ラ・コシーナ 厨房のレビュー・感想・評価
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スラングと暴力と差別がこれでもかと出てくる
ニューヨークの観光客向けの大規模レストランの厨房が舞台のお話し。
話の展開の中で、レストランのフロアも何度か短時間出てきます。また、店の裏口に面する裏通りも、重要な場面になります。
主役はいるけれど、レストランのスタッフの群衆劇と言って良いでしょう。
スラングと暴力と差別がこれでもかと言うほど出てくるし、話の展開は全く読めないです。
物語全体としても、結末としても、かなり胸くそが悪い映画だと思います。
でも、この映画は面白いと思ってしまいました。
つまらない映画との差って、一体何なのかなぁ。
富を生み出す工場
観光客向け大型レストラン「ザ・グリル」の厨房での一日の出来事を描いた本作。
ロブスターが入れられた水槽を挟んで向かい合う主人公ペドロとジュリア、このフライヤーの絵の構図が本作を如実に物語っている。
ロブスターはその調理法や運搬方法が確立するまでは肥料などに使われる貧者の食べ物と言われた。しかし今やそれは富を生み出す高級食材に。ラテンアメリカの貧しい国々では命を失うリスクを背負いながら生活のために深い海に潜るロブスター漁をやめれないのだという。
いまや貧しい国の人々が一切口にできないロブスターを富める国の者たちが口にする。資本主義社会とは富める者が貧しい者を搾取することで成り立つ。同じ構図は富める国の中でも存在し、不法移民や貧乏白人、黒人奴隷を搾取することで資本家はその富を築いてきた。レストラン「ザ・グリル」はまさにそんな資本主義社会の縮図である。
清潔で落ち着いた店内の客席とは対照的に雑多な人間たちであふれかえった厨房。彼らは分業体制でそれぞれの担当する仕事を任されている。
産業革命以降機械の発明により農民や職人たちは仕事を奪われ単純作業のみを繰り返す単純労働者となった。単純労働だからいくらでも交換が効くし、経営者は低賃金で雇うことができた。
劇中でもペドロは料理長から腕のたつ料理人だがほかにいくらでも代わりはいると言われる。その通りで彼のように仕事を求めてアメリカに来る不法移民は後を絶たない。
彼ら従業員はまさに機械に使われるがごとく、常に客からの注文が送信されるキッチンプリンターの指示通りに働かされる工場労働者だった。そこはまさに料理を作る厨房ではなく口に入る物を製造する工場。
すべては富を生み出すために作り上げられたシステム。しかしそこで働く従業員たちは機械ではなく人間だった。
オーナーはこのシステムに油をさすのを忘れなかった。彼は常に不法移民たちにビザ取得をほのめかした。そうすることで彼らのモチベーションを維持しこの低賃金重労働体制を維持した。
彼らの夢実現という餌をぶら下げて彼らを搾取し続けた。そんな完ぺきと思われたシステムにほころびが生じていく。
厨房には貧困から抜け出すためにやってきた移民たち、黒人奴隷の子孫、貧乏白人、そんな従業員たちを束ねるのも移民であるマネージャーや料理長である。それは奴隷制度の時代、奴隷を束ねていたのも黒人奴隷であったことを思い起こさせる光景だ。オーナーはもちろんアメリカ白人。
ビザを取得して不法移民という立場を脱すれば今より楽で賃金のいい職場に移れる。そのために今は耐えていた不法移民の彼ら。しかしその同じ職場にいるのはまさに彼らが目指す立場のアメリカ人たちだった。
彼らが憧れるはずのアメリカ人が今の自分たちと同じ過酷な職場で働いている現実に彼らは気づいていたであろうか。所詮自分たちは富を生み出すための機械の一部でしかないことに。
ペドロは恋人ジュリアとの将来を思い浮かべていた。共に故郷で観光客向けの商売をして楽しく暮らしたいと。だから自分の子供を堕ろしてほしくなかった。
同じ労働者の二人。愛し合ってはいるもののその二人には隔たりがあった。ロブスターの水槽のように。
