Black Box Diariesのレビュー・感想・評価
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ああいう
物議を醸している、山口某による性暴力被害者である伊藤詩織氏自身によるドキュメンタリー。
この作品に対してなにやら難癖を付けている人たちがいるようだが、ちょうど昨日観た「ワーキングマン」でのステイサムの言葉を贈る。
「貴様、娘はいるのか?いない?ではお前には分からん。」
これはクソ野郎に人生を壊された女性がそれを取り戻そうとする闘いの記録だ。ステイサムなら全員ぶち殺すところだ。こまごま配慮しろとか知ったことか、で良いと思う。
「ボウリング・フォー・コロンバイン」や「ゆきゆきて、神軍」を観たことがないのかと。
本作で、性暴力は人格の破壊だということもよく分かるし、そこからなんとかして抜け出そうとする苦闘の記録だというのは観れば分かる。他人の人生を破壊して平気な輩は地獄に堕ちれば良い。
薬であれ、酒であれ、あんな風にまともに歩けなくなっている年下の女性と同席した際にまともな男がやることは保護することであって、性行為に及ぶことではない。
「男はオオカミなのよ」じゃねぇよ、俺は違う、という男性も多いのでは?男がオオカミなんじゃなくて、あいつらがケダモノなだけだよ。一緒にすんな。
本作に登場する中では、途中から証言を買って出るホテルのドアマンが正しい。圧倒的に正しい。
私もああいう男でありたいと思う。
BLACK BOX DIARIES
あれだけ不利な証拠しかない事件をどうやって勝訴したのか期待を持って行ったが何一つ裁判の中身については触れていなかった。ドアマンの供述もタクシードライバーの供述も裁判では採用されていない。捜査員Aが「証拠がないので」からいきなりやる気になるのだが、何か証拠が出てきた話しも無いし、恐らく途中の会話(もしくは会って話して美人だったから急にやる気になったのか?)肝心な所が編集されていて出てこない。中村格の自宅突撃は本を出した当時新潮社と作ったヤラセ映像なのはその頃少し調べていた人なら誰でも知っている。その時の映像には窓をドンドン叩く音はなく、今回映画をよりドラマティックにする為に付け足したのだろう。盗聴器を探すシーンも、「なぜ盗聴器が仕掛けられていると思ったのか?」という肝心な部分はなくいきなり探すシーンだけ出てくる。普通に考えて彼女を盗聴する理由なんてある訳がない。刑事事件では証拠がなさ過ぎて立件出来ていないのだから。大袈裟に国家vs自分という図式でタイトルを体現したかったのだろうが、あまりにも子供騙し過ぎて、結局最後までなんで勝てたのかさっぱり分からなかった。おそらく弁護団がかなり頑張って勝ち取った勝訴だったはずなのに、彼らの頑張りは一切描かれず、むしろ「独りで国家と闘ったヒロイン」という体の作りになっているが、それは弁護団に対してあまりにも失礼だし、捜査員Aの扱いにしても、海外版では名前まで出てきたらしいから、協力者に対する心遣いや配慮がなさ過ぎて、人として残念な人だという印象しか残らなかった。これにすっかり騙されてしまう観客は、小泉進次郎に票を入れてしまうおばちゃんとあまり変わらないなと。見た目に騙されていませんか?真実を見極める目を持つ為に、ちゃんと調べた方が良いと思いますよ。どちらかに肩入れせず公平に物事を見つめたら、この映画がかなり歪な作りをしているのが分かるし、ちゃんと調べればこれは免罪の可能性がかなり高い事件である事も分かるはずです。
諸刃の剣
日本の#MeToo運動の先駆的存在であるジャーナリストの伊藤詩織が監督となり、自身が受けたとされる性被害を世に問うたドキュメンタリー作品でした。安倍元首相と懇意とされるTBSの記者(当時)との酒席の後、酩酊状態でホテルに連れ込まれて被害に遭ったとされる事件です。事件後伊藤さんが警察に被害届を提出し、すったもんだの末にようやく逮捕状が発行されたものの、逮捕寸前で警察上層部からのストップが掛かってTBS記者は逮捕されなかったことが明るみになったことで話題になった案件でした。
安倍氏の本を出版したTBS記者が逮捕されなかったことに対して、伊藤さんは組織にも属さず、当時は実績もない状態。そんな”強大な権力”に向かって徒手空拳で挑んだ彼女には、一部ミソジニー的な非難も向けられたものの、多くの良識ある人たちが手を差し伸べることになりました。本作もそうした文脈で描かれている訳ですが、映画化にあたっては色々と問題が発生したことも事実。
