「アイドルそろばんずく。悪逆非道のサイコパスヒロインを、三人はなぜ赦して受け入れたのか。」トラペジウム じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
アイドルそろばんずく。悪逆非道のサイコパスヒロインを、三人はなぜ赦して受け入れたのか。
なんだか、妙なアイドルアニメを観てしまった(笑)。
出来が良いんだか悪いんだかも、
後味が良いんだか悪いんだかも、
しょうじきよくわからない……。
意外と狙い通りに作られている気もするし、
稚拙な部分と手の込んだ部分のバランスが実に不思議な感じ。
すくなくとも、まともなアイドルアニメでは全くなかった。
昔、『アイドルマスターシンデレラガールズ』の放映時に、「くもらせすぎだ!」「いやそんなことはない!」と、毎週明け方まで某まとめブログのコメント欄で、1000コメカンストするまでアンチと論争していたのを、懐かしく思い出す。
いやあ、今回のくもらせかたは、そんなどころじゃなかったよ(笑)。
原作未読。
乃木坂のメンバーも、数名くらいしか見分けがつかないレベル。
予備知識ほぼゼロで「地方の女子高生たちがアイドルを目指す」程度の認識で観に行ったので、あまりの内容の狂いっぷりにのけぞった。
ヒロインの東(あずま)さんは、完全なサイコパス。
「アイドルになる」という夢のためなら、なんでもするキ●●イだ。
自らが東高の東で、残りが西南北。そんなアイドルグループを結成するために、西地区と南地区の目を付けてあった美少女を突撃訪問してスカウトしにいく。
しかも、なぜか真の目的は明かさない。あくまで「友達になろう」という体(てい)で近づいて、お互いが仲良しになることを優先する。
彼女はオーディションではなく、あくまで「地元のテレビ番組に目をつけられてスカウトされる」ことを目的に、自然な形で四人の仲間を集めようとするのだ。
そのために大谷君のノートのような「自己実現ノート」をみっちりつけている。
そのうち北地区の美少女で向こうから声をかけてきた娘が出て、いよいよ東西南北の四人が揃う。東さんは、地元の城でのボランティア活動を通じて、テレビ局の取材を虎視眈々と待ち続ける……。
とまあ、出だしの荒唐無稽ぶりはひどいものだ(笑)。
アニメだから許されるような設定で、とてもまともな小説の「ふり」とは思えない。
だが、そのうちこの物語はそれなりの深化を見せ、サイコパスヒロインと仲間たちの成功と失墜、友情の交歓とその崩壊を描くことになる。
後半はそれなりに良く出来ている分、前半のあり得ないようなスカウティングのくだりのおかしさが余計に目立つ。
たぶん、これは原作自体のもつ問題なのだろう。
おそらく「初めて小説にチャレンジする」原作者の髙山さんが、最初は不慣れな手つきで、バランスの悪いアイディアをもとに書き始めてしまったのではないか。
それが、書いているうちにどんどん作家的技量があがって、思いがけず深いところまでアイドルの闇を描くことになった。最初の土台の段階では素人丸出しだが、その上に上手い具合に後出しでそれらしい内容を書き継ぐことに成功した。
このアニメのバランスの悪さ(アホな設定のわりにシリアス化する)は、原作者の短期間での作家としての「成長」が生んだ結果ではないか。
もう一つ、この物語の不思議なところは、最初からヒロインの東ちゃんがカオティックでサイコパスでピカレスクであること自体は何ら隠していないのだけれど、ストーリー展開自体はヒロインの野望に寄り添った「成長譚」「成功譚」のように描かれている点だ。
すなわち、蟻の浮いたみそ汁捨てたり、ノートに酷い分析してたり、相手に舌打ちしたり、急に不機嫌になったり、仲間に捨て台詞はいたり、東ちゃんが頭がおかしいってことはむしろ丹念に描きこんで来るんだよね。
だいたい、自分だけは本名の「東高の東ちゃん」で、他の三人はまるで違う名前なのに「北ちゃん」「西ちゃん」「南ちゃん」呼びに誘導してるってのは、友情なんか嘘っぱちで自分の理想のユニットの数合わせのためだけに集めた木偶人形だと最初から言っているようなものだ。設定自体のなかに、東ちゃんの自己愛性パーソナリティー障害はしっかり描き出されている。