アメリカ白人のジュリアは自分の体が蟻に侵食される夢を見るのだという。それは漠然たる不安。今や白人が少数派になるというくらい有色人種が多くを占めるアメリカで移民であるペドロを愛しながらも自分たちの居場所が移民たちに奪われるのではないかという漠然たる不安を抱いてるのだろうか。けして良い仕事ではないウエイトレスの仕事さえも奪われるのではないかという。
アメリカンドリームはいまやただの「ドリーム」だ。一握りの富裕層が大半の富を独占する超資本主義社会で自分の夢をかなえるのは不可能に近い。よほどの才能と運でもない限り。渡ってくる移民たちにはもう食べ残ししか残っていない、それをアメリカ人の貧困層と奪い合うのだ。
ジュリアが自分の子を堕胎したことを知り絶望するペドロ。どんなに愛し合っていても、やはり移民の自分は受け入れてもらえないのか。ジュリアが堕胎したのはこれ以上子供を持つ余裕がないことも理由の一つだったが、ペドロは自分が移民のせいなのかと思い込む。事実ジュリアには移民への漠然たる不安もあったが。
ビザ取得もオーナーによるリップサービス、それに加えて金を盗んだというあらぬ疑いをかけられ、今までたまりにたまっていた鬱積が爆発する。
彼が暴れて無茶苦茶にされた後、静寂に包まれた厨房には今もなお働けと言わんばかりに壊されたキッチンプリンターの音だけが響き渡る。オーナーは自分が作り上げた製造ラインがストップした状況に呆然とする。彼の資本主義システム、富を生み出す製造工場が止められて怒りを顕わにする。
ピューリタンの子孫さながら神の許しを得たのかとペドロを問い詰める。勤勉さ、効率的という彼らの神の教えがこの資本主義社会を押し上げてきた。仕事を止めることは神の教えに反する。だからこそ彼はペドロに言う、神の許可を得たのかと。
職も食事も与えてやった、これ以上なにを望むのかというオーナーの言葉に押し黙る従業員たち。そこには対等な雇用関係というものはない。まさに支配者と被支配者という関係があるだけだ。搾取する側される側、産業革命初期の資本家と労働者の関係。それに気付いていないのはオーナーも同じだ。
ペドロは悟ったのかもしれない。ここは自分のいる場所ではないと。自分の神ではないと。自分たちを搾取するだけの神、この神は自分を幸せにしてくれないと。改めて資本主義社会は自分たちを幸せにはしないと気付いたのかもしれない。
緑色の光に包まれるペドロ、緑の光は幸せの光だという言い伝えがある。彼は間違いなくこの場から去るだろう。そして光に連れ去られた彼は知らない場所で普通に平穏な暮らしをしてるのかもしれない。どちらにせよ今のアメリカにいても幸せになれることはないだろうから。
ペドロは資本主義の搾取システムである富を生み出す工場を停止させた。それは彼の意図してのものではないだろうが、それは搾取され続けた労働者によるサボタージュでありプロレタリアートによる抵抗運動を象徴してもいる。
かつては資本主義はその暴走の恐れからそれを補完するためのニューディール政策の様な社会主義的政策が取られた。しかし冷戦終結後、社会主義国が軒並み崩壊して資本家たちは社会主義への脅威は去ったとして、労働組合の勢いが衰えたのを機に社会主義的福祉政策をどんどん切り捨てていまや産業革命当時の資本主義社会に逆戻りした。労働者は貧しい不法移民などで事欠かない。新自由主義の下で富める者はますます富を得て貧者はますます貧しくなった。
超資本主義社会の搾取システムの中で生きる人々。その中で最も搾取される不法移民たちをメインに描いた物語だが、メキシコ人監督はけして不法移民たちをただの被害者とは描かなかった。それは障害者を聖人として描かないのと同じく、あくまでも移民をフラットに見てもらいたいという思いからなのかもしれない。
移民を受け入れるということは彼らの文化や習慣もある程度は受け入れることを意味する。ただ外国製の機械を導入するのではなく血の通った人間を受け入れるということは生半可なことではない。だからこそ移民を受け入れるということはどういうことなのか綺麗ごとだけではないということを観客に問いかけたかったのかもしれない。
厨房での従業員たちの傍若無人ぶりや衛生面の描写はさすがにやりすぎな気もしないでもないが、ただ学生時代バイトしていた有名ビアレストランのドリンク用製氷機の中にはよくゴキブリの死骸が混じっていたな。まあ大昔の話だから今はそんなことないだろうけど。
