「低予算ながらも、確かな魅力が光る一作!!」侍タイムスリッパー 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
低予算ながらも、確かな魅力が光る一作!!
現代にタイムスリップしてきた幕末の志士が、時代劇の斬られ役として活躍するSFコメディ。低予算ながら、口コミで瞬く間に上映館数を増やしている話題作。
幕末のある夜、家老の命で暗殺の任に就く高坂新左衛門(山口馬木也)は、激しい雷雨の中、長州の山形彦九郎(庄野﨑謙)と壮絶な斬り合いを繰り広げていた。両者一歩も譲らず、新左衛門が刀を振り上げた刹那、刀に雷が落ちる。激しい光に包まれ、目を覚ました新左衛門は現代の時代劇撮影所だった。
本作を語る上で、まず何よりもポイントとなるのが、“低予算作品”であるという点だろう。しかしながら、とても低予算とは思えない丁寧な作り、時代劇や殺陣をテーマにした邦画実写の持つ強みを活かした設定と、130分超えの長尺ながら片時も目が離せない作りとなっている。
個人的に、この低予算を可能にしている要因は大きく2つあると思う。
1つ目は、監督である安田淳一氏が多くの役職を兼任しているという点だ。エンドクレジットを目を通すと分かるが、脚本は勿論、撮影、照明、編集、車両の手配からタイトルロゴのデザインに至るまで、通常の映画作りにおいては様々な分野の人々に発注せねばならない要素を監督自らが行っている。そうした様々な分野を監督自身がカバーする事で、人件費を極力抑える事が出来たのだろう。
また、パンフレットによると、安田監督は業務用のビデオカメラや照明機材、クレーンやインカムといった複数の撮影機材も保有している様子で、そうした機材関係の調達面でも、予算を浮かせる事が出来たのではないかと推察する。
2つ目の要因は、舞台が“時代劇の撮影所”であるという点だ。東映京都撮影所が撮影協力している事で、作中に登場する時代劇の基本的なセットをそのまま流用出来、セットを組む予算を抑えられる。更には、キャスト陣にも東映京都俳優部の俳優が多く出演。出演者の多くを無名の俳優達が演技する事で、著名な俳優へのギャランティ問題も上手く解消している。
この2つの要因が、本作を低予算ながら一本の見応えある映画としてしっかりと成立させているのだろう。
主演を務める山口馬木也は、映画やドラマの脇役として数多くの作品に出演しているベテラン。調べると、個人的に『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』(2000)で特殊戦闘機のパイロットを務めていた若かりし頃の姿を目の当たりにしていると分かり、意外にも「あ、あの人か!」と分かるくらいには印象に残っていた事に驚いた。
本作中では、しばしば同じ俳優の阿部寛を彷彿とさせる顔つきをする瞬間が印象的。元々丹精な顔立ちだからか、常に画面に華があり、そうした面でも本作を持たせる事に一役買っていたように思う。現代においてもお国訛りと侍口調が抜けないという新左衛門の愚直な性格は、少々コメディチック、アニメチックに寄りすぎではあるが、作中の様々な殺陣、特にラストでの真剣を用いた命懸けの撮影シーンでの迫力が素晴らしく、優子(沙倉ゆうの)への淡い恋心もこちらの応援を誘う。
時代劇界の重鎮ながら、現在では他ジャンルに活躍の場を移しているベテラン俳優風見恭一郎役の冨家ノリマサの熱演も光る。本人も数多くの時代劇に出演し、時代劇界を支えてきた功労者だけに、作中で風見の語る「時代劇を残したい」という言葉には、少なからず本人の想いも宿っていたのではないかと思う。
その正体は新左衛門と同じくタイムスリップしてきた彦九郎が老いた姿というサプライズも飛び出し、若かりし頃を演じた庄野﨑謙との「言われてみればそうだ!」と感じさせる絶妙な顔立ちの共通点も面白かった。新左衛門より30年先に現代にやって来た先人ならではの苦悩や、優子に淡い恋心を抱く新左衛門を揶揄う茶目っ気ある様子も良かった。
ヒロインとなる監督志望の助監督優子役の沙倉ゆうのは、不思議な魅力に満ちていた。実際の撮影でも助監督や美術を務め、現場を奔走しながら撮影に臨んだというリアル優子というから面白い。先述したベテラン2人と比較すると、どうしても演技力において見劣りはするのだが、本人のひたむきさが終盤に向かうに連れどんどん画面に反映されているのか、観賞後はいいキャラだったと素直に受け入れられていた。パンフレットにもあるが、今後更なる活躍を期待したい。