作中では触れられていませんが、「伊藤詩織『Black Box Diaries』問題から何を学ぶか~未許諾が明らかになった背景(FRAU 2025.3.9)」によると、以下の点が指摘されています。
1)ホテルの防犯カメラ映像の許諾が取れていないこと
2)捜査官Aの声と姿態が無許可の上で使用されていること
3)タクシー運転手の映像が無許可の上で使用されていること
4)弁護士との協議内容が無断で録音され、しかも切り取られて現実とは異なる印象を与える使い方をされていること
要するに、伊藤さんが性被害を受けたか否かという話ではなく、ドキュメンタリー映画として必須と思われる関係者の同意や許可を得ずに作品が制作されていたという訳です。日本公開にあたっては、一部こうした指摘に対応する修正がなされたとのことですが、既に行われていた海外での上映時は、”無修正版”で上映されていたとのことです。
これは大きな問題です。性被害者の苦闘を描いた作品が、別の被害者を生みかねない可能性を秘めているのですから、これは看過できないところです。現に伊藤さんに寄り添って代理人を務めた弁護士とも揉めているし、当初伊藤さんの理解者であっと思われるジャーナリストや研究者からも、疑問や批判の声が上がっています。そして伊藤さんをはじめとする映画制作者側と、上記の指摘をしている元代理人やジャーナリストらの距離は、埋まっていないどころか、日々断絶が大きくなっているように感じられました。
何か伊藤さん側の問題点をあげつらう内容になってしまいましたが、そもそも私自身政治的には”アベガー”の立場であり、安倍本を書いた記者に逮捕状が発行されながら、逮捕直前で警察上層部からの指示で執行が停止されたという話には、いまだに得心がいっていません。特にその後の民事訴訟で伊藤さん側が勝訴したことを踏まえると、当時の警察の捜査が行き届いていなかったのではないかという疑念を抱くところです。
ドキュメンタリー映画としての完成度も中々のものであることは確かであり、だからこそ映画制作の手法に大いに問題があったのではないかと見えることが残念でなりません。
ただ被害当事者が監督を務めるという本作の成り立ちが、諸刃の剣になっていることだけは間違いがないと思われます。当事者だからこそ、言いたいことを混じりっけなしに伝えることが出来る反面、当たり前ですが第三者的、お目付け役的な視点が薄くなり、どうしても独善的になりがちな傾向が現れることも否定できません。代理人弁護士こそがそうした第三者的な役割を担っていたと思われる訳ですが、彼らとの関係が破綻してしまったことで、一層その傾向が濃くなったのではとも感じます。
門外漢にあっては、容易に結論を出せる話でもなく、また出すべき話でもないのでしょうが、極めて重要なテーマ性を描いた作品であり、映画としての魅力も高かっただけに、複雑な気持ちでいっぱいです。
そんな訳で、本作の評価は★3.8とします。
死姦趣味の変態を死守するための、公権力による素晴らしいチームワークを目撃せよ
パートナーが欲しいと言うからポップコーン買って入り、予告編の間はポリポリ食べてたけど、映画が始まってしまうと完全に手が止まった。幕を閉じるまで緊張の連続で、アクション映画より心臓が激しく鼓動したままだった。
伊藤詩織さんの悲劇はあまりにも現実離れしていて、これがドキュメンタリー映画だとは信じ難い。架空の劇映画のような錯覚に囚われてしまう。
薬で眠らせて動かない女性を姦る。法律云々の前に、この山口某は死姦マニアの変態。しかも伊藤詩織さんが目を覚ました時、乳首から出血してたとのこと。完全にイカれきってる。
こんな変態男を政治家のみならず検察や警察、メディアまでもが一致団結して全力で守る。つまりみんなで寄ってたかって伊藤詩織さんをセカンドレイプしてる。その理由が、この太鼓持ちが書いた首相礼賛本の出版直前だったから!? どんなけ歪んだ世の中やねん、この日本は。
公権力による暴力を暴いたという意味において、この映画の公益的価値は突出している。
伊藤詩織さんは、何故顔を出すことにしたのか、何故これほどまでに苦しみながらも闘い続けるのか、という問いに対して、「自分が負けたら他の被害女性が口をつぐんでしまうから」。彼女のピュアな信念に心を打たれると同時に、心から尊敬します。
逮捕を取り消して警視庁長官に昇進した中村格など、腐り切った加害者らはのうのうと人生を謳歌する一方で、ピュアな彼女はカビの生えたボロアパートに住み、盗聴や尾行、果ては暗殺の危険にまで怯える人生を強いられる。レイプされた時に満開だった桜すらトラウマを呼び起こすような、酷いPTSDに苦しめられながら。
