

これらの痛ましい映像は現地で命がけで撮影されたものだった。当然命がけで撮影する人がいなければ我々は現地で起きてることを知ることもできずロシア側の一方的な情報操作に惑わされていたかもしれない。改めて現地取材の重要性が再認識させられる。

これらのロシアによる無差別爆撃で亡くなった人々にはそれぞれの名前があった。しかし、あまりに大量の遺体を処理しきれず彼らの墓標にはその名が刻まれることもない。簡易な十字架だけが建てられ番号だけが刻まれる。そんな無数の名もなき者たちの墓が並ぶ。人生を奪われた彼らには一つ一つ名前があった。

いつの時代も普通の人々の普通の生活を奪ってしまうのが戦争。そんな戦争は過去は帝国主義のもと領土の奪い合いから行われてきたが、現代の戦争は主に自衛という名の下で行われる。

プーチンがウクライナ侵攻をした口実は同じ民族がウクライナから迫害を受けているからというものだった。彼は集団的自衛権行使を主張した。
現在行われてるイスラエルによるガザへの殺戮行為も自衛が発端だった。自衛という言葉はいまや天下の宝刀のように使われる。自衛といえばすべてが許される。しかしその自衛のもとで行われているのは一方的な殺戮でしかない。
自衛という美名のもとではすべてが許される。消防署や病院、産科を空爆することも、サッカーをしてる子供を空爆することも、妊婦を空爆することも、赤ん坊を空爆することも、すべてが許されてしまう。それは今までも繰り返されてきた、中国重慶の爆撃、東京大空襲、長崎広島、そして今もイスラエルによるガザへの無差別攻撃が行われている。
しかし民間人は自衛のすべを持たない。妊婦や子供たちはただ自衛の名のもとに殺されるしかないのだ。

自衛という詭弁で始められる戦争、あるいは本当に自衛で始めた戦争がやがて抑制が効かなくなり過剰防衛にまで発展するケースなどそれぞれだが、自衛のための戦争という言葉に踊らされてされてはいけない。
9.11後のアメリカも対テロ戦争の名のもとに暴走した。彼らは自衛を拡大解釈して大量破壊兵器があると決めつけイラクに侵攻した。

今の日本もこの自衛の名のもとに敵基地攻撃能力だとか先制攻撃まで辞さないような勢いだ。しかしどんな理由にせよはじめられた戦争で起きる結果がこの作品で見ることができる惨劇なのだ。どんな立派な理由を掲げようとも起きる結果はいつも同じだ。普通の人々の暮らしや生活が破壊され子供や妊婦、罪もない人々の名もなき墓が建てられるだけなのだ。

戦争を起こさないための抑止力が必要という言葉にも疑念を持つべきだろう。果たして戦争を起こさない唯一の手段が抑止力なのか。かつて米ソ冷戦時代、両国は抑止力という名のもとに核兵器を増産し続けた。いつ核戦争が起きてもおかしくない恐怖に世界が包まれた。そして起きたキューバ危機。あれこそ偶発的に何が起きてもおかしくはなかった。あれこそが抑止力の名のもとに核武装を進めた結果起きたものだった。抑止力の緊張の糸が切れたときいつ暴発していてもおかしくなかった。運良く起きなかったが。
それに抑止力なるものが一番あてにならないということはこの日本自身がよくわかっているはずだった。かつての太平洋戦争は国力が十倍以上あるアメリカに対して日本が戦争を仕掛けたものだった。アメリカが有する強大な軍事力が抑止力として戦争の歯止めになっただろうか。抑止力があてにならないことを身をもって経験したのではなかったか。にもかかわらず今南西諸島では対中国戦略のための南西シフトがしかれつつある。防衛費倍増で中国による台湾の武力による統一を抑止できるという考えだろう。
しかし軍事費倍増させるだけで肝心の外交はどうなっているのか。一番大切なのは抑止力ではなく対話だ。政治家が命を懸けて行うべきものは対話なのだ。防衛費倍増、基地の整備。これらは相手国のことなど関係なく自国だけでやれるから楽である。楽な方へ楽な方へ流れていき、困難な外交には力を入れようとしない。

近所づきあいと同じだ。隣同士普段挨拶もしない、隣はどんな奴か何を考えてるのかわからない。隣から聞こえる生活音にいらいらする。そこからご近所トラブルに発展する。普段から挨拶なり会話があれば決して起きることのないトラブルだ。
アメリカのご機嫌をうかがうだけで中国とは会話もしない。でもアメリカは狡猾だから裏でこそこそ中国と交渉している。威勢よく打倒中国なんて言ってたらアメリカにはしごを外されてしまうなんてことにもなりかねない。

自衛のためといえば国民からの支持も取り付けやすい。しかし自衛のための戦争は侵略戦争と紙一重だ。
為政者たちはとにかく他国からの侵略の危機を煽っては国民の不安を煽り立てる、このままではいけない、こちらも武装せねばと思わせる。
対話を忘れ武力に走れば、これからも多くの妊婦や子供たちの犠牲はなくならないだろう。

レント