コット、はじまりの夏のレビュー・感想・評価
全114件中、101~114件目を表示
語り過ぎないことの大切さ
「The Quiet Girl」という英語のタイトルのとおり、静かで、穏やかな映画である。
説明過多をあえて回避しようとするかのようなこの映画のスタイルは、叔父のショーンによる「沈黙の機会を逸すると、多くのことを失ってしまう」といった台詞に集約されているように思う。
様々なシーンや台詞が省略され、脳内補完を迫られる中で、この台詞が語られる月夜の海辺のシーンが比較的じっくりと描かれるのは、そうした理由があるからだろう。
自分に真摯に接してくれる大人と出会い、生き生きとした表情になっていくコットの姿を見ていると、人間の成長にとって、「愛される」ということがいかに大切かということに気付かされる。
ただ、それ以上に、コットが、叔父と叔母の仲睦まじい様子を覗き見るシーンが、短いながらも強く印象に残った。
彼女は、自分の実の両親とは明らかに異なる夫婦の関係性に衝撃を受けたはずで、そのシーンは、ラストに彼女が疾走する場面でも、フラッシュバックとして蘇ってくる。
最後の最後に、抑制していた感情を爆発させるコットの姿には胸が熱くなるのだが、それと同時に、「両親の仲が良い」ということが子供にとっての幸せで、そういう両親のもとで暮らしたいというのが子供の願いなのだということを、改めて思い知らされた。
コットが走り出したのは、実の両親からネグレクトされているからだけでなく、叔父と叔母の夫婦が愛し合っているからだと思えるのである。
美しいゲール語。美しいコットの瞳。美しいアイルランドで観客も究極のデトックスを共有する。
ゲール語でおおむね全編話されている映画を観たのは、初めてかもしれない。
(初めてではないかもしれないが、意識して聴いたのは初めてだ。)
率直に言って、驚いた。
なんて美しい言語なのだろうか。
鼻から息を少し逃がすような。
口のなかで一呼吸まろばすような。
一言、一言をかみしめるような。
いちおう知識としては知っていたつもりだが、
単語も発音も、英語とはほんとに全然、別物なんだな。
この映画は、どこにでもいるような一人の少女のひと夏の成長を描いた、ちいさくて、慎ましやかな物語だ。
でも、これだけは言える。
このちいさな物語の全編に、
「アイルランド」がしみわたっている。
アイルランドの自然が。
アイルランドの風俗が。
アイルランドの言葉が。
少なくとも、ゲール語で紡がれる物語が、とびきりに稀少な映像体験であることはたしかだ。なぜなら、いまアイルランド広しといえども、「ゲール語で日常会話が成されている地域」は、ほんとうに一握りしか残っていないからだ。
だから、少女コットの物語は、
ありきたりではあっても、特別だ。
彼女の傷ついた心を癒すのは、
単なる親戚夫婦の優しさではない。
アイルランドの風が。
アイルランドの泉が。
アイルランドの歌が。
アイルランドの……アイルランドの「魔法」が、コットを癒していくのだ。
そして、その「癒し」のデトックス体験を、
観客もまたこの映画を観ながら共有することになる。
― ― ―
それにしても、
なんて美しい瞳の色をした少女だろう。
日本では決して見られないような、
コバルト・ブルーの瞳。
光の入り加減では、
そこに深いエメラルド色の翠の翳が差す。
うっすら赤味を帯びた茶色のロングヘア。
真っ白に透き通るようなすべやかな肌。
少し薄目の紅く、くっきりとした唇。
コットはさながら、アイルランドの妖精のようだ。
最初出て来たとき、コットの顔には陰りがある。
硬く張り詰めた表情。少し怯えたようなまなざし。
寡黙で、引っ込み思案で、影の薄い陰キャの少女。
たいして勉強もできず、友達もいない。
家族からは空気のように扱われ、いじめられないかわりに、相手にもされていない。
あげく、母親の出産を機にひと夏のあいだ親戚夫婦のもとに出される。
