コット、はじまりの夏のレビュー・感想・評価
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髪をなびかせて
コットは、一言にまとめると陰気な子だ。冒頭、草むらに埋もれている白っぽい(正確には黒ずんだ)かたまりが彼女、とはなかなか認識できなかった。彼女は、いつもどこでも居心地悪そうにしている。誰にも気づかれない、人知れない悲しみが、外にあふれ出さないよう、おずおずとしているようにも見えた。
そんな彼女が、邪魔者を追いはらうかのように田舎の親類に預けられる。おば(正確には、母のいとこ)はやさしくコットに寄り添い、手を差し伸べる。自分をいたわり慈しんでいい、と彼女は初めて知ったのかもしれない。けれども、彼女をほんとうに大きく揺り動かしたのは、おじ(彼女の夫)のように思えた。
最初は無愛想で、関わりを避けていた(それには相応の事情があるのだが)彼が、次第に彼女に目を向け、情を感じていく過程があたたかい。悲しみや寂しさに沈みそうになる彼女を、敏感に感じ取りそっと掬い上げ、「足が長いんだから、きっと速い」と全力で走ってみるよう誘い掛ける。彼の言葉自体は素朴で、名言というわけではない。それでも、コットに語りかける姿そのものが、彼女への想いに満ちていて、心に沁みた。
おばが丁寧に梳きほぐした髪をなびかせて、コットが全速力で走る姿が忘れられない。所在なさげにうつむいていた彼女が、まっすぐに前を向き、自分の人生をつかみ取ったその瞬間。穏やかにきらめく木漏れ日や吸い込まれそうな水面、豊かな自然とその音が、物語に絶妙な効果をあげていた。時を経るとむしろ鮮やかに、思い返すほどに余韻がじわじわと心に満ちてくる。小さいけれど、豊かで広がりのある作品だ。
寡黙でも不器用でもいい、そこがあなたの居場所です。
主人公のコットを演じたのは、本作で映画デビューを果たしたキャサリン・クリンチちゃん。貧しい大家族で育ち、不遇な境遇のうちに心を閉ざしがちな寡黙な少女を透明感あふれる演技で好演!史上最年少の12歳でIFTA賞(アイリッシュ映画&テレビアカデミー賞)主演女優賞を獲得したというのだから素晴らしいですね。
コットは、ひと夏預けられた親戚の家で戸惑いながらも少しずつ心をひらいていきます。叔父叔母の不器用ながらも真実の愛に触れ、生きる喜びや自分の居場所を知っていきます。ラストシーンで待っている感動のその先は、私たちの余韻に委ねられます。
特別なサプライズや仕掛けがあるわけでもないのですが、なぜだか心揺さぶられ優しい涙が溢れ出すこと必死な良作です。お気に入りのシーンは、叔母さんがコットちゃんの髪の毛をとかすシーンと叔父さんとコットちゃんが郵便ポスト前でかけっこするシーン。
親子で、お友達と、もちろんおひとりで静かに…
ご鑑賞いただけるオススメの映画です♪
もし今作品を日本でリメイクするとするならば、叔父役は在りし日の高倉健さん、叔母役は倍賞美津子さんがよかったな…なんてついつい妄想してしまう…。年齢バレてます?!