Sabotage
あらすじを読む感じ厨房地獄映画かな〜と思いワクワクしながら鑑賞。
夢に飢える者たちの人情ドラマと厨房でのカオスな環境と静と動を思う存分楽しめる一本でした。
多くの人種の人々が働くレストラン「ザ・グリル」で800ドルが無くなるといったところから話はスタートし、これがメインになっていくのかなと思いましたが、別にそこは主軸ではなく、群像劇と戦闘のダブルパンチでやってくる怪作です。
間違いなくこの厨房にぶち込まれたら発狂すると思いますし、賃金目当てとはいえここに自ら飛び込むのは勇気がいりすぎます。
1回目の厨房で全員の怒りが爆発していくシーン、これがひたすら長回しで連鎖していく怒り沸き立つ瞬間の連続にやられっぱなしでした。
もう見るからに不真面目なペドロを始め悪ノリしまくったり、指示がうまく伝達していないからか料理の提供が遅れてしまったり、飛び込みで入ってきた新米もワッタワタしたりしてでもう厨房内で罵声が飛び交うとんでもない状況になっていて圧巻でした。
チェリーコークの機械がぶっ壊れて流れっぱなしなのもあって厨房内水浸しですし、やっとこさ出来上がったチキンを提供する流れになったのに他のウェイトレスとぶつかってチキンはコークの中に突入してしまったりともう目も当てられない状況になっていてカオスでした。
2回目の厨房ではペドロが場を支配するかの如く勢いで大暴れしますし、残り物に顔突っ込んで全身で浴びて血まみれになってとかの流れはもう笑うしかないくらいの勢いでした。
そこにストライキも入ってきたり、支配人も咎められたりと職場崩壊が見事なまでに起こったりとで心苦しかったです。
白人であるマックスがしっかり仕事もやっているのに他の不真面目な連中にヤキモキしている様子は分かるわ〜と思いますし、ペドロがクソみたいな絡みをしてくるせいでそりゃ怒るわってくらいブチギレるのは見ていて気持ちよかったです。
ナイフとかで刺すんじゃない?ってくらいの勢いでしたがとどまったのは偉すぎる。
ペドロとジュリアの恋模様も複雑に描かれるのですが、全編通してもペドロの良さが分からないのにジュリアも関係性をなぜ続けていくんだろうと思って観ていましたし、料理に携わる仕事なんだからチョメチョメした直後に料理を直で行くんじゃありませんと何度思ったことか。
この恋模様にも事情ありとはいえ、テンポもあまり良くなかったのでここは少しくどかったかなと思いました。
支配人のセリフも分かりつつも、それだけじゃ納得のいかない従業員たちの気持ちも分かりつつ、でも皆々様仕事に力は入れてなかったよな?という些細な疑問も残ったりとで良い具合にモヤモヤするのもまた面白かったです。
上司と部下が分かり合える環境ってやっぱ希少だし、日本はそこんとこまだ良い方なのかなと考えるきっかけにもなりました。
まぁこの厨房内を見た後だとここでの食事は絶対嫌だなとなります。
調理の様子までは分からないにしても、提供の様子は雑ですし、ペドロ大暴れで料理も皿もぶち壊しまくりなので、もし来店したら間違いなく⭐︎1つけちゃうと思います笑
ラストシーンもそうくるか〜といったまとめ方で、第一印象からはガラッと変わっていくのもこれまた一興でした。
オシャレとカオスが同居している不思議な作品。
評価はキッパリ分かれると思いますが個人的には楽しめたのでオールオッケーです。
鑑賞日 6/17
鑑賞時間 15:45〜18:15
ジュリアに傷心
騒がしい厨房から始まるんだろうな、とか、売上金の件が物語の“転”になるんだろうな、とか…
予想が悉く外れて少し悔しい。笑
とりあえずスタッフの民度が低過ぎる。
スタッフ同士で軽口叩いたり煽りあったり喧嘩したり、まともに働いてる人間の方が少ないのでは。
勤務中に酒は飲むわつまみ食いするわ煙草も吸うわイチャつく(どころじゃないが)わ、どんな店だよ。
ジュリアがペドロを受け入れたり突き放したりする情緒も理解不能。
というか休憩時間に中絶するんじゃないよ。
そもそもあれってどういう店?
