「限界がすぐそこにまで迫っている」名探偵コナン 100万ドルの五稜星(みちしるべ) ウォレスさんの映画レビュー(感想・評価)
限界がすぐそこにまで迫っている
はじめてに断っておきますがこのレビューは今作に対してのものでは無いです。
劇場版コナンといえば物理法則を無視した滅茶苦茶なアクションだとか脚本が滅茶苦茶だとか、そういったレビューを目にします。実際その通りですし私もそう思いますが、正直近年の劇場版コナン、というかコナンというコンテンツそのものが、そんなことはどうでも良くなるくらいに別の問題を抱えていると考えています。
1)主人公以外のキャラの消費
コナンの興行収入が爆上がりした20作目は組織が関わり、21作目は平次と和葉が関わり、22作目は安室と公安、23作目はキッドと京極と園子、24作目は赤井(と見せかけて世良)、25作目は安室と警察学校組、26作目は灰原と組織、そして今作はキッドと平次と和葉。
特定キャラ、それも劇場版オリジナルとかではなく原作にいるキャラを映画のキーパーソンにしている訳ですが、なぜ主人公やその周りでは無いのか?単純に疑問です。安室さん、さすがに出番が多すぎませんかね。組織のスパイである以上出る必要があるとはいえ、組織映画だった20作目と昨年にも出てましたし。
○○である以上特定キャラの出番がある、××が関わるから特定キャラの出番も必然的な流れで「用意されている」。書き方が悪いですが、しかし率直な意見でもあります。特に一番最後に流れる自作予告は19作目までは内容に関係する画のみが映し出されていましたが、20作目からはキャラクターの声が入るようになりました。はっきり言って特定キャラの押し売りです。
キャラクターやキャラの関係性が描かれるのは好きです。というか個人的にそういうのは大好物です。でもなんかそれを前面に押し出し過ぎて文字通り消費していると感じざるを得ないんですよ。近年は特に。安室さん出すぎと書きましたが嫌いじゃないし、キッドや他の人物に対しても同様です。でも繰り返し見に来る人ってそのフィーチャリングされたキャラのファンですよね。その人たちの為に映画作ってるんですか?ウン十億の興行になるのは話の面白さよりも推し目当てのファンによるものって事ですか........とぼやきたくなります。
それにキャラの押し売りはストーリーにも影響を与えています。
2)キャラクターのインフレで元からいたキャラクターが空気のような扱いに
特定キャラを出すという事はスポットを当てるという事、つまりスクリーンに映る時間がそれなりにある事になります。もしコナンが天涯孤独の身で友達もないキャラで、かつ1話完結型(人間関係が次回に引き継がれない)ならそれを逆手にとっていろんな人物との組み合わせが出来そうですが、そんな都合のいい物語や主人公は当たり前ですがないでしょう。物語は「主要な登場人物」がいるからです。新一、蘭、目暮、博士、小五郎、第一巻でも主要人物がこんなにいます。園子、灰原、少年探偵団、高木刑事たちも主要級の人物でしょう。
劇場版はこれらの主要人物と「映画の主要人物」=特定キャラを組み込む事になります。ですが110分(OPとED~エピローグを考慮すれば実質105分を切ってる)でこれを描くのは難題です。現状は映画の主要人物の出番が多い状態になっていますがこれは脚本の課題というより、連載が長期になるにつれキャラクターがインフレしているコナン自体の課題です。
では空気のような扱いとは何か。簡単に言えば元からいる主要人物に割り当てられた尺が少ないか、そのキャラの見せ場がない事です。例えば組織が関わる時。黒の組織はコナンにとってラスボス同然の立ち位置にあり、簡単には倒せません。そのため色々と「高いレベル」が登場人物へ必然的に要求されます。推理面だと目暮や小五郎がいらない子、悪く書けば足手まといになり、作中屈指の戦闘力を持つはずの蘭も勝つことは出来ない。では推理面で目暮達を上回る存在はだれか?捜査面では誰か?戦闘力では誰か?=コナンが頼りに出来る存在は誰か?答えは公安とFBI、になります。超人の見せ場が自ずと増えてしまう訳です。
眠りの小五郎になり、コナンが蝶ネクタイ変声機を使って推理を披露したのもここ数年では昨年くらいではないでしょうか(その昨年がまさに組織映画でしたが、各人物への尺の割り当てや見せ場の作り方は上手い方だと思います)。では眠らなかった時はどうしてた?容疑者扱いされて警察のお世話になったり、コナンたちのやった事で保護者として謝り倒していたり、ケガしてフェードアウト、と探偵としてはそんなに物語に絡んでない.......というかそもそも眠る必要がなかったのは、小五郎らを上回り、かつコナンに協力的な人物の平次、安室、キッド、世良らがいたからです。
そして所属組織や推理力や戦闘力で、蘭や小五郎を越えるウルトラ級のこの人たちがコナンと物語を進めるという事は、犯人もウルトラ級になります。25作目の犯人はもう反則レベルで強い。キャラの数のみならず「性能」もインフレを起こしています。こんな相手とやり合うのに少年探偵団や蘭がいたら物語を進める上で足かせになる時がある訳です。
