「一件のレストランの1日を通して描かれる、アメリカ社会の縮図」ラ・コシーナ 厨房 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
一件のレストランの1日を通して描かれる、アメリカ社会の縮図
【イントロダクション】
アメリカ、ニューヨークのタイムズ・スクエアにある一件のレストランを舞台に、様々な国籍の従業員達が織りなす1日を描く。
イギリスの劇作家アーノルド・ウェスカーによる1957年の戯曲「調理場」を原作に、現代アメリカ社会のリアルをモノクロと趣向を凝らしたカメラワークで鮮烈に映す。映画化は今回2度目となる(1度目は1961年、ジェームズ・ヒル監督による『The Kitchen』)。
監督・脚本は、メキシコ出身の新鋭アロンソ・ルイスパラシオス。
【ストーリー】
ニューヨーク、タイムズ・スクエアにある一件の高級レストラン“ザ・グリル”。オーナーのラシッド(オデッド・フェール)は、アラブ系アメリカ人の起業家として成功した人物。ウェイトレスは白人のアメリカ人が多くを占めているが、客から見えない厨房では、ラテンアメリカ人やアラブ系の不法移民が従業員として多く働いている。
英語を話せないヒスパニック系移民のエステラ
(アンナ・ディアス)は、コックのペドロ(ラウル・ブリオネス)のツテを頼りに、単身ニューヨークへ渡り店を訪ねる。英語を理解出来ない彼女は、デザートコックのノンゾ(モーテル・フォスター)の案内で面接室前にやって来る。エステラは面接の事前予約すらしていなかったのだが、運良く事前予約をしていた他人と勘違いされ、店で働くことになる。ペドロは粗暴ながら陽気で料理の腕も良く、前日にアメリカ人従業員のマックス(スペンサー・グラニーズ)との喧嘩も、料理長(リー・セラーズ)の計らいで不問とされた。しかし、優秀ながら風紀を乱すペドロの行動に、料理長は「警告は残り3回だ。3回目は容赦なく追い出す」と念を押す。
ペドロはウェイトレスのジュリア(ルーニー・マーラ)と交際しており、ジュリアはペドロとの子を孕っていた。しかし、「出産後は故郷のメキシコのビーチで家族3人で暮らそう」と夢を語るペドロに対して、ジュリアは中絶の意思を伝える。また、ジュリアは電話で誰か愛しい相手に繰り返し連絡を入れている様子だ。ペドロは、ジュリアに出所不明の中絶費用約800ドルを渡す。
時を同じくして、監督責任者のルイス(エドゥアルド・オルモス)は、帳簿係のマーク(ジェームズ・ウォーターストン)から、「前日の売り上げ金が823ドル足りない」と報告を受け、ラシッドの怒りを買うまいと、彼らはウェイトレスや従業員を次々と面接し、犯人探しを開始する。
いよいよ「午前の部」の店が開店し、従業員やウェイトレスは猛スピードで料理を作り、次々とテーブルへ運ばれていく。エステラはロクに指導を受ける事もなく、店の荒っぽいやり方に着いて行かざるを得なくされる。
ラシッドは犯人探しを含めて厨房の様子を見物に訪れ、ペドロに「ビザの申請に協力する」と口約束をする。しかし、それは従業員のやる気を促し、店の売り上げを保つ為の体の良い嘘でしかなかった。
チェリーコークの自販機が壊れ、厨房が水浸しになるという惨事にも拘らず、客のオーダーに合わせて次々と料理が作られては運ばれてゆく。ペドロの夢、ジュリアの中絶、翻弄されるエステラ、犯人探しに躍起になるルイスetc.様々な人物達が入り乱れる混沌とした空間の中で、“ザ・グリル”の長い1日が幕を開ける。
【感想】
本作にコメントを寄せている著名人含め、他の方も散々指摘している事だが、これはまさに「資本主義社会の縮図」だ。元の戯曲、及び1度目の映画化の舞台であるヨーロッパから、本作では舞台をアメリカへと移し、様々な登場人物達が織りなすドラマ、クライマックスの怒りの爆発に「現代アメリカの縮図」を見せる。
移民問題や人種差別、そして資本主義社会の搾取構造。一件のレストランの1日を舞台に、それぞれの登場人物達の抱える問題を浮き彫りにしていく。
グルメを題材にしつつ、登場する料理がその殆どに魅力を感じないという“逆フード映画”なのが凄い。但し、私は作中2度、登場する料理を「美味しそう」だと感じた。それは、ペドロがジュリアに振る舞うサンドイッチと、ホームレスに振る舞うロブスターの弁当だ。それはどちらも“相手の為を思って”振る舞われるものである。ベタではあるが、そのようにさり気なく“料理の本質”を描いている抜け目なさがニクい。