映画の中だけでも5回は涙を流す場面が出て来るけど、たぶん100回以上は泣いたんじゃないだろうか。
7年以上に渡る戦いの果て、やっと民事で勝訴したのは、首相死亡の前日。
陰謀論が取り沙汰されるこの死亡を疑いの目で見ると、死んでなければ民事も負けてたかも、なんて訝ってしまう。
日本の何が狂ってるかって、逮捕取消とか不起訴とか、これだけの大規模な政治スキャンダルなのに、未だにどのメディアも取り上げずMe Too運動が抑圧されたまま、誰も立ち上がらない。もっと狂ってるのは、このおかしさに誰も気づかないばかりか、加害者に対する批判よりも、この映画に対する批判がうるさい。
結局ジャニーズ問題のように、BBCとかが大きく取り上げない限り、この日本で伊藤詩織さんに正義がもたらされることはないんだろう。
エプスタインのドキュメンタリーみたいに、Netflixで伊藤詩織さんのドキュメンタリーをやってくれて、正義が叶うことを願います。
そして伊藤詩織さんの心に真の平和と幸せがもたらされることを、そして彼女の願いである、レイプ被害者の皆様にも正義と平和がもたらされることを、心の底からお祈りいたします。
最後に、伊藤さんとこの映画製作に携わった皆様に、感謝申し上げます。
「『事実は小説よりも奇』ここまで 説得力ある映画はない」
ドキュメンタリーの限界を超えた傑作
映画としてとても良くできている。悪質な性暴力の被害者が自らを題材に映画を作るというのは前代未聞ではないだろうか?当時の報道なども思い起こしながら鑑賞したが、その裏での本人の苦悩や葛藤が痛いほど伝わった。
加えて、テロップや自らの心情の吐露に至るまで、映画内の説明を基本的に全て英語で通していることに、伊藤氏の覚悟を感じた。制作が日本人では無いことも一因だろうが、それだけではなかろう。想像だが、伊藤氏は日本の枠内に留めていてはこの作品の説得力は半減してしまうことがわかっていたのだと思う。若い頃から海外で過ごした伊藤氏にとって、極めて日本的な闇の存在を正確に普遍的に可視化するためには、日本的な枠組みの中に留まるわけにはいかなかったのではないか?その意味で、海外公開後の弁護士との行き違いもそれを押しての日本公開も、全て覚悟の上でのことだろう(余談だが、弁護士側の言い分を聞いていると、結局は日本的な常識の枠組みの中で伊藤氏を批判しているように感じる。それは映画の中で出てくる伊藤氏に批判的なメールを送りつけてくる女性や、ラストの方で罵声を浴びせる女性と同じに見えてしまう)
そして英語での伊藤氏の語り口も、非常に明快で力強い。難しい言い回しなどは殆ど無く、少しヒヤリングに慣れた人なら中学生でも理解できそうな明快な単語(どこかの大統領のように幼稚故の単純さではなく、言語に対する優れた能力に裏打ちされた選び抜かれた言い回し、という意味で)で語る独白は、ストレートに聞く人の心に響く。
日本のドキュメンタリー映画もようやくここまで来た。
ドキュメンタリーではなくダイアリーの意味
年内最後の映画はこれだった。品川1館でしかやっていない。そして回数も少ない。じきに拡大するようだけど。そして噂どおり上映後拍手が起こっていた。
これは公開前にいろんないわくがついているがそこまで詳しく追ってられないが、素直に映画だけを見ての感想は「なんて国に住んでいるんだろうか」だった。
もちろん伊藤詩織さんという人の受けた傷、それの放置のされ方、自分が憧れていたジャーナリズムがもっとも腐っていてその膿の中心にはまってしまったという事実。
そしてこれは立ち上がってからのダイアリーだが、立ち上がるまでの撮られていないダイアリーはもっと壮絶なものなのだろう。本人は自分のことを「ジャーナリスト」と言っていたが、まさに色んな意味で自信にしかない武器でそれから戦おうと思ったのだろし、こんなことがなくともそれだけのポテンシャルはある人だったろう。25歳(だったか)でこの事件の被害に遭い、奇しくも自分の持てる能力を振り絞ってその敵に挑んだ。自分の知識を総動員してそれを選んだ。それこそが自分を「ジャーナリスト」と思ったからに違いない。
両親の反対やいろんな反対を押し切って突き進む精神力は尋常ではなく、更に、「性被害」の向こうに待っているのは警視庁長官、その上に内閣総理大臣であって、それに立ち向かっていくものだったからだ。