素朴な中に煌めきがある。思い返すだけで涙ぐんでしまう
言うなればこれは素朴な物語だ。大家族の家長はギャンブルにうつつを抜かし、人に対する態度も最低。彼自身、己に愛想が尽きて、もはや開き直っているようにも見える。そんな多難な家庭に育った物静かな少女コットが、母の出産までの間、親戚夫婦の世話になることに・・・。きっと多くの観客は親戚夫妻を目にする瞬間、外見にほとばしる優しさと慈愛に心底ホッとし、ここからは人間の正の部分に目を向けた温かいドラマが始まっていくのだと予感するはず。現に夫婦とコットは次第に打ち解けあい、少しの言葉や表情だけで多くのものを察しあえるほどの愛情で結ばれていく。その過程を美しく彩る風土。光の角度。和解のお菓子。ポストまでのダッシューーー。やがて明らかになる過去も含め、本作は登場人物の内面を決しておざなりにせず、繊細に大切に描写を重ね、観る者の胸にジワッと感情を染み渡らせていく力がある。心のこもった贈り物のような素晴らしい作品。
寡黙な少女の目を通して描く家族とは、親子とは
1981年の夏、アイルランドの田舎町。育児放棄した両親の下で育った内気な少女、コットが、母親の妊娠を機に親戚の家に預けられることになる。コットを出迎えたのは子供がいないキンセラ夫妻。妻のアイリーンはケイトの髪を慈しむように櫛でとかし、夫のショーンは不器用ながらもコットと打ち解けようとしているのがよく分かる。
静かな農場、井戸、乳搾りetc、一夏、キンセラ夫妻と穏やかな時を過ごすうち、コットは初めて家族の温かみを体全体で味わうことになる。コットを演じるキャサリン・クリンチが瑞々しくて、少女の世界に自然に引き込まれていく。
なぜ、キンセラ夫妻はそこまでコットを可愛がるのか?夫妻の秘密とケイトの両親との対比によって、ままならない家族の有り様が浮かび上がる。ほとんど言葉を喋らないコットがそれに気づき、言葉にならない言葉を心の中で呟く時、誰もが涙を流すことだろう。
繊細さが全編に詰まったような本作は、主にドキュメンタリー映画をメインに子供の視点で家族の絆を描いてきたアイルランド人の監督、コルム・バレード。セリフの大部分がアイルランド語なのは、監督の実家では英語とアイルランド語が使われていたせい。コットに合わせて映画全体が静かなせいか、アイルランド語の響きが観終わってしばらく耳から離れない。
懐かしい記憶のような
GDPが世界二位で豊かになってしまったアイルランドの貧しさが残る1980年代初頭頃。
忙しく十分世話してもらえないコットが、夏の間親戚にあづけられる。
家に来て一番初めにしてもらうのは、お風呂に入り損ねてて汚い足を洗ってもらうこと。面倒見てもらうってそういうこと。ディテールが嬉しい。
daddy
素晴らしい映画
ラスト秀逸過ぎる
本当の父親が追いかけてくるラストで、父親が来てる!って警告だと思う意味での1回目のdaddyと、父親って呼ばせて!って意味だと思う、自分の中で心から叫んだ「おじ」への2回目のdaddy…
せつなすぎて自分も2人を抱きしめてしまいそうな感覚になりました
客席から思わず応援
父親の放蕩と貧しさ故に荒んだ家庭内で心を閉ざした少女コットが、ひと夏を親戚の家で過ごす内に夫妻の優しさに触れて少しずつ笑顔を取り戻すアイルランドのお話です。
この映画は本当に素晴らしかった。大きな出来事も起きず言葉少なな作品なのに、親戚夫妻の小さな行動の積み重ねで少女が少しずつ心を開いて行く過程が美しく可愛くそして切なく描かれます。アイルランドの森の緑や水の煌めきが美しく、そこを駆けて行くコットの姿に観る者の心も踊るのです。
このコットを演じたキャサリン・クリンチちゃんは本作が映画初出演だそうですが、本作でアイルランドのアカデミー賞では主演女優賞を史上最年少で受賞したという事に深く頷けます。単に女の子らしい可愛さと言うより、子供のみが有し得る悲しみや憂鬱が伏し目がちの眼差しから強く伝わるのです。ジイサンは、客席から「頑張れ、負けるな」または「よかったなぁ」と声援を送り続けました。
こんなお話、特に珍しくはないでしょうが、「映画はストーリーだけではない」「映画はまだこんな事を表現できたんだ」と改めて目を開かれました。
これは、「観ないと損」と言える作品です。
コット役の子役の演技に脱帽!
