アメリカン・フィクションのレビュー・感想・評価
全55件中、1~20件目を表示
多層構造の「フィクション」がリアルな社会を表現する。
◯作品全体
タイトルにもある「フィクション」という題材の使い方が面白い作品だった。
本作には「フィクション」がたくさんある。主人公・モンクが作った黒人物語はステレオタイプな黒人を登場させて「こんな黒人像はフィクションだろ?」と訴えるような作品だ。しかしそのフィクションは白人にとって都合の良い「マッチョで悲しい物語」であるため、支持を得てしまう。冷めた感情で作ったフィクションをリアルだとして熱狂する読者たち。この構図をコメディだけでなく、都合良くフィクションを掬い上げる社会に対しシニカルな表現で映していたのが印象的だった。
特に白人の登場人物は、ほぼ全員が営利主義であり、都合良くモンクを操り始める。かといって白人は狡猾な人間としてではなく、「こうしたほうが儲かるし、都合が良いから」とハイテンションで絡んでくるのが異様だ。黒人を主人公とするフィクションに登場する「白人の救世主」とも違う、向こう見ずなフィクション白人。モンク一族だけが地に足のついた悩みを抱えているのは、モンクの視点を通した「都合良く切り取った部分を望む調子の良いやつら」として存在しているからかもしれない。
モンクの作品を授賞させようとする風潮に対し、モンクはノンフィクション映画として作品を売り出す。物語を作るに至るモンクの心情を暴くことで物語がフィクションに過ぎないことを訴えようとするが、作品のラストをプロデューサーによってリテイクされてしまう。ここで唐突に映し出されていたものがフィクションであったと示されるのはすごく驚きがあったし、シームレスにプロデューサーが物語をストップさせる演出が面白い。
代案として出したフィクション特有の壮絶なラストは案の定ウケて、結局のところはフィクションの物語として落ち着いてしまう。抗ってはみるものの、モンク一人だけの抵抗ではどうにもならない。ラストシーンでザ・典型的な黒人衣装を身にまとった黒人役者がモンクの前に現れるが、モンクは軽く挨拶をするだけでその場を去ってしまう。社会に根付いた先入観と「フィクションに望む黒人像」の根強さに諦めてしまったようなラストは、少し哀愁すら感じた。
主人公・モンクや作中の白人などなど、フィクションに望む黒人像は様々だ。本作ではその様々な価値観やその勢力関係をモンクのノンフィクションとして語るという、トリッキーな構成が独特で面白かった。
○カメラワークとか
・救急病棟に運ばれた姉を見るモンクのシーン。姉の表情とかは映さず、施術されてなすがままに揺さぶられる足だけを映しているシーンが印象的だった。モンクの主観にすることで姉の苦悶よりもモンクが受けた衝撃にクローズアップする演出が心に刺さる。モンクの物語であることを徹底しているようにも感じた。
○その他
・モンクとガールフレンドが喧嘩するシーンはすごくありふれた中盤の山場でうんざりした気持ちになったんだけど、ラストシーンで実際はガールフレンドと音信不通のままという話をしていて、モンクには申し訳ないけど嬉しい気持ちになった。フィクション特有のセオリーに則っていないところが良い。
・兄・クリフが良いキャラクターだった。問題児だけど、その分ズカズカとモンクへ踏み込んでいける。でも母にゲイであることを見透かされると真っ青な顔をして部屋を出ていってしまう。踏み込むのは得意なのに踏み込まれるのは苦手っていう性格が凄く人間味があって好感を持てた。
・モンクの作品が受賞することが決まったあと、階段に飾られたドールテストの写真をモンクが見つめる。ドールテストは黒人の児童に白人の人形と黒人の人形を見せ、どちらを選ぶか実験したものだ。大半の児童は白人の人形を選んだといい、白人が優遇され黒人は制限される社会で過ごす黒人は、幼いころから人種の優劣を植え付けられていることがわかる。ただ、本作の場合だと立場は逆といっても言い。黒人だから受賞を、黒人の作品だから映画化を、という黒人優遇の取り扱いを受けている。ただ、根底にはドールテストを行った頃の社会があって、その贖罪の意味も含んでいる。白人と黒人の優劣がねじれた、おかしな社会を表現しているようなシーンだと感じた。