本作はコメディである為、作中登場する様々なコミカル描写に必要性は感じるし、思わずクスリとさせられる場面もチラホラとあった。しかし、人によってはあまりにも時代遅れで昭和チックなコミカル描写に拒否反応を示すのも理解出来るし、このノリが合う・合わないで本作の評価が大分変わってしまう人も居るのではないかと思う。
しかし、一つ擁護するならば、その“古臭さ”もまた、時代遅れとなりつつある時代劇と重なる要素、狙って取り入れられた要素なのではないかと思った。このベタベタなコミカル描写まで継承し、残していくべきものかは疑問だが(笑)
また、ベタな笑いの中にも、確かな構成力によって思わず感心させられたシーンもある。それは、現代にやって来て行く宛もなく彷徨い、疲れ果てた新左衛門が、かつて彦九郎と戦った西経寺の門前で倒れ、かつての斬り合いを夢で見るシーンだ。あの時と同じく天に刀を振り上げた瞬間に、監督から掛かる「カット」の声と、その声に面食らう新左衛門。しかし、実際本作もフィクションである以上は現場で同じようなやり取りが行われたのは間違いなく、そうした「観客がフィクションと認識しているからこそ味わえるメタ視点」としての笑いは、ニクい演出だなと思わされた。また、“天に向かって高く振り上げた刀”という構図が、後に殺陣師関本(峰蘭太郎)から教わる「後ろの俳優に刀を当てない為の計算された所作」だと判明するのも面白い。
そんな見せ場となる殺陣のシーンは、冒頭から作中時代劇『心配無用侍』、『最後の武士』に至るまで、どれも魅力的で迫力あるものだった。普段目にしている殺陣が、こうした理論や所作の上に成り立っているのかと思うと、今後殺陣を観る際の新たな楽しみ方も提供していただいた気がする。
欲を言えば、冒頭の新左衛門と彦九郎の雷雨の中の斬り合い、クライマックスの真剣を用いた撮影シーンの殺陣は、もう少し尺を割いてじっくり見せてもらいたかったと思ってしまう。裏を返せば、そう思ってしまうくらい、本作の殺陣が非常に見事で魅力的だった証左だろう。
また、出来れば真剣での撮影シーンは、最後に関本に駆け付けてもらいたかった。教えに背くからと退会願を渡した新左衛門の覚悟を師として見届けた上で、その行いを叱責する役割を優子に譲りつつ、スタッフ達の背後で退会願を破り捨て去っていく様子を、新左衛門だけが見つめるというのも熱いのではないかと思うのだが。
また、優子がスランプに陥っていた中で、監督から提案されたドラマの1話を手掛けるという申し出も、ラストの撮影風景で回収してほしかったところ。なぜなら、本作は自分の役割を見つめ、ひたむきに生きる新左衛門の姿に周囲の人々が仕事への情熱を取り戻してゆく「お仕事ムービー」としての側面も持っていたからだ。
撮影所所長の井上が語った「頑張っていれば、何処かで誰かが見ていてくれる」という台詞が印象強かっただけに、優子の頑張りにも何かしらの報酬があっても良かったように思う。
「侍の想いも、時代劇も、いつかは人々から忘れ去られる日がくるのかもしれない。」
「だが、それは今日じゃない。」
『バトルシップ』や『トップガン/マーヴェリック』に登場する、この「だが今日じゃない」という台詞の引用は、個人的にかなりの評価ポイント。意味合いとしては、人の生き死にに対して使われた『バトルシップ』のそれではなく、パイロットという役職が廃れ行く中で、それでも自らの役割に誇りを持って放たれたマーヴェリックの台詞としての意味合いが強いのだろう。
また、本作ではそこに更に優子への告白を先延ばしにする新左衛門の奥手な面を強調する意味で2度目が使われるというのも笑えた。そこは今日だったと思うよー、新左衛門(笑)
低予算ながらも、それをカバーする創意工夫、廃れ行く日本の時代劇への憂いと希望、殺陣という魅力的な題材、頑張る人々へ送る細やかなエールと、非常に魅力的な要素を多く含んだ見応えのある一作だった。
実は、エンドクレジットに海外戦略云々の文字があった事から、『カメラを止めるな!』よろしく海外ヒットも視野に入れた(また、口コミによる広がりという点も含めた)、意外と強かな作りの本作が今後更なる広がりを見せる事、安田淳一監督の今後の更なる活躍に期待したい。
余談だが、数年後ハリウッド辺りで“時代劇”の部分を“西部劇”に変えてリメイクされるんだろうな(笑)