「それはどの子供も経験する通過儀礼のようなもの」ぼくが生きてる、ふたつの世界 ジュン一さんの映画レビュー(感想・評価)
それはどの子供も経験する通過儀礼のようなもの
『呉美保』監督のフルモグラフィーを確認すれば、
とりわけ直近の二作は、
「家族」と日本に根深く蔓延る社会の問題を取り上げ、
しかも終幕で僅かな光明は射すものの、
根本的な解決は提示されないという共通点。
改めて
〔そこのみにて光輝く(2014年)〕
〔きみはいい子(2015年)〕
をおさらいし、それだけで気持ちが沈んで行く。
で、本作。
両親が聴覚障害者の家庭に生まれた
『五十嵐大(吉沢亮)』が主人公。
原作者とは同名で、
自身の体験を物語り化したのだろうことは容易に想定が付く。
元やくざで賭け事に目がない粗暴な祖父や
宗教に入れあげる祖母が身近にいたら
それだけでも凄まじい家庭だったろう。
さはさておき、
今では「コーダ(CODA)」は随分と浸透しているが、
舞台となる往時にはようやく海外で概念が提示された頃か。
自分が初めて知ったのは
〔エール!(2014年)〕だった記憶。
「聞こえる世界」と「聞こえない世界」を
自分の意志とは無関係に往還させられる辛さは
余人には測り難いものだろう。
幼い頃から家族と外との橋渡し役として頼りにされて来た。
「偉いね」と褒められれば、悪い気はしない。
他方で無理解な大人たちや、無邪気な同級生からは
心無い言葉を投げられることもある。
長ずるに連れ自我も育ち、
次第に進歩の無い親が疎ましく感じられ、
自分の進学が上手く行かないことも親のせいにしてしまい、
ついには手酷い言葉を(手話で)ぶつけてしまう。
とは言え「コーダ(CODA)」との括弧を外せば、
多くの子供が思春期に経験する反抗期や、
世間に対してのもやもやした感情と同種ではないか。
麻疹のように罹ってしまう。
その後、東京に出た『大』は多くの聾啞者と触れ合うことで、
彼等彼女等が一方的に庇護される存在ではないことも、
また楽しむ術をも心得ていることに気づかされ、
自身の母親と過ごした過去の日々が走馬灯のようによみがえる。
彼が今までとは違った視点で肉親と接することができるようになる
メルクマークなのだ。
当年とって三十歳の『吉沢』が
中学生~を演じるのは驚きも、
なんとなく雰囲気を醸しているのは恐ろしい。
役者の表現力の凄さを思い知るところ。
そこに目を付けた監督の慧眼への称賛と、
常に無く希望が抱けるエンディングを以って
本作は幕を閉じる。