・アマプラの字幕がひどかった。セリフの後ろに付くクォーテーションマークがクエスチョンマークに化けてる。雰囲気が台無し。
個々の人間を見ず、マイノリティという型にはめ、消費して金にする社会はF◯◯◯
主人公モンクが抱える家庭事情は結構重たいが、その一方で彼が金のためにやけくそになって書いた黒人ステレオタイプ小説が、予想外にも成功に向けて一人歩きしてゆくさまが可笑しくて、ちょいちょい笑ってしまう。
彼の小説をめぐるドタバタ劇を通して、意識高い系な人間たちのステレオタイプという落とし穴に対する鈍感さをシニカルに描く作品。
冒頭いきなり、アメリカ南部文学の講義中にモンクが板書した「NIGGER」という言葉に白人生徒がクレームをつけるという、皮肉たっぷりな場面から始まる。作品タイトル(フラナリー・オコナー「The Artificial Nigger」)の一部だし、黒人の「当事者」モンクがOKなら問題ないようにも思える。
しかし実際のところモンク自身、医者一家に生まれた知識階級、いいとこ育ちのボンボンである。しかも過去に、ナチス絡みの差別発言で問題になったりしており、型通りの「一方的に人種差別を受けた結果社会的に堕ちた当事者」という黒人像とはかけ離れている。
彼が嫉妬する売れっ子黒人女性作家シンタラは、「私たちの物語」と称してポリコレ社会にウケやすい黒人の物語を上梓し、飛ぶ鳥を落とす勢いだ。「We’s Lives In Da Ghetto」と誤った文法のタイトルも、識字能力が低い黒人像の方が売れるからだ。
モンクはそういった世間に媚びたやり方を嫌悪していたが、自身の作品の評価は芳しくない。
やがて姉は死亡、兄は駆け落ち、さらに母親を施設に入れることになり背に腹を変えられなくなったモンクは、開き直ってある意味売れ筋王道の本を書き上げる。タイトルは「F◯◯K」、ペンネームはスタッグ・R・リー。
調べてみると、1800年代後半にスタッガー・リーという伝説の黒人アウトローが実在したそうで、ペンネームはそこから取っているようだ。
そこからは皮肉な笑いの連続だ。Fワードのタイトルに一瞬怯んだ出版社側も、売れさえすればそんなことお構いなしとばかりにGOサインを出す。電話のやりとりで、モンクは世間の望むステレオタイプな黒人像に応えるべく、粗暴な犯罪者を匂わせるキャラを必死で演じる。すぐに映画化まで決定し、精一杯ワルそうな黒人を装ってプロデューサーと面会したりする。この場面の会話で、ライアン・レイノルズに流れ弾が当たっていたのには爆笑した。
誰も、現実の黒人が個々に抱える問題などには興味がないのだ。粗暴で前科者でドラッグをやってそうな、わかりやすくて定型的な黒人像。もちろん、中にはそういう黒人もいるかもしれない。しかし、モンクの周囲の人間はこのわかりやすい黒人像ばかりに関心を持ち、目の前にモンクという黒人がいるのに、彼の個人的な思いには目もくれない。
文学賞選考の場でも、「F◯◯K」への授賞をモンクとシンタラの黒人2人が反対したのに、白人選考委員の3人が賛成したことで授賞が決まる。賛成したひとりがその場で「黒人の声に耳を傾けよう」と言い放つシーンは強烈だ。いや、目の前の黒人たちが反対してるでしょうが。
意識高い読者たちは、自分たちが「人種差別に対し問題意識を持つ自分」を確認できればそれでよい。差別によりそんな生活に堕ちたかわいそうな黒人の人権を、私たちはよく知り、守ってあげるのだ。そんな崇高な意識を持つ私たちは素晴らしい(と思いたい)。
そしてその欲望の充足は、金になる。
