「人間という箱の、ミクロコスモス」箱男 REXさんの映画レビュー(感想・評価)
人間という箱の、ミクロコスモス
どこから書けばいいだろう。
とりあえず、意外にも全体を通して概ね原作に忠実だったことに驚いた。
原作を大きく改変せずに、まとめあげたのは凄いと思う(後述するがラストだけ違う)。
箱=匿名の存在になることは、社会的には一種の逃げで、社会からの防衛的手段。
自然界では、生態系のトップに立つ存在以外は、基本的にどんな動物も「隠れている」。身を晒すことは、生命の危険および狩られる危険性があるからだ。
箱男は、箱という安全領域から覗き見ることで社会を「狩って」いるのだろう。
(箱男を襲うホームレスは、箱男を好んでおらず排除したがっている。なぜなら彼らは世間の好奇に晒されているし、仕方なくその立場に甘んじているから、積極的に隠遁している箱男が邪魔なのだ)
原作でも映画でも、箱からの視点と立場はめまぐるしく入れ替わる。偽箱男は、箱男が自分の行動を客観的に描いた存在かもしれないし、ストーリー上には存在する、箱を奪い取ろうとする「本物の偽者」なのかもしれない。はたまた先代の「箱男」のノートを受け継いだ物語を完成させるための、思考実験の賜物なのかもしれない。それとも、もしかしたら軍医は箱男の成れの果てなのかもしれない。
たった紙一つで絶対領域を作り出せてしまうことの面白さと怖さと滑稽さ。
箱という安全地帯から抜け出せない男を優しく誘導する女性は、やはり徹底的なリアリストなんだな。
でも、安倍公房はそんな些末な人間社会を描きたかったわけじゃない気がする。
人間という箱の、ミクロコスモス。思考という深淵な渦に自分自身が飲み込まれたら、現実との境がなくなるのでは、と。そもそも「認識」とは何なのかと。もっと壮大なテーマを抉っているのかもしれない。
安部公房は、監督に「映画化するなら娯楽に」と語ったそうである。
その公約通り?なのかはわからないが、結末だけは原作にはない「映画的」なアレンジがされていた。
いわゆる映画のスクリーンを箱男の窓になぞらえて「あなたも潜在的な箱男だ」と示唆したのだが、形だけでも結末らしさを迎えねばならないという意識が働いてしまったのだろうか。一種取ってつけたような安易さも感じたが、SNS時代の今に通じるメッセージとも受け取れる。
しかしそのせいで、テーマが少しぶれたようにも感じる。