フロアも厨房も広いし、調理は細かく担当で分かれてるし、従業員の数も多くて客も裕福そう。
でもスタッフの質は悪く(裏場だけかと思ったらバースディソングも適当)バーガーなんかも扱う。
あんな店が本当にあるのだろうか…(絶対行きたくない)
売上金の紛失やら妊娠やら夢やらいざこざやら、普通に考えればすべて移民差別に繋がるのだけど…
ペドロはじめ、全員個々の人格に問題があるようにしか見えないんだよなぁ。
冒頭にあった世界を「商売の場」とする引用や、タイムズスクエアの話もイマイチ繋がらない。
静と動のコントラストの付け方とか、ロングカットを中心としたアングルとかは良かったけどさ。
バレても覗き続けるネズミの胆力は見習いたい(オイ
モノクロでないと完走できない狂気がラストに待っているので要注意案件ですよ
2025.6.17 字幕 アップリンク京都
2024年のアメリカ&メキシコ合作の映画(139分、G)
原案はアーノルド・ウェスカーの戯曲『The Kitchen』
NYのレストランの半日を描いた風刺コメディ映画
監督&脚本はアロンソ・ルイスパラシオス
原題は『La Cocina』で「厨房」という意味
物語は、メキシコから母の知り合いであるシェフのペドロ(ラウル・ブリオネス・カルモナ)を訪ねて、エステラ(アンナ・ディアス)が海を渡ってくる様子が描かれていく
店の場所を人に尋ねながら辿り着いたエステラは、面接を遅刻したシトラリ(サルマ・アルヴァレス)と間違えられて面接を受けることになった
その際に店のトラブルが発覚し、面接はおざなりになったまま、担当のルイス(エドゥアルド・オルモス)の一存で、その場にいたラウラ(ローラ・ゴメス)と一緒に採用されることになった
店のトラブルは、昨夜の売上金の一部が紛失したというもので、オーナーのラシッド(オデット・フェール)は「犯人を見つけて追い出せ」とブチ切れた
そこでルイスは、多忙な金曜日を承知で盗まれた金を探すことになり、全従業員に聞き取り調査を始めていく
そんな中で、新人のエステラはペドロの横についてチキンを仕上げ、昨日の夜に起こったペドロとマックス(スペンサー・グラニース)との喧嘩騒動の噂話を耳に入れていく
ペドロはウェイトレスのジュリア(ルーニー・マーラー)と恋人関係にあり、彼女のお腹にはペドロとの子どもが宿っていた
ペドロは産んで欲しいと思っていたが、ジュリアは頑なに堕ろそうと考えている
そして、店から盗まれたのが中絶費用ではないかと考えられ始め、ジュリアとペドロに疑いの目が向けられた
だが、ルイスはジュリアへの聞き取りの際に「ペドロを犯人と決めつけて尋問を繰り返していく」のである
映画は、冒頭でヘンリー・デイヴィッド・ソローの言葉が引用され、これは『生き方の原則:魂は売らない(Life without principle)』の一説である
1854年の公演にて語られたもので、その後亡くなる直前の1862年に出版されることになった
人生と仕事に関する哲学を語ったもので、労働とその成果による関係性を考え、全ての偉大な事業は自立している、と説いている
この引用の意図は定かではないが、移民の彼らが店の部品として取り扱われ、その成果が危ういバランスで自立に誘われているように見えてくる
また、部品がなければ動かない店を支配しているはずのラシッドも、神の許しなしに好き勝手する労働者をコントロールできないので、彼自身の自立も物凄く脆弱なものに思える