『オレゴンから愛』の少年・明は、両親を亡くして古谷一行と木の実ナナの叔母夫婦に引き取られた。『赤毛のアン』のアンは、孤児院からプリンス・エドワード島に渡った。コットは、「両親がいるのに」親戚のところに出される。
そのさみしさ、不安、よるべなさはいかばかりだったろうか。
ただ、見逃してはならないのは、コットは「最初から」まっすぐ相手の眼を見て、質問ができる子だということだ。
彼女には、生来の「世界を探求しよう」という「欲」がある。
人をまっすぐに見つめられる、「強さ」がある。
ひねくれずに人の話を受け取れる「素直さ」がある。
なにか一つのきっかけで、この子は「変われる」資質をもっているのだ。
おねしょから始まった滞在1日目(アイリンおばさんは、怒らない)。
コットは、親戚夫婦の素朴な優しさと、無骨ではあっても真実味のある接し方に触れて、だんだんと心を開き、少しずつ笑顔を取り戻してゆく。
最初に彼女のすさんだ心を慰撫したのは、たしかにアイリンおばさんの示した優しさだったろう。
スキンシップ。手つなぎ。肯定感。家事の共同作業。絶対的な認容。
子供は、抱きしめられることで、自分の存在を認めていくものだ。
アイリンおばさんは、こわばったコットの心をゆっくりとほぐしてゆく。
でも、彼女に劇的な変化をもたらしたのは、むしろショーンおじさんのほうだった。
ポストまでの全力疾走をうながす、おじさん。
新しい服を買いに行こう、と言い出すおじさん。
彼は、コットが本当に必要としていることを感覚的に把握し、与えてみせる。
脚が速いこと。美しさ。生来の気性の良さ。
コットの「資質」を真正面から認めてゆく、ショーンおじさん。
それが無骨なやり方であるがゆえに、余計にコットの心にストレートに響く。
ショーンとアイリンのキンセラ夫妻には、秘密がある。
あれだけ「この家に秘密なんかない、秘密があるのは恥ずべきことなのよ」と言っていたアイリンおばさんには、コットに話していない隠し事がある。哀しみの記憶があまりに重すぎて、おばさんはコットに語り聞かせているような正直さを、自分が生きられていない。
おばさんも、おじさんもまた、弱い人間なのだ。
粗野な隣人のぶしつけな質問から、その「秘密」を知ることになるコット。
でも、そのことは逆にコットの心に夫妻への「親近感」を芽生えさせるだろう。
そして、親近感はやがて「愛」へと変わっていくだろう。
自分が、二人の巨大な喪失感を埋めることのできる存在だと、
二人もまた、自分の存在を本当に必要としてくれているのだと知ったコットは、
すでに「与えられる」だけの少女ではない。
― ― ―
『コット、はじまりの夏』は、とてもミニマルな映画だ。
台詞も、イベント数も、登場人物も、最小限。
動きも、説明も、極力抑えられている。
夫婦の抱える悲劇も、おしゃべりな隣人以外だと、壁紙や残された服から間接的に語られるだけだ。
ただ、監督は物語の「リズム」をつくるのがとてもうまい。
出だしこそ、観ていてかなり退屈するし、眠たくもなるが、田舎にうつってからは、静謐な中にも気韻生動するリズムが常にあって、ずっと集中して観ることができた。
常に、カメラの視点を低め(子供の高さ)に設定していて、コットの世界認識と共鳴しながら観られるようになっているのも、ポイントが高い。
ここにも「小津」の影響があるとすれば、『Perfect Days』『枯れ葉』に続くフォロアー作品ということになり、その影響力の高さを感じとることができる。
僕が一番感動したのは、ラストシーンだ。
なんで、こんなにも胸が熱くなるのか。
おじさん、つい「うううう」って泣いてしまいました(笑)。
いや、そりゃあ「別れ」ってのは辛いものだ。
山本太郎だって、イモトアヤコだって、ものの1週間滞在しただけで、部族との別れはいつも涙、涙の愁嘆場になるわけで。
でも、そういう情緒的なことだけじゃないんだよなあ。この感動は。
演出として、驚くべき精度で、これしかないという間合いで、絶妙のバランスで射貫いてきている。そういう感じがする。
