「劇場版チェンソーマン レゼ編 ― Jane Doe ―」チェンソーマン レゼ篇 もっさん。さんの映画レビュー(感想・評価)
劇場版チェンソーマン レゼ編 ― Jane Doe ―
Jane Doe──アメリカのドラマやニュースで、身元不明の女性遺体に付けられる名前だと知ったのは随分前のことだ。けれど「誰にも知られずに終わった人生」という気配が、その語感の中に薄く残っていて、聞くたびになんとなく胸がざわつく。
『劇場版チェンソーマン レゼ編』は、そんな Jane Doe にまつわる、小さくて儚い物語である。レゼという名前は、彼女が“まだ生きていたとき”に名乗っていた偽名だ。東京の片隅で、カフェで、誰とも深く関わらず、けれど確かに呼ばれていた名だ。
レゼは、チェンソーの悪魔を手に入れるためにデンジへ近づく。あざとさが計算なのか素なのか、観客でさえ判別に迷うほど自然に、彼女はデンジの懐へするりと入り込む。デンジの口からこぼれた花を受け取り、飾り、唐突に艶めいた話をしてみせる。その“距離の詰め方”の見事さに、なるほど多くの人が「自分はレゼだ」と名乗りたくなったのも分かる気がした。
一方で、マキマもまたデンジをデートに誘う。だがその内容は、映画を十本はしごするという、色気とは程遠い代物だ。初めて観たとき、私は正直、レゼのアプローチとの落差に笑ってしまった。
けれどマキマは劇中でこんなことを言う。
「おもしろい映画は10本に1本しかない。でもその一本に心を動かされたことがあるんだ」
マキマはあくまで“自分の心を揺らす瞬間”を探して映画を観ている。デンジの機嫌を取っているようでいて、実際には自分の内側の欲求に忠実なのだ。
対してレゼは、デンジの好みに寄り添い、相手が喜ぶ顔を探りながら距離を詰める。内面を覗かせるマキマと、外面を巧みに変えるレゼ──二人の女性の“寄り添い方”の違いが、物語を静かに彩っていた。
中盤の戦闘シーンでレゼが見せる強さは圧巻だ。画面が動く、というより、画面そのものが生きているような、あのアニメーターたちの執念のような作画。サーカスのように跳ねるミサイル。観ていて思わず息を呑んだ。
けれどその強さの裏側が、終盤で静かに明かされる。レゼはソ連で幼少期から戦闘員として育てられ、世界と切り離されてきた。人生を“戦うこと”に捧げさせられてきた少女だったのだ。
そんな彼女が、最後には Jane Doe となる。マキマとの対決に敗れ、名前も背景も失われたひとつの影に帰っていく。
レゼは死に際に「出会った最初に殺しておくべきだった」と呟く。勝てる可能性は確かにあった。だがそれでも敗れたのは、彼女の“内面”がまだ、形になりきっていなかったからだと私は感じた。
デンジと過ごした短い時間の中で、レゼは自分の境遇と彼を重ね、初めて心を動かされていく。プールで泳ぎ方を教え、無意味なイタズラで笑わせ、逃避行の夢まで語る。あの小さな積み重ねが、レゼの「信念」の萌芽だったのかもしれない。
けれど、信念というものは、訓練や命令で作れるものではない。自分で感じ、自分で選び、自分で積み上げていくものだ。レゼは、その輪郭が結ばれる前に、 Jane Doe へと還ってしまった。
だからこそ、この映画の余韻はやけに静かで、胸に残る。小粋な演出、染みる劇伴、鮮烈なアクション、美しいプロット。そのすべてが、彼女の短い「もしも」をそっと包み込んでいるように思えた。
―まるでこの世界で二人だけみたいだね。
ほんの少しだけ、そんな夢を見てしまっただけ。
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