その25作目は久々に少年探偵団の見せ場があって個人的に好きなんですが、結局ここでも特定の何かをフィーチャリングしている事に変わりはなく「あのキャラ立てばこのキャラ立たず」といった状況になっています。正確には「あのキャラ立てて、このキャラそこそこ立てて、そのキャラは立てれず」だと思いますが。ですので100分で初めから最後までを描く脚本家や監督は、この面に関しては頑張っている方ではないでしょうか。
10作目はオールスター出演みたいな内容でたくさんの人物が出てきましたが、今後は10作目のような映画は作れないでしょう。人物と人物の持つ性質や役割が比べ物にならないくらいに増えすぎたからです。
3)壮大なスケールやストーリー、人物の関係性が織り成す「劇場版マジック」が歪みを作り「厄介なファン」を産む
今年は「キッドにフィルムを盗まれた」という体で試写会がありませんでした。あくまでも体で、本当の理由はファンによるネタバレ防止です。昨年の試写会で映画の中身に納得できなかった一部のファンが暴走し、ネタバレと共に制作陣を誹謗するコメントを映画の公式アカウントの返信欄に書き込んだり、場所は違っても似たような言葉がインターネット上に書き込まれました。残念ながら今も続いていて、先日地上波で前作が初放送された際にも監督のもとへ沢山の誹謗中傷のコメントが送られています。
誹謗中傷の理由を意訳すれば「蘭を出し抜いてコナンとキスした灰原の映画作った人だから」というもの。まぁはっきり言ってバカ丸出しの厄介ヲタクだ~そんなこと監督に言ってもどうしようもないでしょ、と思いますが、でも同時に心無いコメントを書き込むのも理解できてしまいます。
21作目、23作目、今作はラブコメですが、ラブコメの対象は新一と蘭ではない。劇場版での主人公の新一とその彼女である蘭のラブコメが少ないんです、主人公なのに。あと、ウルトラ級な人物が活躍したら否が応でも「かっこいい」と思わざるを得ないでしょう。というか実際にかっこいいんです。カッコよく見せようとしているのでカッコよくて当たり前なんです。ストーリーも壮大だし。
周りは劇場版という華々しい舞台で見せ場があるのに、いくら新一の姿になるのが簡単ではないとは言えさすがに可哀そうかもな、と思います。「劇場版という華々しい舞台」、、、コナンは少年サンデーに連載されている原作漫画が大元。新一と蘭が付き合う事になったのも原作。ある意味原作は創造神と言えますが、映画のリピーターが単行本を買ったりしてコナンそのものを熱心に追っかけているとは思えません。サザエさん時空で話が進まないからです。推しキャラが絡まないと読まない人もいるはず。サンデーを毎回買って読む人なんかもっと少ないでしょう。
みんなの最も注目がいく媒体は原作でもなく、テレビアニメでもなく、劇場版。沢山の予算がかけられた劇場版です。お金がかかっていれば見栄えだって良くなりますよ。良くなって当たり前ですよ。名実ともに劇場版は創造神である原作を差し置いて「華々しい舞台」になっているんです。なってしまったんです。そしてファンは思うんです。「華々しい舞台、スクリーンで生き生きした(見せ場が割り当てられた)我が推しの姿を見てみたい」と。
新一と蘭のファンなんかそりゃもう何年も前から待ち望んでいるでしょう。しかし他に枠をどんどん取られるし、既に原作でもテレビアニメでもキスしているのに、いざスクリーンで人工呼吸とはいえ他キャラにキスされると、まぁ........言いたいことは分かりますよね?
一旦新一達のラブコメを横において、今作のキッドに目を向けましょう。キッドはコナンのキャラクターではなく「まじっく快斗」の主人公、黒羽快斗。いわばお客さん、スターシステムで登場しているキャラクターです。コナン世界の為に生み出されたキャラクターではないのですが、そのようなキャラクターをコナンに出すと歪みが生じ始めます。
今作でいえば「快斗の父親、盗一は生きており新一の父との双子の兄弟で、新一と快斗は従兄弟だった」という設定です。以前から意図して快斗と新一の顔を寄せていると言われていましたが、正直これはキッドがコナンに登場する前から考えられていたのでしょうか?そうだとしてもキッドって中森警部を2発被弾させるような奴でしたっけ。というか泥棒が親族ってどういう事だよ。どうやって落とし前つけるんだ?
......と、このように劇場版で伏線回収するどころか新たな疑問が出来上がり、物語は進まず拡張するばかりです。劇場版の中で収まる話だとしても、キャラクターの押し売りで~というのはもうさっきから何回も書いているのでやめます。
長々と書きましたがこれをお気持ち表明をとらえるか、的外れな意見ととらえるか。この状態が続けばコナンそのものに対して見切りをつける人が出てきてもおかしくないでしょう。自分はもうその手前まで来ているような気がします。勝手に見切りをつけるだけならまだマシで、試写会を中止にした人達みたいに暴走するファンが出てきたらもう最悪です。タイトルの「限界が迫っている」状況が私の的外れなお気持ち表明で終わってくれたら非常に良いのですが。