これ以上やりすぎたら「ダサく」なるし、
これ以上抑制したら「地味なまま」に終わる。
これは、演出とモンタージュの勝利だ。
僕にとって、『Perfect Days』のラストは「やりすぎ」で気持ち悪かったし、『枯れ葉』のラストも僕にはちょっと戯作味(=監督の含羞)が強すぎた。
このあいだ観た似たテーマを扱った『ミツバチと私』にしても、ラスト近くの「名前呼びイベント」は明らかに「演出過多」で、監督のエゴと傲慢が透けて見えた。
その点、『コット、はじまりの夏』のラストには、最初からこのシーンで終わることを念頭において、徹底的に精査を重ねて、すべてがしっくりくるように計算されつくしているような奇跡的なバランスがある。魔法のようなカメラワーク。二度繰り返される、とある台詞の温度差。でも、「押し付けがましく」なるぎりぎりのところで踏みとどまって、きちんと余情を残して映画を締めている。
ほんとうに優秀な監督さんだと思う。
以下、アイルランドについて、ちょっと思ったことなど。
●原題の『The Quiet Girl』って、やっぱりジョン・フォードの『The Quiet Man』が元ネタなのかな? 映画のなかでも「何も言わなくていい、沈黙は悪くない」って台詞があったけど、「寡黙な誠実さ」ってのは、アイルランド人の生き方の中核にあるものの考え方なのかもしれないね。
●舞台は1981年。まだ携帯やSNSがない時代、というのが物語を「シンプル」にしていて、プラスに働いていると思う。
●ふだん使いでは、ゲール語で会話しているキンセラ夫妻だが、ラジオやテレビから流れてくるのはすべて英語の放送。こうなってくると、ゲール語話者であり続けることは、ある種の誇りと使命感がないと難しいよね。
●アイリンおばさん役のキャリー・クロウリーって、だれかに似てるなあと思ったら、90年代くらいのマギー・スミスに雰囲気がよく似てるのね。
アイリンおばさんに関しては、ショーンおじさんによる「善良すぎて人の悪意をもろに受け止めてしまう」みたいな人物評がとても深くて、ドキッとした。
●この映画は、もともと英語で書かれたクレア・キーガンの「Foster」を原作としながら、敢えてゲール語で撮られている。ここには、「Cine4」というアイルランド語(ゲール語)でオリジナル長編映画を制作する資金提供のプロジェクトがかかわっているらしい。
あえてゲール語を第一公用語にしているくらいのアイルランドで、ゲール語を用いた映画が作られてこなかったというのはむしろ意外な感じもする。ちなみに、パンフの梨本邦直教授の寄稿によると、この映画はアイルランド国内でも大ヒットしているが、英語話者である観客の多くは、「英語字幕を見ながら」この映画を鑑賞しているらしい。もはや、アイルランドに住んでいても、ゲール語を理解できない人間のほうが多数派なのだ。
このあたり、日本人にはまったくわからない感覚だよなあ。
むしろ失われゆく言語と文化という意味では、アイヌなんかに近い感覚でとらえるべきなのかもしれない。
●ちょうど同じ時期に公開されているエスティバリス・ウレソラ・ソラグレン監督の『ミツバチと私』は、本作同様に「小学校中学年のヒロイン(トランスジェンダーだけど)が、ド田舎にある親戚の家でのひと夏の体験を経て成長する」お話で、なにげに共通点が多い。
主人公がオーディションで選ばれた新人さんで、「史上最年少で主演賞を獲得」といった宣伝文句も思い切りかぶってるし(笑)。
本作ではゲール語話者の住む地域、『ミツバチと私』ではバスク地方が舞台に設定されていて、「廃れゆく古い言語と文化によって特別に聖化された地域」で展開する物語であることが、作品内容とも深く結びついているという点でも、両者はよく似た映画だと思う。
●最後に、コットのお父さんが後ろに追いかけて来てたのは、少しは良心にやましいところがあって、多少は気に掛ける思いもあるからだと、とらえてもいいのだろうか?