だが本作の場合、ヒロインの悪行はしっかり描きつつも、なんだか総体としては「ヒロインの夢が叶っていく」良い話みたいに、一見感じられるような不思議なバランスで作ってある。すくなくとも、東ちゃんに対してそこそこ宥和的に、ある程度の共感性をもって寄り添って描いているのは確かだ。
「そこまでろくでなしだってそっちから強調しながら、お前らは俺たちに大らかな心でこの娘を愛でろって言ってるのか??」ってまあ、どうしてもそんな気にはなるよね。
「どう考えても共感しがたいヒロイン」の成り上がりを、たとえば松本清張の『黒革の手帖』とか『わるいやつら』みたいに、きちんと「悪」として描いていれば違和感も逆に軽減される。だが、それを応援するかのように描かれると、どうしても胃もたれしてしまう。
(書いてて思ったけど、大きな野望のために対人関係まで考え抜いて策略的に構築して、善行を積んでキャラづくりに励んで、なんだかんだで回りのみんなからは愛されてるって、ちょっと『コードギアス』のルルーシュっぽいよね。)
たぶん、一番理不尽なのは、ある意味やっていることに悪の一貫性があって筋が通っている東ちゃんのほうではなく、噓に噓を塗り固めた関係性を押し付けられて、無理やりアイドル稼業までやらされながら、簡単に東ちゃんを許し、恒常的な友情を結ぶことを選んだ「三人のほうの異常性」にあるのかもしれない。
このいびつな関係性を「作品の不出来」として責めるのは簡単だ。
「そんな人見知りで人前にも出たがらない娘が、騙されたからってアイドルなんかやるわけがない」「本当はやりたがってるのは東ちゃんだけなのに、他の三人があんなに簡単にデビューを受け入れるわけがない」
僕もそう思う。とくにテレビ局が地元の可愛い東西南北ということで番組の女子高生レポーターとして出演させるあたりから、曲を与えてデビューさせようとするところまでは、かなりの懸隔があって、だいぶ展開としては無理があるんじゃないか、と。
ただ一方で、こうも思うのだ。
原作者の髙山さんは、正真正銘の乃木坂アイドルだ。実際にデビューしてアイドルグループに身を置いていた人物である。そんな人間が、「実際には芸能界にはいないようなキャラクター」を果たして造形したりするだろうか?
西ちゃんも、南ちゃんも、北ちゃんも、実際に身近でこういうタイプの娘がいたからこそ、こんな感じのキャラクター造形になっているのではないのか?(もちろん、東ちゃんのようなアイドル道を虚仮の一念で突き進む、妄執に囚われたサイコパスもまた思い切り身近にいたのでは?)
そう考えると、異様にお人よしで、自分たちを騙して罠にはめて貪り尽くして出しに使った東ちゃんを受け入れてしまうような三人については、こういうタイプが芸能界には「本当に居るのだ」と思って観たほうがいいのかも。
一番この中でわかりやすいのは、実は南の華鳥蘭子ちゃんだろう。
何故なら、この娘には「縦ロールにしてテニス部に所属してお蝶夫人を自称している」という珍妙なキャラ付けが敢えてなされているからだ(いつの時代の娘だよw)。
お蝶夫人は、もちろん『エースをねらえ!』のメインキャラの一人である。あの作品におけるお蝶夫人というのは、一見ライバルキャラにみえて、実は超のつくお人よしだ。
岡ひろみと宗方に食い物にされて、さんざん踏み台にされ、練習台にされながら、全力で岡のために尽くし続ける哀れなまでに善意の人物である。
かつて大泉実成は『消えた漫画家』のなかで、『エースをねらえ!』は「グルイズムの漫画」であると喝破した。要するに宗方という絶対的なグルがいて、それにひたすら盲従する岡ひろみという巫女がいて、その成功のために登場人物全員がすべてを喜捨して尽くし続けるという物語の異常性を、新興宗教の構造と同様であると指摘したのだ(原作者の山本鈴美香は実際に、父親の創始した新興宗教の巫女でもある)。
あまりこの話に深入りしても切りがないが、要するに華鳥蘭子というキャラは原作者によって、「無条件に東ゆうに尽くす善意のキャラ」としてアプリオリに設定されているということだ。常に宥和的で、お母さんのように気を遣い、全員の幸福のために間を取り持ち続ける優しい女性。その背景には絶対的な富と家柄という優位性がある。