25歳の学生が就職の相談に行って、そのまま国のトップ相手に戦うことになってしまうなんてもうホラーだ。安倍晋三という戦後日本の破壊者にして日本の腐敗の中心に居座っていたクズと、その周辺の権力の側にいるクズたち(山口敬之)。「なんて国に住んでいるんだろうか」の可視化というか、老害が日本の若く優秀な若者を食い物にしているリアリティに出会った。そしてそんな若者を護れないどうしようもない国に住んでいることの情けなさ。
チラッとしか出てこなかったこの逮捕を握りつぶした中村格警視庁長官。そんなのがまだ平気で世の中をウロチョロしてるのかと思うと吐き気がする。という思いと共に劇中でもあらぬ中傷を受ける伊藤詩織さんは確かに薄着だったり肌を見せ過ぎなのかもしれない。途中いや〜なおっさんの誘いの電話のやり取りがあるが、もっと同情を引こうと思ったらそもそも肌の露出やピタッとした服を着なければいいのに、と思ったりもするがそこは一貫して同情を買おうという魂胆がまったくない強固さがある。
そして、このドキュメンタリーも自分が「出ている」だけでなく「監督」である。客観的なものを作りたければ本来は「監督」はしないほうがいい。情報の線引きを自分でやっているので、ドキュメンタリーというより事実を自分で編集(=脚色)したまさに「ダイアリー」。主語は自分であり自分の気持ちである。言ってみたら戦う映像の個人記録。そういうネーミング含めてなかなか最強な記録かもしれない。
私が今作の映画『Black Box Diaries』を素晴らしい作品と評価する理由
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
(他作品のレビューが溜まっているのですが、今作を観てもいない中での喧騒が激しいので、私的今作のレビューは早めに書いておいた方が良いと思われ、優先して書きました。)
結論から言うと、今作の映画『Black Box Diaries』は、非常に優れた作品だと鑑賞後に思われました。
そして(ほぼフィクションですが今年観た邦画110本以上の中で、またこれまでの過去優れたドキュメンタリー映画を踏まえても)今作は個人的には今年の邦画の私的5本の指に入る優れた作品だと思われています。
ところで個人的にも、伊藤詩織さんの事件に関しては、彼女が実名告発した2017年5月辺り(その後、刑事事件で不起訴、その後の民事訴訟を提訴(最高裁で山口氏に性加害があったと2022年に認定され、山口氏に約332万円の賠償命令が確定)の前)から断片的には見ていて、個人的に裁判の判決文での双方の主張も当時に詳細に読んでいます。
また今回の、元担当弁護士その関係弁護士、彼女を元々は支援していたジャーナリストたちの、映画に関する批判もおおよそは読んで目を通しています。
その上で今作の映画『Black Box Diaries』を観て、今作は非常に優れている作品だとの個人的な結論に至っています。
今回問題となっている、許諾無しでの使用の、警視庁の捜査官A氏(当時現場刑事)の音声証言、タクシー運転手の音声証言、ホテルの入り口とホールの防犯映像は、映画を観てこれらは映画からは外せない必須の音声証言と映像だと思われました。
捜査官A氏の、山口氏の逮捕状を取って逮捕の直前で、上からの指示で逮捕が取りやめになり、成田空港で山口氏が目の前を素通りして行ったという趣旨などの生々しい捜査官A氏の音声証言は、事件の根幹に関わる真実性の話でカットするのは不可能に思われました。
また、タクシー運転手の証言も、その証言を裏付ける、ホテルの入り口とホールの防犯カメラの、半ば意識がない酩酊したようにみうけられる伊藤さんが山口氏に寄りかかりながらホテル(の部屋)へと連れられて行く(日本版は加工の)生々しい映像も、いずれも真実性の根幹として必須でカットは不可能に思われました。
その上で、民事訴訟で山口氏による伊藤さんへの性加害は2022年の最高裁の判決で認定され賠償金含めて確定しているのに、【刑事事件では不起訴だったではないか!】【伊藤詩織は事件をでっちあげている!】趣旨の批判がSNSやネットで、現在も溢れかえっており、伊藤さんの性被害者としての名誉を回復するためにも、映画の中で描かれた、捜査官A氏の音声証言や、タクシー運転手の音声証言や、ホテルの入り口とロビーの防犯映像の使用は、(使用許諾がなくても、少なくとも名誉棄損の違法性が阻却される)公共性、公益性、真実性(真実相当性)があると、映画を観て強く思わされました。
(※ところで刑事事件に関わる話で、相手の証言を承諾なく録音する行為は、(常識的には許されないと思われていても)事件解決のために有効になる手段になり得ます。