この作品のなかでは、お父さんだけがゲール語を話さず、英語だけで会話しているあたりに、ここで描かれている「アイルランドの魔法」は、お父さんにはかかっていないことが示唆されている。コットの人生においては、間違いなくこのお父さんは「リスク要因」でしかないので、少しでも更生してくれることを願ってやまない。
成長に大切なものとは
関心を持ってもらえるって子どもの成長過程でとても大切。家庭の事情で親戚の家に預けられるコット。必要以上に手をかけるわけでもないが、丁寧に日常を一緒に過ごしてくれる叔母夫妻のお陰で、コットは笑い、自分から話し、自然の中でのびのび走るようになる。そして悲しい過去を背負う叔母夫妻もコットの存在によって癒やされていく。お互いへの絆が生まれ始めたころにやってくる夏の終わり。
ラスト、車を走って追いかけてきたコットをショーンが抱きとめるシーンは涙が止まらなかった。エンドロール、音楽が止みさえずりが聞こえる。どうあったらハッピーと思えるだろうか。
小さなビスケットひとつ
《コット、はじまりの夏》
目に見えるものが全ての幼いコットに見えない光が差した夏休み。献身的に寄り添う叔母と、不器用な叔父と解きほぐされる関係。静かな情景はいつも断片的。そう"大事な事は目に見えない"から。日々の生活の中で癒しながら癒やされている。
丁寧に髪をとかす、爪を整える、おさがりの服、小さなビスケット、じゃがいもの皮むき、新しい服、チョコアイス、大きなバケツ、粉ミルク、全速力で走る、死と隣り合わせに日々がある、相手を尊重する、気にかけること。生活をするということ。
出来すぎた感のある叔母叔父の"建前"的な生活と親戚の"本音"的な生活の両面をコットに見せているところが綺麗事で終わらせずコット今後の実家の見え方の変化するだろうと思わせる。ビクトル・エリセや杉田協士を思わせる作品世界がシンプルなストーリーに光を与えている
ラストありゃ泣くわよ年ベス有力候補。
傑作。。
24-013
なんだか考えさせられる作品でした。
我が子を愛しているだろうか❓
我が子に愛情は伝わっているだろうか❓
家族の輪から外れていると感じる。
生まれてくる弟の前に存在感がかき消され、
学校では浮いている。
父に疎まれ、母とも通じ合っていない。
この世の不幸を背負っているような姿に心が痛む。
知らない土地で、
知らない親戚夫婦から受ける愛情は、
ゆっくりと確かに心に届く。
最後に父さんと呼んだのは、、、
ゲール語⁉️初めて聞きました。
ラストシーンは思わず泣きそうになります。
途中経過がどうあろうとも。
(あと、もしかしてその後に、〝歩いてくるもう一人のダディー〟による不穏な状況もあるのかないのか、心配でもあります)
コットを演じる少女がシアーシャ◦ローナンのようで、まるで白い妖精。
寡黙な演技が自然体そのものなので、見ているこちらまで、ここはどう接したらいいのだろう?と本気で身構えてしまいます。
外部からの音と言えば、のどかに漂ってくる牛の鳴き声、風に共鳴する梢の揺らぎや小川のせせらぎ…
ヒーリングビデオのようでもあります。
なので、お疲れの方、睡眠不足の方は、体調を整えてからの鑑賞をお勧めします。
風邪を引いたの?とまるで犯罪を責めるような厳しい口調で問いだだす親が、私は嫌いです。かつて、かなり身近でそういう一種の虐待の現場を経験したことがあります。
(子どもが、親に叱られるのを怖れて体調が悪いことすら言えなくなるほどに追い込むのは虐待です)
作品全体の流れとは別に、引っかかってしまいました。
フランス映画っぽい余韻を残すタイプの映画
今年43本目(合計1,135本目/今月(2024年1月度)43本目)。
(ひとつ前の作品は「劇場版 君と世界が終わる日に FINAL」、次の作品は「サイレントラブ」)