北の亀井美嘉ちゃんも、蔭のある曲者のキャラクターだ。
この娘の場合、他の二人は東ちゃんが目をつけて自分からスカウトしたのに対して、北ちゃんのほうから声をかけてきて仲間に加わった経緯がある。東ちゃんからすると、彼女はアイドルとしては「ごまめ」であり「追加メンバー」に過ぎない。小学校の幼馴染だが、顔がわからないくらい変わっていて、東ちゃんは家で自己実現ノートに向かいながら、「顔が違う」といいつつ思い切り「整形」と書き込んでいる(こ、こわいよ!w)。
要するに、東ちゃんはこの娘を他の二人より「下に見ている」し「作り物の美少女としてバカにしている」。北ちゃんは自分の顔が変わっていることを東ちゃんには「知られている」わけだから、自分が偽物の美少女であることも自覚している。
しかも、北ちゃんが東ちゃんに近づいた真の理由は、かつて彼女に救われたことでヒーローとして絶対視していて、ファン第一号だったからということが最後に明かされる。
要するに、この二人には「お互いに気付いていないが」明確な「主従関係」があり、北ちゃんは東ちゃんにかしずくように設定されていて、それを東ちゃんも無意識下で理解している。
北ちゃんが彼氏をつくって裏切ったことで、東ちゃんがあれだけ切れたのは、単純にアイドルの掟に反したからではない。まさか一番の飼い犬に手を噛まれるとは思っていなかったからだ。
一方で、北ちゃんの自信の無さ、自分の無さ、依存性、盲従的態度、ボランティアでなんとか自尊心を充たす姿勢などは、「男性に対してもそうなりがち」なキャラとして一貫している。
一番ややこしいのは西の大河くるみちゃんで、とりわけ「なんで東ちゃんに付き合ってアイドルなんてやってたのだろう」と思わされるキャラでもある。
ただ、こういう内気で、人見知りで、コミュ障で、メンヘラだけど、男好きのする可愛さがあって、そのことに実は自覚的で、萌え袖の服を敢えて着ていて、なにかのエクスキューズさえあれば「輝ける」準備をしている娘って、実はアイドルにはたくさんいるのではないだろうか。
学校ではいじめられていた、ハブにされていた、誰とも口をきかなかった、といった話を口にするアイドルがどんなに多いことか。そしてアイドル稼業のなかで追い詰められ、メンタルの不調に陥り、異常な振る舞いの末に辞めていく娘がどれだけいることか。
やたら可愛いのに人見知りで、やる気がないのになぜかアイドルをやろうとして、向いていないせいで壊れていく子たちを、髙山さんは間近でたくさん見てきたのではないか。
西ちゃんの極端なバランスの悪さと、「友達」という言葉への途方もない執着と、それでも東ちゃんへの「依存」が解けないその姿には、髙山さんが見てきた「もっとも生々しいアイドルの姿」が刻印されているのではないだろうか。
こうして考えてくると、『トラぺジウム』という作品の核心は、アイドルになるという虚栄を「宗教的情熱」として捉えている部分にあるのではないか、という気がしてくる。
東ちゃんはアイドル道の「布教」のためなら、偽りの人間関係を構築することも辞さない。
最終的に彼女たちを「アイドル」というフェイズに高めてやれるのなら、それは彼女たちの利益にもなるからだ。
彼女は宗教的情熱をもって三人を教導し、三人は信徒として行動をともにすることを選んだ。それは洗脳だし、友情の在り方としては偽りの虚構ではあったが、たしかにそこで生まれたシスターフッドは現実の幸せでもあったし、ひとときのアイドル活動は彼女たちの自負心と自己愛を満たしてくれた。
そう、アイドルを目指すということは、単なる夢でもビジネスでもない。
ある種の狂気であり、ミッション(宣教)なのだ。
そんなメッセージを感じ取りながら、僕は映画館を後にしたのだった。
確かに、「アイドルは楽しくない」と言われたときのゆうの反応は妄信的で宗教っぽかったですね。
くるみがSNSを積極的にやってる違和感も、「可愛さに自覚的だった」と言われれば納得。
そういえば、「“女の子の友達は”初めて」のようなことも言っていたような。
本作をアイドルビジネスの観点から評してる方もいて、王道ものとして観てた自分が視野と心の狭い人間に思えてきました。笑