似たような構造は、黒人差別の問題に限らず、私たちの身近にもないだろうか。人々の耳目を引くためのマイノリティの虚像。地球を救うという(不遜なスタンスの)番組における障害者、ベストセラーの本の中で御涙頂戴のために不幸な目に遭うマイノリティ。
そういった作品や番組が全て安い虚像だとは言わないし、本作における黒人の扱いと安易に同一視するつもりもない。だが、そのような物語に感動する時、自分自身が無垢で不遇なマイノリティという「型」を作って消費の対象にしてしまう危うさがある、ということにちゃんと自覚的であったのか、つい我が身を振り返ってしまう。
終盤で、それまでの物語自体がモンクの書いた映画の台本であることが明かされ、白人プロデューサーに結末の候補がいくつか提示される。プロデューサーは、モンクが警官に撃ち殺されるラストをノリノリで選択する。黒人が警官に殺される事件が何度も問題になったアメリカの現実を彷彿とさせるラストに、「アメリカン・フィクション」というタイトルが効いてくる。
型や常識を突き崩し、自問自答しながら歩んでいくために
ジェフリー・ライトといえば、007シリーズやウェス・アンダーソン作品でもお馴染みだが、これほどどっぷりと彼の魅力に浸れる機会が巡ってこようとは予想してなかった。まず本作はストーリーがめちゃくちゃ面白い。小説や映画のテーマとして多様性やマイノリティの権利に主眼が置かれることは多くとも、それが単に流行や商業主義に乗っかってるだけではないのかという思いは常に作り手の頭を悩ますところ。人々が何も考えずにステレオタイプでその題材やテーマを振りかざし始める違和感を、この映画は決して目くじら立てることなく、穏やかな自省と皮肉を込めたコメディ風の社会派ドラマとして絶妙な筆致でまとめている。同時にこれは、とあるアフリカンアメリカン家族の肖像であり、家族同士であっても理解し合うのに何十年もの歳月を要しながら生きる彼らの、型にはまらず、手探りし続ける人間模様だ。呼吸するようにセリフや映像を彩る音楽も素晴らしい。
人生の後半戦の世知辛さと寒々さが沁みる。
コンセプトはとても興味深いのだが、「黒人のステレオタイプ」にとらわれている人たちを皮肉るブラックコメディであるにも関わらず、ひとつひとつの状況がベタで平易すぎるように思えて、結局はステレオタイプの枠内から抜け出せない狭苦しさみたいなものも感じてしまった。例えば似たケースの実話としてのJ・T・リロイ騒動なんかはより複雑でより滑稽だったりするので、フィクションとしてはいささか物足りない。しかし進んでいるようで進んでいないアメリカの黒人の現状を伝えるためには、これくらい単純でわかりやすく描くべきなのかも知れない。その辺の肌感覚は、知識の乏しさや現地の空気感がわかっていないため、どこまで理解できているのか自信がない部分ではある。一方で、介護が身近な中年以上の家族ドラマパートはかなり切実な現実であり、人生の後半戦の寒々しさを描いたドラマとして身につまされるし、沁みる。
それでもバカじゃないって信じたい
どんなにバカだバカだと言ってはいても、心の底では「そんなにバカじゃないだろう」と信じたいものである。
そんな期待を踏みにじってくれて、しかも面白いのが「アメリカン・フィクション」だ。全編「そんなバカな」という笑いを禁じ得ない皮肉なやり取りの応酬で、クスリ、どころか爆笑してしまうことさえある。
「アメリカン・フィクション」で描かれるのは行き過ぎたコンプライアンス意識と、上っ面の多様性容認と、結局上から目線を脱却出来ない「隠れた差別」である。
主人公のモンクは彼の担当編集と評価されない自分を嘆き、半分ヤケっぱち・半分冗談で実在しない作家を騙り、適当なザ・黒人文学を書き上げるのだが、これが何と売れてしまうのだ。
「売れたの?!」というモンクの表情が面白く、一応彼は彼なりに(インテリ故に世間や出版社を小馬鹿にしてはいるものの)「みんなそんなにバカじゃないだろ」と、どこかで信じていたのである。
モンクの立場にしてみれば、この映画は常に彼を裏切り続ける展開だらけだ。