まず、この映画はアイルランド製作とのことですが、話されている言語がよくわからないところです(英語の方言だとしてもほぼ聞き取れない。なお、作内では明確に英語を話す人もいる。発音が独特でドイツ語??と思ったりもする)
主人公の女の子の俳優さん(子役さん)は相当頑張ったのだろうと思いますが、極端にセリフが少ないことと、意味があるのかないのか見極めにくい筋の話(粉ミルクか母乳か、何かのカードゲーム(トランプ)、慈善くじがどうの、あるいはサッカー(?)か何かの球技の話など)の話の「発散のしよう」がすごく、トイレで抜けたりすると(私は近いタイプなので行くことが多い)一気に???になる映画の代表例かな…といったところです。
日本からだとイギリス文化はある程度ネット等で調べるとわかるし一部は一般常識の扱いでしょうが、アイルランドのそれはそうではないし、どういった知識を持っていけばいいか検討がつきにくいです。
もう仕方がないのでアイルランドという、まぁ「旅行できないわけではないが、普通は候補としてすぐには選ばない」(新婚旅行などでアイルランドに行きたい、というこだわりがあるような場合は除く)地方のひと夏の思い出を描いた作品として見ることはでき、映画もフランス映画っぽく何らかの意味で余韻を残すタイプなので(全部理解できる方にはそうではないのかもしれないけど)、そういう「セリフ少な目、あまり訪れることがない地方の映画をみたい」という方にはおすすめです。
採点に関しては以下を考慮したものです。
---------------------------------------------------
(減点0.2/とはいえ、かなりの方が理解しにくいのでは…)
主人公の女の子の発言が少ないことに加えてあっちこっちシーンが飛んだり、カードーゲームやら慈善くじがどうこうといった本当に脈略のない話をするので、ある程度のアイルランド文化を知っているのが前提の映画なのかな、という気がします。
ただ、そういう文化があるとしても、カードゲームにせよ慈善くじ(学校を建築するために資金が必要らしいとのこと)など、「趣旨はある程度理解できる」ものであるので、採点はこの程度にしています。
---------------------------------------------------
(減点なし/参考/ガンダムの特典?を渡されても…(映画館側帰責事由))
当該のガンダムの映画とは5分違いだったので入口が大混雑で、提示されているチケットで判別しているはずですが渡されるというありさま。まぁ、それほど換金性があるものではないし、朝いちばんの回で受付(入場窓口)が混乱していたという印象もあり仕方なしかなという感じです(帰りに返そうかなと思ったら、帰りも激混みだった…)。
ただただ愛おしい
貧しい大家族の中で寡黙なために居場所がなかった少女がひと夏、
親戚の家で過ごした物語。
誰からも邪魔だと思われていると感じていた少女が、親戚夫婦に愛情を注いでもらい、自分の存在を全肯定してもらう。
それぞれが饒舌に語るわけではないけれど、風景やしぐさや表情が全てを雄弁に物語ってるし、少女だけでなく、叔父の不器用さもまた、じんわり度高し。
丁寧に描かれる日常は退屈することなく堪能できた。
そして、アイルランド映画だから言語は英語かと思いきや、ゲール語!
それだけでも、何だか色々とこだわりを感じる
そして田舎の風景、林の中の井戸。
風景、空気感の全てが愛おしくなる作品。
彼女の最後の言葉は誰に対して向けられたものだろう…
それを考える余韻すら愛おしく思えてしまった。
コット、はじまりの夏 大家族であり父親が問題ありのネグレクトの環境...