この構造は資本主義社会における経済活動そのものへの警鐘にも思え、部品ではなく自らを自立させ得る人にするために何が必要かを考えさせるもののように思えた
映画では、ロブスターの蘊蓄、宇宙人の光などの様々な例え話が登場し、その中に生きているシェフたちの望みというのは矮小のように語られる
だが、それらを満たすための賃金、環境、精神衛生があれば十分だと考える人もいて、そういった人たちの過ごしやすさを作ることも店の発展には必要と言えるのかもしれない
映画のタイトルは「The Kitchen」ではなく、スペイン語の「La Cocina」なのだが、英語タイトルにしていないところにも意味があると思う
文字通り、「厨房」はアメリカであってアメリカではないのだが、それは移民で溢れているからではない
彼らはビザを取るために腰掛けで働く存在であり、言わば暫定的にそこにいるだけの存在である
25年働いている料理長(リー・セラーズ)ですらまともに扱われていないところを見ると、そこは永遠にアメリカ人になれない人たちの坩堝のようにも思える
そう言った意味を含めると、緑の光で照らされたペドロが赴く先は夢見る地ではないのだろう
いずれにせよ、モノクロになっているので最後まで鑑賞可能だが、耐えきれない人がいてもおかしくないと思う
ジュリアは「10週目」と言われて驚くのだが、それはペドロの子どもではないという意味にも思える
それでも、エイブ(レオ・ジェームス・デイヴィス)がいるからこそ新しい子どもを産もうとしないということは一貫していたので、誰の子どもであれ、同じ決断をしていたのだろう
ジュリアの選択で呆然として自暴自棄になったペドロだが、その起点となるのはラウラの「濡れネズミ」という言葉だった
これはメキシコ移民がリオ・グランデ川などを渡って入国する際に濡れていたことが由来で、当初は「Wetback」というスラングが生まれていた
ペドロは真っ当に生きてビザを取り、自身の夢を叶えようと考えていたが、それすらも叶わないところにこの言葉をモロッコ移民のラウラからぶつけられたことで箍が外れている
これが移民同士が罵りあっている構図になっていて、それが支配者の時間を止めるのだから面白い
そう言った観点から見ても、自立に向かおうとしない資本主義というのは問題が多いのかな、と感じた
【”ロブスター。”今作は白人優位のアメリカ社会は、低賃金の不法滞在者達の劣悪な労働条件有りて循環している事実を、有色人種もしくはプアホワイトで回すレストランの厨房を舞台に強烈に皮肉った狂騒曲である。】
ー 知らなかったが、今作の原案は故、蜷川幸雄氏の演出で上映されたアーノルド・ウェスカーの戯曲「調理場」だそうである。-
・それを、アロンソ・ルイスパラシオス監督は、主人公の料理人を労働ビザが無く、不法滞在しているメキシコ人料理人ペドロ(ラウル・プリオリネス)に置き換え、劣悪な条件下、ビザを与える事をチラつかせながら働かせる総料理長(と言っても、指示するだけで何もしない。)や白人オーナー、ラシッド(オテッド・フェール)等の、”使役者側”の視点と、“非使役者側”の視点で、厨房を描いているのである。
ナカナカ、斬新である。
・厨房は、常に鬼の様に忙しく、見習いとして入った幼きエステラ(アンナ・ディアス)も走り回っている。ウェイトレスは、次々に皿を客席に運ぶが、ハンバーガーや、カレーチキンと言った料理を見ると、そんなに格式の高いレストランではない事が分かる。