例えば、小沢一郎氏の秘書の政治資金規正法違反容疑(陸山会事件)の捜査過程で、容疑の当時の秘書で当時は国会議員だった石川知裕氏(今年の2025年に52歳で死去)が、秘密にICレコーダーで任意の事情聴取を録音し、その録音内容と捜査報告書の内容が一致せず、事情聴取をした田代検事が虚偽の捜査報告書を記載していたことが明らかになり、後に田代検事が辞職に追い込まれるという事件がありました。
自身の、刑事事件の過程において、また民事訴訟含めた事件解決の過程において、自らの事件をほとんど精神的に孤独の中で立証するために秘密に録音をすることは、また公共性・公益性・真実性(真実相当性)あるその内容を公表することは、私は問題ないと考えています。)
ただ、私が今作の映画『Black Box Diaries』を素晴らしい映画だと評価しているのは、【以上の点が理由なのではありません。】
私が今作が頭抜けて優れている映画だと認識しているのは、<(今回は性)被害者が、支援者やその関係者とも、位相がかなり深刻な度合いでズレて<断絶>している>事を、今作が浮かび上がらせた所に理由があると思われています。
今作の驚きの場面の1つに、伊藤さんとの電話での、酔った捜査官A氏が、ある発言をする場面があります。
もちろん、酔った上の話で個人的には、捜査官A氏のこの発言を、迂闊な発言とは思われながら責める気持ちにはなりませんでした。
しかしながら、捜査官A氏とのこの電話が終わった直後、伊藤さんは、深刻な表情を浮かべこのシーンは終了します。
もちろんこの会話内容を映画に加えた是非と危うさは一瞬感じられました。
しかし一方で、この捜査官A氏が酔った中で電話で話す場面は、<被害者が、(加害者やその関係者はもちろんですが)支援者やその関係者とも、位相がかなり深刻な度合いでズレて<断絶>している>事を指し示す、重要なシーンになっていて、監督の伊藤さんからすれば絶対に外せない作品の根幹場面になっているとも思われたのです。
そしてだからこそ(男性の観客なら特に)<被害者が、支援者やその関係者とも、位相がかなり深刻な度合いでズレて<断絶>している>事にショックを受ける事になり、あらゆる人々含めて、この場面への称賛と激しい反発とが両極端で起こっているだろうと推察しています。
私個人も、この場面の称賛とこちらとの<断絶>のショックが並行して起こる、優れた深く突きささる印象的な場面になっていると思われました。
そして、<被害者が、支援者やその関係者とも、位相がかなり深刻な度合いでズレて<断絶>している>表現は、実はこの映画の根底に流れ、他の場面でも表現されています。
(私の記憶が曖昧なのですが、おそらく永田町で車椅子の利用者の)政治的な訴え演説をしている年配の女性が、伊藤詩織さんの名前を出して伊藤さんの被害の話をしている所に、たまたま伊藤詩織さん本人が通りかかる場面があります。
そして伊藤さんは、その訴えていた女性にお礼的に本人ですと名乗り出て喜んで感謝の握手を求める場面があります。
しかしながら、その訴えをしていた年配の女性は、握手を求めて来た人が伊藤詩織さん本人であることにその時は気がつかず、伊藤さんが立ち去った後で、え?本人なの言ってよ~と周りの自身の関係者友人に伝えているのです。
もちろん、ある公に知られた人の話をしている時に、まさかその本人が目の前にその直後に現れるとは誰も思わず、現れた人物がとっさに誰だか分からないのは現実で初対面なら私含めて全然あり得る話だと思われるのです。
なので、個人的にもこの訴えをしていた年配女性を責める気は全くありませんし、伊藤さんも特にだからどうだということではなかったとこの場面からは伝わります。
しかしこの場面の次のシーンで伊藤さんは(自身の名前を出して支援的な演説をしていた女性と握手をした事とは全く別の位相の)、ある自身についての悲しみの想いを涙を浮かべながら吐露するのです。
この一連の場面も、<被害者が、支援者やその関係者とも、位相がかなり深刻な度合いでズレて<断絶>している>表現になっていたと思われるのです。
(意識的にも無意識的にも)<人間の矛盾>を深いレベルで表現した作品を、私個人は優れた作品だと認識し、いつも高く評価しています。
そしてまた、その、<人間の矛盾>を、今作で言えば<その人と、他の人達との、<断絶>>を深いレベルで表現された優れた作品に、私達は実はそう滅多にお目にかかることも一方では出来ません。
なぜなら、<人間の矛盾>や<その人と、他の人達との、<断絶>>を意識化すれば、逆にその【矛盾や断絶を自分好みに一色化して無化する】(ある種の傲慢な)方向に作用すると思われるからです。