コット、はじまりの夏
大家族であり父親が問題ありのネグレクトの環境下にいるコット。
そのコットが弟の出産を間近に控える事もあって叔父叔母の下へ行く。夏休みのひとときを叔父叔母の下で共に生活していくうちに愛される事に触れ、自身も愛する事を体験し成長していく姿がとても美しく描かれていた。
叔父叔母も辛い過去があり、コットも非常に内向的な性格なため両者とも言葉数は少なく不器用な所も多々あるがそんな静から生まれる優しさ、愛がとても心に沁みる作風だった。個人的には大好きな一作。
個人的な2024年洋画新作鑑賞ランキング
1 ネクスト・ゴール・ウィンズ 4.8
2 コット、はじまりの夏 4.7
3 アリバイ・ドット・コム2 ウェディング・ミッション4.5
4 アクアマン/失われた王国 4.5
5 ニューヨーク・オールド・アパートメント4.3
6 異人たち 3.7
7 ミツバチと私 3.6
8 僕らの世界が交わるまで3.0
9 弟は僕のヒーロー 2.8
10 ジャンプ、ダーリン 2.5
11 エクスペンダブルズ ニューブラッド 2.3
12 哀れなるものたち 2.3
13 葬送のカーネーション 2.2
14 サン・セバスチャンへ、ようこそ 1.8
15 VESPER/ヴェスパー 1.5
シンプルで分かりやすいので素直に泣けました
目線や気持ちを極力絞って、ちょっと面倒な事柄や分かりづらいところをうまくぼかして、非常にシンプルな内容だったので、なかなかぐっと来るものがありました。
スタンダードの画角も牧歌的な風景にマッチしていたと思いますし、それもやはり目線を絞りたかった演出のようなところも感じました。
ぽつりぽつりと発せられるセリフと静かに流れる音楽もまた効果的に涙を誘います。
誰にでもある、たくさんある思い出の中の一つを、淡々と、真摯に、切り取ったといった印象の作品でした。
ゆったりと時間が過ぎます
2024年1月14日
映画 #コット、はじまりの夏 (2022年)
大家族で寡黙に暮らす9歳のコットは夏休みを親戚夫婦が営む農場で過ごす
緑豊かな環境で二人から惜しみない愛情を受け穏やかな日々を送りながらコットは自分の居場所を見つけます
ゆったりと流れる時が心地よい作品です。心が落ち着きます。
「この家に秘密は無い」
立て続けに2回見た(オンライン試写会なので)。展開が地味でカメラワーク最高のアイルランド映画。自然光で撮影したのではないか?田舎の空と木々が美しい。
何よりも大人と子どもの接し方が良いストーリーで、ビクトル・エリセやセリーヌ・シアマが好きな方はぜひ映画館で。
事前情報で高評価を知ってたので、ややハードルが上がった状態で見始めたが脚本が良くて印象的。良い印象でなければ立て続けに2回観ない。
9才のコットは映画序盤で預けられる事が確定していて、それを「なんで?」と考えさせられる分部と新しい大人との出会いのストーリー。
今作は「アイリッシュ映画&テレビアカデミー賞」で「主演女優賞」を史上最年少の12歳で受賞した本作がデビュー作となるキャサリン・クリンチが主人公コットを演じる1981年が舞台の田舎ヒューマンドラマ。「第72回ベルリン国際映画祭」で「子どもが主役の映画を対象にした国際ジェネレーション部門」でグランプリを受賞し「第95回アカデミー賞」の「国際長編映画賞」にノミネートもされているので、鑑賞前からハードル上がりまくり。しかしキャサリン・クリンチの良さは分かるが他の主要キャラの演技が光る作品でもあり、気を使いすぎるアイリーンや不器用に接するショーン、そして超駄目パパの俳優等もいい。
授賞式の模様がYouTubeで見れる(An Cailin Ciuinで検索)
全114件中、101~114件目を表示