自覚的に「可哀想な黒人」の小説を書いてベストセラーになったシンタラと、結局同じ土俵に乗ってしまったモンク、という構図も面白いし、思惑の違いがあれどステレオタイプ黒人文学を書いた2人ともが揃って非実在作家・リーの作品は「ステレオタイプ過ぎて新鮮味がなく、文学的な価値を感じない。賞に値しない」と主張しているのが良い。
更にそれを他の選考委員(白人)が「少数派・黒人の意見を世に出すべきだ」として多数決によって賞に推してしまうところなんてブラック・ジョークの極み。
なんかそれっぽいことを言いながら、正反対の行動に出るこのシーンは滑稽を通り過ぎてもはや悲劇。
笑いながらもふと思うのだ。自分だって、目の前の誰かをその所属するところによって決めつけているところが無いか?と。
日本で言えば「これだから“ゆとり”は!」、が想像しやすいかもしれない。短所は「ゆとりのせい」長所は「ゆとりなのにね」と言われる側はたまったものじゃないだろうな、と思う。
「ゆとりですがなにか?」や「翔んで埼玉」などもある意味「アメリカン・フィクション」的なステレオタイプ・コメディだなぁ、と思ったが、日本の2作品は感情に訴えて笑わせたりホロリとさせたりする「観客に優しいコメディ」なのに対し、「アメリカン・フィクション」の笑いは笑いの中に鋭いナイフが仕込まれた「観客に厳しいコメディ」だ。
一見ゆとりなのか埼玉なのか分からない日本と、一見して黒人だと分かるアメリカの違いもそれには関係しているのかもしれない。
ともかく、アメリカ国民当事者的には、意識が高ければ高いほどグサリと突き刺さるであろう皮肉の効いた面白さは今年観た中でも最高だった。
私にとっては違う国を舞台にしたドタバタを安心して観ていられる気持ちもあったのだが、ふと思い出した。少し感染症が流行ったくらいでトイレットペーパーが無くなるようなバカな国民じゃないだろ、と信じていたのに裏切られた日のことを。
やはり、対岸の火事などという悠長な気持ちで観ていてはいけない作品だな、とレビューを書いていてちょっと真顔になった。
ビジネスとファミリー
黒人作家のビジネスサイドと彼の家族を描くファミリーサイドが交互に展開します。
ビジネスサイドは作家たちも編集人も映画関係者もみんな自分が一番イケていると思い込んでいて周囲の人をニコニコしながらバカにしているトーンで軽妙に演出されています。
一方ファミリーサイドは結構まともにゲイや介護問題の「少しだけ」もめるサマが深刻ぶらずに描かれます。
要するにコメディとして軽くスラスラと話は進むワケですが、セリフには関係者でなくてもドキッとさせられる毒が含まれて、さすがオスカー脚本賞だけのことはあります。
絶対に4文字言わない人が4文字を言う時
話し方、語彙、言い回し、振る舞い、装い、髪型、アクセサリー、どんな家でどんなインテリア、食事場面、何を食べ何を飲むか、主人公含めて親きょうだいの職業、恋愛・・・。
細部が好きで気になる人はとっても楽しめると思います。まさに「アメリカン・フィクション」で誰かにとっての免罪符で、出版業界の現実。おすすめの映画です⭐️「ジャパニーズ・フィクション」、勇気と知性と笑える皮肉で日本でも作って欲しい❗️
コメディだと思ってみていたけれど
前から興味のあった作品。コメディの分類だったので、笑えるんかなと思って観ていたけれど、笑うというより考えさせられる面が多かった。
親の介護とか、家族の関係、金銭問題、仕事…色々うまくいっておらず主人公を取り巻く環境は苦しい。やけくそで書いた世間が考える黒人ならではの作品が民衆には受け、その事実もまた主人公に重くのしかかる…。社会へのアンチテーゼのはずやったのにね。白人たちは、苦労する黒人の話を知ることと、黒人たちの作品を受け入れること(フリっていうのかな?)で自分たちの罪悪感を少しでも軽くしようとしてるんかな?黒人側からみればそういう話なんやろうなあ。タイトルをフ○ックにするというくだりも虚しい気持ちになる主人公には共感。呆れるよね。