それ程までに私達は(本当は人間は<矛盾>し、<断絶>しているのに)、その【矛盾や断絶に耐えられない】【矛盾や断絶を自分好みに一色化して無化したい】と欲望していると感じられるのです。
しかし残念ながら、伊藤詩織さんは性被害者として、<被害者が、(加害者やその関係人物だけでない)支援者やその関係者とも、位相がかなり深刻な度合いでズレて<断絶>している>事から、逃れることは根源的に出来ず、だからこそ今作の映画『Black Box Diaries』は<人間の断絶>を描き切った傑作として作ることが出来たと思われるのです。
そして、今回の今作にまつわる伊藤さんへの批判は、<被害者が、支援者やその関係者とも、位相がかなり深刻な度合いでズレて<断絶>している>事を認めずその立場に立つこともなく、逆に【その断絶から目を逸らし自分好みに断絶を一色化して無効化しようとする】、深い人間理解からは、真逆の表層の傲慢な噴き上がりを起こしている現象だと、個人的には感じられています。
さらに言えば、今回の【その断絶から目を逸らし自分好みに断絶を一色化して無効化しようとする】噴き上がりに対する回答は、<被害者が、(加害者やその関係人物だけでない)支援者やその関係者とも、位相がかなり深刻な度合いでズレて<断絶>している>との根底に深く流れる終始一貫した今作の表現によって、初めから今作に今回の批判に対峙する形で存在していたと思われるのです。
(加え、この<人間の断絶>の立場に立てば、逆に酔った時の捜査員A氏の発言も、逆照射で<断絶>しながら、この言葉だけ距離を取り他で関係を続ける事も、(もちろん決裂することも)互いに認め可能になると思われるのです。)
ところで、今作の個人的には唯一の不満は、ラスト近くのある混同させる編集場面で、私はこの最後の混同の編集は感心しませんでした。
ただしかしながら、伊藤さんの長い戦いの後に民事裁判で(<断絶>意味では)孤独に勝ち得た喜びで、この混同の編集ぐらいは、加害者の山口氏のそれまでの立場からすれば、最後に限って許されるだろうとも、一方で私にも思われました。
そして加え驚くのは、この最後の編集の混同への批判があるならば、<矛盾>や<断絶>から【目を逸らし】、【全ての差異を自分好みに一色化して混同化し無化している】、左派右派関わらずへの批判へと、そっくりそのまま批判しているその人に帰って来る構造にこの映画はなってもいるのです。
この映画の<人間の断絶>を深く認識した上の救いは、最後にドアマンを通して実は語られていると思われました。
しかし、<人間の断絶>を踏まえた(今回のドアマンに象徴された)希望の未来が、絶望的に遠いこともまた、今作と伊藤詩織さんに対して、今回起こった左派右派含めたあらゆる人々の【人間の断絶を表層で無効化し自分好みに一色化しようとする欲望】による批判の嵐を見れば、この国の絶望として明らかになっていたと思われます。
今作が表現していたように、<(性)被害者が、(加害者やその関係人物だけでない)支援者やその関係者とも、位相がかなり深刻な度合いでズレて<断絶>している>所からすれば、被害者でない私が、伊藤さんを芯から深いところで<断絶>を超え根本理解することは不可能に思えます。
しかしながら、伊藤さんが今後も真摯に人間とこの社会に向き合い、ギリギリのところで人間の深淵である<矛盾>や<断絶>から目を逸らさず向き合い図らずもその表現に到達しようとし続けるのであれば、今後の生み出す表現に期待をし、そちらからの<断絶>の遠い場所からでも応援したいと思われています。
ただ落ち着いたらしばらくは精神の休まる時間もあればと思われています。
その<矛盾>もまた、人間の本質の一方だと思われているので。
映画を観た鑑賞者の多くもその<断絶>を甘受し、【一色化する信者】などとは真逆に、今作が表現した<人間の矛盾><断絶>の深さに対して、感銘と称賛を感じた人も少なくなかったと思われます。
非常に屈指の優れた作品をありがとうございました。
おぞましい
詩織さんの勇気に
なんて勇気に溢れた方なのだろう?起きてしまった事実はもちろん、公に訴えた時の社会の反応などを考えると、「立証が難しい」と言われた時点で泣き寝入りをするのがおそらく一般的。それを大きな権力と戦い続けた。ただそれだけでも敬意を表する。だが、本当に戦わなければならなかったのは、この日本という社会。事件が起きた10年前の日本では、まだ「性暴力」は「性暴力」と認知されていなかったのではなかったか。理解のない2次加害の恐ろしさよ。この事件があったからこそ、今日本社会では「性暴力」が加速度的に認知されるようになった。支援者の1人が、「昔同じような被害に遭った事があるが、未来の社会をかんがえていなかった」と。詩織さんがこんなに苦しい思いをしながら勝ち取ったものに、これからの私たちはただのかっかっていいのだろうか。詩織さんが戦っていた時に、興味にないふり、知らないふりをしていたのも、私たちである。
