リトル・リチャード アイ・アム・エヴリシングのレビュー・感想・評価
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感謝の意 形で示そう いますぐに
膨大な映像資料や多数の関係者へのインタビューを織り込みつつ、その一生と遺したレガシーを101分にギュッと纏めた良作。
ロックスターには珍しく?身内、友人や関係者からの評判が非常に良いのが印象的。
I am everythingの言葉通り、音楽史における創造者で建築家で破壊者で革命家で解放者・・と称号に事欠かない。アップダウン激しく人生そのものがジェットコースターのような人物。
神を深く信じ、一方で破天荒な面もあり、他人にはとても優しいが自分自身はなかなか満たされず心を晒せない。クイアーだが(内心はさておき)女性と結婚して良き夫として尽くした。黒人アーティストはまだ不遇の時代、作り出した音楽は白人にある種踏み台として扱われることも多かった。不平等な契約のために困窮し、神の愛を説く生活からまたショービジネスに舞い戻った。
沢山のアーティストに多大な影響を与えたが、自分自身は65歳まで賞を貰えなかった。ようやく表彰されて彼が大粒の涙を流した場面にはこちらも号泣。感謝の気持ちがあるのなら、存命中になるべく早く形にして示すべし。〇んでからでは遅すぎる。
音楽ドキュメンタリーとして十分見ごたえあるが、彼と関係者の言葉が非常に示唆に富んでおり、中身の濃い講義を受けたような知的充足感を覚えた。
「リチャードは他人の心を自由にするのは上手だった。」
リトル・リチャードを3つの言葉で表すとしたら、1)革新的 2)ハンサム 3)エネルギッシュ と言える。
個人的にロックンロールはあまり興味がないので、このレビューに気持ちを投入できないが、『へええ...そうだったんか?』と思ったところや印象に残ったところをいくつか書いてみる。1)宗教 2)影響を受けた。または与えた実例 3)印象に残った一番好きなシーン
1)宗教:リチャードはジョージア州のメイコンで生まれたと。私はオールマン・ブラザーズ・バンドの熱狂的なファンで、彼らの博物館がある、メイコンに絶対行くつもりでいる。だから、リチャードの資料館も近いからよりたい。
リチャードは1932年に生まれ、熱心な南部のキリスト教(バブティストor ペンテコスタ)の家庭で育った。ペンテコスタの熱狂的な教会のサービスが気に入ったようだね。賛美の仕方はリチャードのパーフォーマンスと似てるよね。本人も牧師になりたいと思っていたようだ。しかし、教会育ちだから、ティナ・ターナーやウィットニー・ヒューストンのように、年を重ねても声が出て歌が上手だね。それに、三つ子の魂百まで信仰は深く心に残っているんだね。
父親はリチャードのことを『7(12?)人子供がいるが、リチャードは家系を混乱させた(mess up)ーゲイだから』というから当時の異端児だったんだね。この環境でゲイを早い時期からカムアウトしているからすでに革新的であったね。父親の暴言は心の闇になったろうに。 "Long Tall Sally" (1956)"The Girl Can't Help It" and "Lucille." などのヒット曲を飛ばし売れっ子になったけど、アポロ劇場でさようならコンサートをして、アラバマ州にあるセブンデーアドベンチストの黒人の大学オークウッド大学に神学を学ぶために入学した。神により近づくために( spiritual rebirth)。でも、お金がなくて、また芸能界に逆戻りしたと。宣教活動じゃあ、収入にならないからね。1977年にドラッグで人生をダメにし、また、宗教evangelismに戻って救いを求めたね。1979年に God's Beautiful City,というアルバムをリーリースした。 ミッショナリーツアーやトークショーなどに出て、布教活動をした。I am singing for the Lord. でも、また金銭問題で、世俗的な世界に戻った。
2)影響を受けた。または与えた実例:
15歳でピアノを弾いて、いた。ピアノはアイク・ターナースタイルなんだね。左手でブギブギスタイルで、右手はアイクのスタイルだって。影響を受けた初期のボーカルスタイルは
Brother Joe May
Clara Ward Singers
Marion Williams もっといるが書き留めなかった。後で聞いてみたい。
My music broke down segregation.1日目は白人、2日目は黒人というふうに分けた言ったけど。当時のこのコンサートは白人黒人が混ざって聞いてるね。若者がリチャードの音楽を熱狂的に楽しんでいる様子がわかるね。
Black Rocken Roll for Delinquencyペンシルバニア州警察のスペシャルコミッティに名前が上がってるね。こういうコミティって、性的用語を使うことにより、子どもや若者の影響を考えて、社会を乱す行為だと思ってるから、それを取り締まるのが目的のようだ。赤狩りマッカシーもリチャードを批判をしたとか。この当時、冷たい戦争中だからは共産党(ロシア、中国、アメリカの共産党思想のこと)と関係ないようでも言論・思想統制が厳しかったからね。