白人、黒人昔からそこに隔たる壁は非常に高くお互いわかり合おう、やはりわかりあえないの繰り返しなんやろうな。人種問題ってほんまに難しいね。自由の国やからこそ、その自由を守るための制約が多いのがアメリカという国なんやろうな。
物語的には軽いタッチで描かれてはいるので、観やすい映画やったけど、なんとも言えないモヤモヤが残る映画やった。日本人にはちょっと受けにくい作品なのかも。
Prime Videoで鑑賞したが字幕が度々文字化け
今現在らしいテーマのドラマだと思った。そして地味だけど重たい出来事や、理解しがたい価値観が微妙に交差する面白い脚本だとも思う。
しかし映画製作は2023年でもパーシバル・エヴェレットの原作小説『Erasure』は2001年の物。「主人公、セロニアス・モンク・エリソンは英文学教授であり小説家でもあるが、行き詰まっている。」と映画と同じ内容で始まり、色々あって創った小説を『マイ・パフォロジー』と名付け、気に入ったエージェントは出版契約を結び、50 万ドルの前払い金をエリソンにもたらした。
その後タイトルを『ファック』に変更。
この作品はすぐにエリソンのベストセラーとなり、映画プロデューサーのオプション契約も獲得したが、、、
パーシバル・エヴェレットはこの小説『Erasure』が文学的な賞賛を受けた後でも映画化の許可に消極的だったらしい。しかし映画監督コード・ジェファーソンが説得力のある理由を提示し、脚本の筋書きとストーリーの変更を提案しエヴェレットは満足して『American Fiction』として映画化となる。だから2023年が舞台でピンとくる内容になっているのだろう。
※エヴェレットは自分自身を「病的な皮肉屋」と表現しているらしい。
※要注意:今現在らしいテーマのドラマだと思った。そして地味だけど重たい出来事や、理解しがたい価値観が微妙に交差する面白い脚本だとも思う。
しかし映画製作は2023年でもパーシバル・エヴェレットの原作小説『Erasure』は2001年の物。「主人公、セロニアス・モンク・エリソンは英文学教授であり小説家でもあるが、行き詰まっている。」と映画と同じ内容で始まり、色々あって創った小説を『マイ・パフォロジー』と名付け、気に入ったエージェントは出版契約を結び、50 万ドルの前払い金をエリソンにもたらした。
その後タイトルを『ファック』に変更。
この作品はすぐにエリソンのベストセラーとなり、映画プロデューサーのオプション契約も獲得したが、、、
パーシバル・エヴェレットはこの小説『Erasure』が文学的な賞賛を受けた後でも映画化の許可に消極的だったらしい。しかし映画監督コード・ジェファーソンが説得力のある理由を提示し、脚本の筋書きとストーリーの変更を提案しエヴェレットは満足して『American Fiction』として映画化となる。だから2023年が舞台でピンとくる内容になっているのだろう。
※エヴェレットは自分自身を「病的な皮肉屋」と表現しているらしい。
※要注意:Prime Videoで鑑賞したが字幕が度々文字化けする。例えば "幸福" だと "幸福? に文字化けする。意味が変わるので戸惑う。"残念だ" "残念だ?
このアメリカン感 日本人でも全てを理解できる!?
あまり本作の話題は聞こえてこなかったが、結果的にアカデミー賞5部門ノミネートの快挙ということで鑑賞。
コメディといいつつも思ったよりも重いテーマで、その重いテーマをコメディらしくおもいっきり軽快に描いているあたりが本作を独特な雰囲気に仕上げている印象。
ブラックユーモア満載で結構笑わせてもらえるが、私のようなド日本人では拾いきれないネタもかなりあったのではないかな。
とはいえ、ジェフリー・ライトの演技力は万国共通最高に楽しめるのでは。
それなりに面白いが、本当に楽しめるのはアメリカ人だけか・・・?