「I will survive」が使われたのが悲しい
自己愛に満ちた方なのだと思った。 説明不足でエビデンスに乏しく、感情だけで乗り切る豪腕な演出だね。「不同意性交」については、十分に可能性はあるかとは思うが、強かに女の武器を使って、仕事を斡旋しなかった男に復讐した可能性はゼロとは言い切れないと思わせる演出だった。しかし安倍元総理が圧力をかけたという疑惑については何のエビデンスもない。顔見知りで気を許していた程度のTBSテレビのたかだか一記者に歪んだ権力の横車を押すなんて危険を誰が冒すのか理解不能だ。それを随所に匂わせ、ラスト付近に奈良での安倍元総理襲撃を入れている。そして「I will survive」をバックに髪を振り乱して踊る詩織さん、何か違和感が残るのは私だけ?
声を上げ続けることの大切さ
ドキュメンタリーならではの釘付けになる映像作品
被害者ながらも、冷静にジャーナリストとしての行動をとっている彼女にはとても強い信念を感じました。
時の流れとともに彼女が次第にジャーナリストの側面から、被害者の顔を表し始めるが、だんだん緊張や不安の抑圧から解放されているような気がしました。
1人の「伊藤しおり」という女性(人間)に戻っているような。
とにもかくにも、これほど大きな事件に太刀打ちするためには信念を持ち続け、時には自分の人格や家庭を犠牲にすることもあるということ。
そこまでしないと社会は変えられないのでしょう。
彼女や、多くの登場人物の協力があったからこその作品でした。
性被害にあわれたかたは孤独になりがちですが、きっと1人ではありません。必ず支えてくれる存在がいます。
彼女の行った行動は、きっと閉鎖的で被害者の声が閉ざされやすい日本にいい影響を与えるはずです。
そうでなくてはならない。
この映画の存在を日本人全てに伝えたい
伊藤詩織さんが性被害を受けたのが2015年の4月だから、もう10年以上の時が流れた。
彼女が泣き寝入りすることなく闘い続ける姿を綿々と紡いでいくこの物語に私は素直に共感するし日本の社会の闇の部分に強い憤りを持つ。
シェラトンのドアマンの方が実名で証言してくれると電話でやり取りするシーンでは私も涙した(満員の劇場でも啜り泣きが聞こえた)。
この映画がアカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞にノミネートされ、世界60超の国で公開され国際賞も20超で受賞したにも関わらず、日本での公開はやっと始まったが上映館は僅か1カ所と言う事情は、何処ぞの弁護士の横やりによる映像修正もあるが、映画の中であらためて強く明らかにした加害者山口敬之元TBSワシントン支局長、彼の逮捕を止めた中村格刑事部長(その後警察庁長官に出世)と安倍元首相及びそれを取り巻く権力者たちの存在があったからだ。今の総理も安倍元首相の後継者なので権力者たちへの忖度(この映画を世に広めるなと言う)は続くのだろう、。
編集を担当した山崎エマ(プロデューサーのエリック・ニアリは夫)も「小学校-それは小さな社会-」の短編版がアカデミー賞の短編ドキュメンタリー賞にノミネートされていたが、今作と共に発表時にニュースで流れただけで、その後はオールドメディアでは話題にもならない。日本は真実の報道をしない後進国に成り下がったが、このままじゃ、文化芸術の分野でも後進国になってしまうと危機感を感じました。
2022年7月。最高裁で山口敬之の賠償金支払いが確定(奇しくも安倍元首相が銃撃された日)した後、車の中で喜び「25歳だったのに33歳になった」と言っていた。大切な若き日々をこの事に全て費やしたと思うと、又泣けてしまった。伊藤詩織さんには今後もドキュメンタリー監督として次なる作品に挑んでもらい有名になってもらい、いつか「Black Box Diaries」を地上波で放映できる世の中に変えてもらいたい。
私は応援します。
2025年、この映画を今年の私のベストムービーといたします。
性暴力サバイバーの心の叫び