開店後の慌ただしい店内の様子をワンカットで捉えて見せたカメラワーク、作中数少ないネオンライトの青い“色”のある肉の冷蔵室内でペドロとジュリアが語り合うシーン等、魅力的で印象的なシーンは数多く存在するのだが、やはり特に印象的なのは、ペドロをはじめノンゾやサルバドール(ベルナルド・ベラスコ)、ネズミ(エステバン・カイセド)やサミラ(ソンドス・モスバ)といった様々なルーツや価値観を持つアメリカン・ドリームを夢見る移民達が、休憩時間に店の裏でそれぞれの夢について語り合うシーンだろう。
本作を語る上で重要なのが、この時にノンゾが語った“2度の緑の光”についての話だ。
とある移民が、入国審査で隻腕である事を理由に檻に入れられてしまう。強制送還を待つのみだった彼は、宇宙人に緑色の光線によって連れ去られ、離れた街で発見された。彼は生涯悲しみを背負いながら生きたが、そんな中でも確かに輝いている瞬間があったそう。
話が終わり、ネズミは「2回目は?」と尋ねるが、ノンゾは「そんな事言ったっけ?」と覚えていない様子。
この2回目の光こそが、ラストでペドロが照らされる緑色の光に繋がる。ラスト、ペドロは自らが破壊した厨房のオーダー機の緑色のライトに照らされ、1人緑に輝く(僅かにエステラも)。
もしかすると、ペドロはこの先、アメリカへやって来て夢に敗れた悲しみ、ジュリアとの恋に破れた悲しみ、そうした様々な悲しみを背負って生きていくのかもしれない。しかし、ノンゾの話にあるように、緑色の光に照らされた事で、悲しみの中でも彼なりの輝きを放ちながら生きていけるのだとしたら、彼の行く末は決して暗いばかりではないようにも思える。
クライマックスでジュリアの中絶、そしてその理由を知ってしまうペドロが切ない。
ジュリアが作中度々連絡を入れていた相手、それは、本命の恋人等ではなく、10歳程の息子だったのだ。シングルマザーである事を周囲に隠し(もしかすると、ウェイトレス仲間には知っている者も居たかもしれないが)、育てていたからだ。彼女が冷蔵室で語った「18歳の時の妊娠」。その時の感覚を忌避している様子から、てっきり過去にも中絶したのだと勘違いしていたが、彼女は子供を産んでいたのだ。だから、ペドロの子供を産む事も、共にメキシコへ行く事も出来ないのだ。
全てを知ったペドロは、茫然自失となってしまい、ウェイトレスとの口論を皮切りに、厨房やレストラン内で暴れ回り、店を機能停止に追い込む。
私には、この自暴自棄となるペドロの気持ちが痛い程分かった。それと同時に、一種の痛快さも感じた。それはまるで、ラストでエステラが僅かな笑みを浮かべてペドロを見つめていたように。
ペドロは、ラシッドの下で3年間勤め上げてきた。未だビザの取得も叶わず、しかし恋人との夢が彼の支えとなっていた。それが崩壊した以上、彼には暴れ回る事で「俺は此処に居るぞ!」と存在証明する他なかったのだろう。それは、彼に出来る唯一の無情な現実への叛逆である。そして、あの瞬間、彼は確かにこれまで自分を搾取してきたラシッドの世界の時を止めて見せたのだ。
その様子に、私はカタルシスを感じずにはいられなかった。
【資本主義社会における、搾取する側・される側】
ペドロが売り上げ泥棒の疑いを掛けられた際、面接室でルイスに語ったベトナム戦争下での小話が印象的かつ本作を象徴するものである。
「どんなに親しくしていても、俺たちはアメリカ人にはなれない」
それは、アメリカン・ドリームを夢見てやって来て、その果てでビザの取得を盾に、ラシッドの下でこき使われるあの厨房の移民全員が感じている本音だろう。だからこそ、彼らは「神の次に偉い(意訳)」と豪語するラシッドの、「これ以上何が望みだ?」という問い掛けに沈黙で答える。暴れ回ったペドロを止めに入りつつも、彼に笑みを向けたエステラのように、何処かで彼の行動に賛同する気持ちを抱えていたのではないか。私には、そう映った。
だが、あの店で搾取されているのは、何も移民達だけではない。監督責任者のルイスや帳簿係のマーク、果てはあの店で25年勤め上げてきたという料理長すら、ラシッドからクビを切られる事を恐れ、彼に支配されている。特に料理長に至っては、調子に乗ったペドロに囃し立てられた他のシェフやウェイトレスに求められれば、国家を披露してお尻を出す事でその場を収めるしかない。
ラストのペドロの自暴自棄は、支配する側の傲慢さを浮き彫りにさせ、そんな支配者側は支配しているはずの一個人の叛逆によって、自らが築き上げた世界を止められてしまうのだ。
【総評】
現代における資本主義社会の縮図を、モノクロによる映像で痛快・痛烈に描いてみせる。
ペドロの行く末が、ノンゾの語った話のように、悲しみの中にも確かな輝きを持つものである事を願うばかりだ。
ところで、勤務中にあれ程皆でビール缶を開けて乾杯し合っている厨房はどうなのだろうか?(笑)少なくとも私は、あの店で食事をする気にはなれない。
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