「現代にマッチした安部公房作品の見事さ」箱男 sow_miyaさんの映画レビュー(感想・評価)
現代にマッチした安部公房作品の見事さ
ダンボール箱という、力づくで剥がされればひとたまりもないものを被って、匿名性が保証されたと勝手に気を大きくして、小さな窓から覗いた世間を嘲笑う主人公の「わたし」
安部公房の50年前の作品が、現代のスマホ全盛時代のメタファーとして、これほど機能しようとは…という思いだった。
50年前は、多分カメラの普及を念頭においた作品だったのではないかと思われるが、今作では「日記が重要」というセリフ通り、周りをシャットアウトした中から生まれ出た言葉を、勢いのまま書き連ねる「SNS」等のネット状況が、明確に意識されていることは間違いない。
象徴的だったのは、劇中で繰り返される「箱男を意識するものは、箱男になる」という言葉。
自分はこれを聞いて、Xなどで掃いて捨てるほど目にする「執拗に特定の個人に粘着するアカウント」の存在を思った。
冒頭で描かれていた通り、そこに存在していても気に留めなかったり、ないものとして扱ったりというのは、必ずしもその対応の全てを肯定できるものでもないが、社会に生きる態度としては、概ね健全(個人として明らかに闇を抱えていないという意味で)と言えるだろう。
また箱男も、そっと閉じたダンボール箱の世界の中で、小さな窓を通して見たものを、自分の中で処理しているだけなら特に問題は起きない。
だが、箱男の存在が気になり、執拗に攻撃を与えるワッペン乞食のようや存在や、わたし、軍医、偽医者たちのようにスルーできなくなってしまう者たちが現れた途端に、当人たちの間で問題が表面化してくる。
いずれにしろ、そのような者たちの未熟さがこれでもかと描かれているのが、本作ということなのだろう。
そうした、色々と言葉を弄しながらも、結局のところは社会と折り合いが付けられず、欲望的にも幼なさが見え隠れする主人公たちに対し、葉子のなんと軽やかで力強いことか。
男たちより一歩も二歩も抜きん出ている葉子が発する、原作にも出てくる「夏だからじゃない?」というセリフの身も蓋もなさに思わず笑ってしまったが、いよいよ蛹から成虫へと変化するかと思われた箱男が、ヤドカリのように箱を巨大化させただけだったことを察して、静かに立ち去るところもクールだった。
ラストシーンの仕掛けには、ちょっと驚かされたが、最後のセリフはややダメ押し感を感じてしまったので、マイナス0.5。
アート作品のような美術のすばらしさと、光のコントラストや構図の美しさにも惹かれた。
(撮影監督は「PLAN75」や「あんのこと」の浦田さんとのことで納得)
この映画の世界観をもとに、原作をもう一度ゆっくり読み直してみようと思う。
執筆取材に全て同行した愛人(山口果林)と嫉妬に狂った安部夫人のバチバチの闘いの間を『箱』をかぶって逃げ廻る安部公房。ガッツリ理論武装した小説を書く裏ではけっこうフツーのおっさんだったりしてカワイイ。映画の中で原作の一文“かるく手淫してみる”を映像にした箇所は秀逸。
コメントありがとうございます。
おっしゃる通りで、ネットが普及した世界を知らない安部公房の物語が、図らずもネットを介したコミュニケーションの匿名性や攻撃性を連想させる寓話のようになっているのはすごいですよね。
人間の本質を見るセンスのようなものを感じます。
コメントありがとうございます。
原作読まれてるのですね。
主人公たち(特に永瀬正敏)の、幼さ、よく言えば純粋・・・
SOWさんのおっしゃる通りですね。
私はスマホやネット情報と箱との関連が、
どうしても理解出来ませんでした。
「箱男」は日記にとても拘りを持っており、カメラで写す。しかし、
社会と繋がりを遮断して箱にいますね。
監督は週刊文春の対談で、「箱男とは、なんですか?」の質問にキッパリと、
「自画像です」と答えました。
確かにラストは駄目押ししなくても、観客に委ねた方が良かったですね。
(長文失礼しました)