冗談のつもりでヤケクソ気味に書いた本が大成功を収めてしまうという本筋の話は、皮肉が効いていて面白い。
「自分がやりたいこと」と「人から望まれること」のギャップというのは、誰もが経験し得ることだろう。
何らかの属性を持つ人々を、ステレオタイプなイメージで一括りにしてしまうというのも、誰もが陥りがちな「思考の罠」かもしれない。
そういう点では、普遍的なコメディーとして楽しめるのだが、その一方で、「米国社会における黒人の問題」という特殊事情となると、やはり、日本人には理解が追いつかないところがある。
差別、貧困、低学力、暴力、犯罪、麻薬、そして悲惨な死といった黒人に対する固定観念が、知識階級の黒人を疎外しているという構図や、白人の贖罪の意識が利益をもたらすという経済的な仕組みは、確かに興味深いのだが、頭では理解できるものの、それを肌感覚で実感することは難しい。
映画としても、「あぁ、アメリカ人だったら、もっと楽しめるんだろうなぁ」と思わせるところが少なからずあり、残念に思ってしまった。
突然の死を迎える妹、ゲイの兄、アルツハイマー病を発症して介護が必要になった母親といった、主人公が抱える家族の問題が、小説家としてのドタバタ劇にうまく絡んでこないところも気になった。
ただ、これについては、仮に主人公が、そうした黒人としての特色が何も感じられない「普遍的な家庭の話」を小説にしたとしても、やはり、売れないだろうなとも思えてしまう。
ラストで提示される3つのエンディングについては、監督が選んだ「主人公が警官に射殺される」というオチが一番面白いと思ったが、そこで、ふと、自分もステレオタイプな黒人像に囚われているのではないかと気付かされて、ドキリとしてしまった。
すごく面白い
売れない純文学作家が、シャレで書いたエンタメ小説でベストセラー作家となる。その上、偽名で書いたその作品を審査する立場となる。それまで困窮していたのにお金が入って親の介護を手厚くできることにもなり、人生や社会の一筋縄でいかない感じがすごい。
映画業界人のチャラい感じが面白い。
自分はまるで売れてない漫画家で生活がやばい状態なので、ベストセラーなんて羨ましいばかりだ。
❇️気まぐれで書いた黒人を皮肉った攻めた本が人生を変えて行く?
アメリカンフィクション
🇺🇸カリフォルニア州のロスアンゼルスのハリウッド、マサチューセッツ州のボストン
❇️気まぐれで書いた黒人を皮肉った攻めた本が人生を変えて行く?
🟡冒頭ストーリー
教師の仕事をクビになり、売れない小説活動をする主人公。
実家に戻るが、家族の不幸や母の世話やお金の問題と負の連鎖で自暴自棄な主人公に皮肉な出来事が次々と起きる。
◉82C点。
★彡コリャ面白かった。
ブラックコメディーと言うほど笑いがあるわけでも無いがとにかく皮肉がたっぷり詰まった作品でした。
🟢感想。
1️⃣面白い展開が観てて引き込まれました。
★彡人種を皮肉った小説をパソコンで打ち込むと自分の周りで物語が動く流れが見所だと思います。
2️⃣ゲスな小説が皮肉にも大ヒット!
★彡インテリな作品を出したい意識高い系主人公だが、気まぐれで黒人を誇張した安易な作品がヒットしてしまう不本意なのが面白い。
3️⃣完璧な結末‼️
★彡これ以上ありえへん🐽
皮肉がすぎる🤭
🏳️🌈🍷📘📺😤👩🏾🦱👨🏾🦱👵🏾👨🏽🧔🏾♂️🤷🏿♂️👨🏿❤️👨🏿👔🏆💻💸💵📖📝❤️🩹💮🔞🆒
🈲ネタバレ保管記憶用
大学教員をクビになり、実家のボストンへ帰る。信頼しているお姉さんは突然亡くなり、母はアルツハイマーを発症、弟はゲイでカミングアウト、生前の父親は不倫していたなど散々な負の連鎖。
母親の施設のお金が無いため、黒人ぽい気まぐれな小説が大ヒットしてしまう。
自分の身元は明かさず犯罪者で逃亡してる流れになってしまう。
文学賞の審査員に任命されこの作品が大賞を取ってしまう。
映画化も決定してしまい、ふざけた作品をボツにする為、色んな無理難題をぶつけるがそれも採用される。
大金が入り母親を施設の庭入れる事ができる。
賞の発表会で重たい腰を上げ壇上に上がる主人公。
場所が変わり、映画監督と賞を取った後どんな結末にするのか話し合う。
1️⃣賞を取った後エンドロールを希望する主人公。監督からつまらんと却下。
2️⃣喧嘩した恋人とよりを戻す結末も却下!