1955年に『Tutti frutti』がヒット、1956年に 『Long Tall Sally』がビッグヒットと。これをビートルズのポール・マッカートニーも歌ったんだね。私はビートルズの曲だと思っていた。1962年はロンドンでコンサートを。その後、ブライアン・エプスタインに招待されてリバプールでビートルズに会うんだね。ビートルズ、ローリングストーンズ、エブリーブラザーズまでもリチャードの真似をしたがっていたんだ。ローリングストーンズ(1967年Second UK tour)はリチャードの前座バンドで、ミックジャガーはリチャードを何十回も見たって言ってたね。前座バンドだからね。1964年のAmerican Bandstand ディック・クラークのショーで、ビートルズたちがリチャードの曲を使うのは素晴らしいし感謝だって言ってるね。
映画監督JohnWaters がボルチモアの若者は黒人のラジオ曲を聴いたと。人種差別主義者ですら、聞いたと。Underground Balck Music を白人の若者も聞いたと。JohnWatersもリチャードのような細い口髭を生やしてるね。エルビスが『Tutti frutti』を使ったと。Long Tall Sally も。1950年代で差別は当然の時代だったが、リチャードの思考や行動は革新的で反骨精神のある若者に受け入れやすかったんだね。当時の高齢者はどうだったんだろう。
3)印象に残った一番好きなシーン:デビット・レターマンのショーでリチャードは体を洗って、清めてくれて、神に感謝していると。自分がゲイなのが神に清めてもらってもうゲイではなくなったような意味合いを持たせるし、もうゲイではないと言った(?)。これをあるトラスの人が、リチャードはゲイへの信頼を裏切ったと言っていた。私もそう思った。本人も、ゲイである本人をも愛してくれる神でなければ受け入れられないと思うが.....ある人がリチャードは強くないと。(strong enough to take it) 当時、キリスト教はゲイを否定しているからね。現在も宗派によるが根本的に否定している宗派もある。
また他の人が、「リチャードは神に向かって走って行ったのではなく、自分自身から逃げているのだ」と。この言葉はリチャードに向かっていうのはきついけど、私もそう思った。都合のいい時に神の道に入っていく。これは自分に向けてある問題が解決ができないから、まるで、苦しいい時の神頼みのようにで、苦しい時にだけ、救いを求めて戻ってくるのだ。教会育ちだから、信仰が救われる場所であり、救われたいから戻っていくと思う。でも、それは自分の都合で、まるで、現実逃避なんだと思う。
リチャードへの最大の褒め言葉である人が「彼は他人の心を自由にするのは上手だった。」という言葉である。「でも彼は自分を自由に解き放てなかった。」と。この意味は説教も歌も上手で、人々に感動を与えて、人の心に『自由を啓蒙する』。因習や古い考えや悩みなどで現状維持している人の心を解き放つことができると言う意味だと思う。ある人は寛大な人だとリチャードのことをいう。人に与えることができるという意味である。
テレビインタビューで一番欲しいものは何かと聞かれた時、『愛』だと答えた。リチャードの人生は人に愛を与えたり、自由な心を与えたりすることができたが、自分にはそれがなかったと思う。クリスチャンの根本的精神(与えること)は子供のことから同じなんだね。
余録:このビデオはありがたいことに、何年と時代を明記してくれる。それで、米国の、政治、音楽などと、頭の中で比較できるからわかりやすい。しかし、初めの方でインタビューに答えている人々の名前に字幕で出ていない。私はミックジャガー以外誰も知らない。途中からは答えている人々の名前が字幕として出てくる。一貫性がないけどプロヂューサーが見直しをしたのかな? 私はDVDを見てるので、劇場公開版は編集されている?
時々、セリフが文字化されて画面に出る。それも、時々。何のため?私のとってみれば、リトル・リチャードの興奮して、大声で喋るところを文字化してほしい。このビデオは不親切なビデオだ。特に1950年代のロックンロール時代の記憶がある人は世界でそれほど多くないだろう。戦後すぐで、米国ベビーブーマーの人たちなら知ってるかもしれない。これはリトル・リチャードの知識豊富な人の映画ではないはずだ。リチャードの哲学のように『与える』という映画でなければならないはずだ。日本はテレビ放映開始が1953年であるが、テレビが普及したのはもっと遅れてである。ゲイ用語で卑猥な『Tutti frutti』(すでに歌詞を変えた)ですら1955年だ。この映画を世界に公開するなら、もっと配慮を望む。もう一言、教会関係の人々のインタビューも加えれば、リチャードの芸能界と教会の両面の人生がもっと理解しやすいかと思う。
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