■序盤に、ペドロが水槽の中に次々に放り込まれるロブスターを見て”こんなもの、昔は猟師の食い物だったんだ。それが、今や高級食材だよ。”という台詞が、今作を観ていると何ともシニカルに思い出されるのである。
”ロブスターを有難がって食べている白人たちも、昔はこれを庶民の食べ物としていたんだろ!”ってね。
・ある日、レストランの売上金から約800ドルが紛失し、ペドロが恋仲のウェイトレス、ジュリア(ルーニー・マーラ)に中絶金として金を渡した事が噂で流れ、彼に嫌疑がかかるシーン。ペドロは忙しい中、苛立ち乍ら料理を作り続け、ジュリアは堕胎直後にも関わらず、ウェイトレスの仕事を続けるが、倒れてしまう。
そんな時、白人スタッフが血相を変えて”お金が見つかりました。”と、ペドロを追求していた男に言うシーン。その男は狼狽えるが、その事実を厨房に伝えないのである。
<で、厨房は更に混乱して行き、ジュリアに息子がいる事を知ったペドロは更に苛立ち、多くの皿が割れグチャグチャになった厨房で、客のオーダーを知らせる機具を拳で叩き潰すのである。
今作は、白人優位のアメリカ社会は、低賃金の不法滞在者達の劣悪な労働条件有りて循環している事実を、有色人種もしくはプアホワイトで回すレストランの厨房を舞台に強烈に皮肉った狂騒曲なのである。
アロンソ・ルイスパラシオス監督の、厨房の狂乱をドキュメンタリー風に映すセンスが良くって、”第二の、アルフォンソ・キュアロンになってくれい!”と思った作品でもある。>
カオスカオスをたのしめるか?
試写会にて鑑賞。
ボイリングポイントと雰囲気は似てるけど、さらにカオスな厨房と、そこで働く破茶滅茶なアメリカの移民たちのとある一日。
なぜ店として成り立ってるのか不思議なくらい全く秩序のないレストラン。機械が壊れて床は大洪水、キッチンスタッフは女にうつつを抜かしてすぐサボる、同僚に喧嘩売って暴力沙汰になる、なんなら冷蔵庫?の中でいたしてる。面接にきた人を確かめもせず雇い入れる。
それでも大繁盛で大忙しの厨房。流れ作業で料理を運び無表情でハッピーバースデーを歌い、怒られたり勝手にシフト増やされたりしながらもなんとか働くウェイトレス。
アメリカ人に混ざって色々な国の人が働きにきている。彼らはそれぞれ小さな夢があったり、なかったり。多くはメキシコ人でビザ取得をチラつかされてなんとか職にしがみついてる。そんな彼らがなぜ暴れるか理解できないオーナー。でも彼もアクセントからすると元は夢を掴んだ移民なのか?
主人公は滅茶苦茶で、シチュエーションもカオスで、共感できるところが本当にない。笑 唯一、現地の言葉喋れなくてもこんなに自由に振る舞って生きてんだな、自分中心にして生きるってこういうことなのかな。日本人ってやっぱり言語に対して負い目持ちすぎだし真面目すぎよね、ということくらいか。
試写会トークショーでは、全編モノクロだからこそこのカオスぶりでも見れた、という話やカメラの構図が特徴的だったこと。そして店のメニューを作っているシーンはちっとも美味しそうに見えないものの、唯一恋人とホームレスに作っている料理だけはきちんと音も入れて美味しそうに見せていた、という点になるほどね、と思った。
つくづく日本人でよかったわ、というのが感想だろうか。。
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