今の日本では、密室で性暴力を受けると被害の立証はとても難しく、増してこの事件のように被害者が若い女性、加害者は社会的地位が高く、日本の政界有力者と非常に近い立場にいたりすると、簡単にもみ消されてしまうというのが、映画の背景。この事件は、伊藤詩織さんのその後の奮闘や、映画「新聞記者」をはじめとする一部メディアの取り上げにより、私自身も起きたことの経緯はよく知っていました。なので、映画の筋を追う必要はなく、作り手である詩織さんの心の動きに自然に共感しながら観ることができました。
映画の素材となった映像や音声について、関係者との間でトラブルが起きていることや、この映画が海外の多くの映画祭などでとても高い評価を得ていることなどの周辺状況も報道を通じて知った上で鑑賞しました。観る前は、両者の言い分や有識者のコメントなどを読んで、やや複雑な気持ちになっていました。双方の言い分がどちらも確かにそうだなと思えるものだったので。
しかし、映画を観た後、私はこの映画が、本来守られるべき性暴力被害者が守られず、自分で立ち上がるしかない社会や、顔を出して実名で告発することへの強い風当たりと世間の好奇の眼、それらと葛藤しながら闘う彼女の強さ、弱さ、不安、苦悩、落胆、戸惑い…そういった全ての感情が非常に上手くスクリーン上に表現されていて、社会的弱者である性暴力サバイバーの立場に共感するしかない、この映画の力強さ、素晴らしさに圧倒されました。
この作品はドキュメンタリー映画として、非常に良く出来ているのです。事実を真っ直ぐ、冷静に説明しつつ、そこに登場する多くの人たちの意見、感情、戸惑い、迷い…そういったものが驚くほどストレートに視聴者の心に届いてくるのです。こんなドキュメンタリーは珍しいと感じました。
考えてみると、社会の不正や事件の背景をドキュメンタリーで描く時、すべての人の合意を得て映像化するのはかなり難しいのではないでしょうか。もちろん、そのことによって二次被害を受ける人や苦境に立たされる人を出すべきではないし、そのことは伊藤詩織さんご自身もかなり意識していることが、映画の中で彼女自身の苦悩や迷いとして表現されていました。こういう苦悩を、被害者本人が一人で背負わなければいけない社会の側に問題があるのじゃないのか?本当は、彼女のような被害者を出さないように、社会の側や被害者以外の人々(私を含めて)が、こうした事件を告発し、報道し、加害者が不起訴になるという社会不正と闘わなけりゃいけなかったんじゃないのか?
つまりこの映画は、「誰の立場でこの事件について考えますか?」ということによって事の是非の判断が分かれる映画だと感じました。そして、映画の視聴者は「詩織さんの立場に立って出来事を見ること」を迫られる映画だと、そしてその意味でこの映画は成功していると、私は感じました。
共感したし、公共性の高い作品
Tジョイ品川で観てきました。劇場はほぼ満席。本当に老若男女の多様な観客が観にきていました。ドキュメンタリー映画としても完成度が高く、探査報道としても確実に公共性のある作品。
伊藤さんが何故こんなにも叩かれなければならないのか、映画を見て、ますますわからなくなった。
世界に誇れる日本人監督のドキュメンタリー作品。この作品が告発している問題は、日本だけでなく世界中で起きて問題になっていること。伊藤詩織さんの英語の記者会見が気に食わない人がいるようだけど、同時通訳もついているんだし、そこを叩くのは本当に筋違いと思う。
映画の日本公開にあたっての記者会見で「捜査員Aが特定されるのでは?」と批判的な質問をした記者がいたが、映画を観たら捜査員Aは伊藤さんにゴリゴリのセクハラをしており、そんな人物の言動を「酔っ払いの戯言」「立場は守られるべき」などと擁護する発言に心底驚いてしまった。
弱きものに対して、弱いままでいてほしいという人間の深層心理なんだろうか、これは性暴力被害者に対してだけでなく、ひとり親や、性的少数者などのマイノリティに対してもよく向けられる眼差しだ。
私は、映画の中で、伊藤さんの生き生きとした笑顔や、女性記者の集まりで見せた涙など、一人の人間としての姿を見られて本当に良かったと感じて、心から応援したいと思った。
伊藤さんを批判している人、上映を妨害している人たちは声も大きく、力もあるので、自分も伊藤さんを擁護する発言をして目をつけられたら怖いと思って発言できない人もいるのではないかなと思う。でも、映画を観た人の口コミは、絶賛するものが多く、これによって、ミニシアターなどでも上映が広がってくれたらいいなと思う。
批判は卑怯な権力者たちに向けるべき
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