3️⃣壇上に上がった主人公。逃亡者と思われていたため、警察にボコボコに撃たれて死んでしまう結末を言うと、大絶賛されストーリーは終わる。
★彡とんでもなく緻密で、皮肉のたっぷり効いたラストには感心しました。オモロー🤘
そういう人も確かにいるだろうが、もっと他にもあるだろう
侮辱的な表現に頼る“黒人のエンタメ”から利益を得ている世間の風潮にうんざりし、不満を覚えていた小説家が、自分で奇抜な“黒人の本”を書いたことで、自身が軽蔑している偽善の核心に迫ることになる(Amazon Primeより)。
わたしたちは、東北の片田舎から上京したてで高層ビル街で右往左往する若者のことを助けたいし、LGBTQというテーマでパレードに参加して声高に主張する人も、密やかに生活を送りながらも苦しみに苛まれている人もどちらも理解を示したいし、サスティナブルな商品で地元を盛り上げようとしている地方の中小企業のことは応援したい。
一方で、「片田舎から上京してきた若者」「LGBTQの人々」「地元を盛り上げたい地方の中小企業の社長」の、例えばお母さんの介護の問題や、兄弟間のお金の問題などにはあまり関心がない。ちょっと極端な例だが、日本に准えて言うのであれば、本作で扱っているテーマはこれである。
ややわき道に逸れるが、黒人選手が全体の70%以上を占めるアメリカのプロバスケットボールリーグ「NBA」では、スラムに生まれ、毎日食うや食わずの生活だった子どもが、持ち前の身体能力と血反吐を吐くような努力と最高のコーチを得て、100万人にひとりという極めて狭き門のNBA選手になり何億円も稼ぐアメリカンドリームを勝ち得た、というナラティブが大人気だが、2024年の現代において、そういった選手は、いないとは言わないが、かなり稀である。
本作でも、黒人は全員ラップを愛し、父親はだらしなく、経済格差に苦しみながら、ドラッグに溺れ、最後は白人警察官に銃で撃たれるが、人間として最も大切な尊厳は奪われなかった、というナラティブが皆が求めるものとして描かれているが、主人公の黒人小説家モンクは辟易し、「そういう人も確かにいるだろうが、もっと他にもあるだろう」と嘆息を漏らす。かれの実家は全員黒人だが比較的裕福で、兄と妹、亡き父は医者で、本人は文学の博士号を持っている。
本作では、主に白人がこうしたステレオタイプの物語へ理解を示し、「これこそが生の黒人の声なのだ」と捉えることを「免罪符」と皮肉気味に表現している。そうすることによって、自身の人種が歴史的に為してきたことがちょっと赦される気分に浸れるしどこか安心できる一方で、モンクの指摘するように、そんなことだけじゃなくてもっと色んなこと、「別の生の黒人の声」には耳を傾けなくなる。文学賞の審査会に、そんなアイロニーが込められている。いや目の前にいる黒人審査員の意見は?みたいな。
とは言えとは言え、商業的な成功やエンタメ性も大切な要素ですよねはいはいもちろん分かってはおりますよ、という本作の制作者自身もメタ化する結末は、大衆の期待するナラティブにどこまでも抗い続けていて小粋ですらある。
セロニアス・モンク
2024年5月1日
映画 #アメリカン・フィクション (2023年)鑑賞
黒人のステレオタイプな描写を嫌悪している黒人小説家は何年も本が売れてない
姉が急死し、母親のアルツハイマーが進行する中、毛嫌いしていたような小説を執筆し、偽名で出版したら大ヒットし映画化が決まる
アメリカの現状がよく分かる
ストレート過ぎたような
黒人に対する評価をストレートに表現してたのでもっと変化球でくるのかと思ってました。事前に評価されてる話を聞いていたので、もっと何かあるのではと思ってみてしまったのも良くなかったのかも。
なかなかの出来でした
大笑いするコメディではないが、ニヤっとさせられるコメディでした。大きな出来事は起きませんが、淡々と程良いテンポで話は進み飽きる事はありませんでした。
ラストの終わり方も意表を突かれ面白かったです。
アメリカではあるあるなのかも
ステレオタイプの黒人を求める社会に一石を投じる作品です。
ステレオタイプの黒人を求めているのは実は白人で当事者である黒人はそれを快く思っていない、というのは日本人である私には良く分かりませんでしたが、アメリカでは共感できる内容なのでしょうか?
物語の構成はユニークです。
全55件中、1~20件目を表示