配信(unext)で視聴。
今年、見逃した作品で一番観たかった作品。
ストーリーは単純だが、なぜか胸が打たれる。
コット役の子役女優の演技が素晴らしかったし、ジーンときた。
コットにとっては素敵な夏だったんだなと観て感じた。
素晴らしい作品でした。
静かな少女
親に褒められるのがなんとなく照れくさくて嫌だった──というのがある。「おまえはできる子なんだから」と言われても、だいたい「そう言ってくれているんだな」ということが解るし、そもそもじぶんはできる子ではなかった。
だから心の中で「いや父さん(母さん)あなたは知らないだろうがね、おれはクラスでみんなからばかにされているんだ、父さん(母さん)が想像もできないほどみじめな子なんだ」と口には出さずに回答する。
機春秋を経て50代になったが何も成しえず離婚して低所得に生きているわたしを年老いた親はまだ「できる子」だと言ってほめるのだ。いったいいつできる子なんだろうね。
だけどもし親にdegrade=価値をおとしめられながら育っていたならどうなっていただろう。子供をdegradeしてはいけないのは常識だがそれを平気でやる大人がいて結局世の中には親に毎日degradeされながら生きている子供がごまんといる。
アイルランドの田舎、80年代初頭の設定。育児放棄な親に育てられた姉妹の一人が母親の妊娠を期に酪農を営む親戚に預けられる。そこで少女ははじめて人の愛情にふれるという話。
父親は飲んだくれで口からは嫌味か難癖か苦情しかでてこない。母親は辟易し厭世しながら台所でひとりで泣いているような受動タイプ、子沢山で家は貧困に支配されている。
コットはタイトル通りの静かな少女。意思をうしなったように何もしゃべらない。姉妹の中でも学校でも浮いた存在だった。
彼女が暫定里子として行った先は初老の夫婦がふたりで暮らしている。里母は慈愛に満ちコットを優しく迎え入れる。おねしょも叱らず、毎朝髪を梳き、新しい洋服を買ってあげる。
公民権運動の時代、南部を訪れた北部の白人が集落にいる黒人に声をかけると誰もがみな徹底してへりくだり、まともな会話にならなかったという逸話が残っている。白人の奴隷としてこき使われてきた黒人が、突如、君の身分はわたしと同じになったんだと白人に言われてもそれを実感できず、気分を害する態度をとれば何をされるかわからない──と警戒するのは無理からぬことだ。
ネグレクトの親から愛情豊かな親にあずけられたコットもそれと似たような状態だった。
人から優しくされたことのないコットの生硬が次第にほぐれ、自我が解放されていく様子が綴られる。
酪農家の父親は厳しいところもあるが恩愛があり、コットの寡黙に美点を見いだしてそれを褒め、またポストの郵便物をとってくる使い走りを日課に課す。コットはだんだんそれに夢中になる。息をきらせて取ってくると里父はそれを「前回のタイムを上回った!風のように速かったぞ」と言ってほめるのだ。
初めて人心地に触れたコットはすでに実家に戻りたくはないが、やがて時がきて引き戻される。コットは送ってきたふたりを──速く走ればどうにかなるかのように──走って追いかけ、里父の胸に飛び込んで「父さん」と言う。
どうにもならなくて胸がかきむしられた。
imdb7.7、RottenTomatoes97%と93%。
RottenTomatoesのコンセンサスは「脚本家/監督Colm Bairéadの驚くべきデビュー作である『クワイエット・ガール』は、小さな物語が大きな感動を残すことができるということを、見かけによらずシンプルに思い出させてくれる」というものであり、アカデミー国際長編映画賞(旧外国語映画賞)へのノミネートをはじめ多数の賞をとった。
Colm Bairéadの来歴によるとほとんどドキュメンタリーかテレビの仕事でこれが初長編映画。
映画ではアイルランド語が使われ、wikiによると『アイルランド語映画のオープニング週末興行収入記録を塗り替え、アイルランド語映画史上最高の興行収入を記録した。』とのこと。
英題The Quiet Girl、原題(An Cailín Ciúin)はその「静かな少女」をCatherine Clinchという映画初出演の少女が演じている。
オーディションするためにアイルランド語学校でその公募をしたそうだがプロデューサーたちはリールを見た途端すぐにこの子だと判断したという。
端正だが表情を制限されたような屈託があり主題にぴったりの子だった。
邦題「コット、はじまりの夏」には齟齬がある。どちらかと言えば夏ははじまらない。「コット、はじまりの夏」と言われたらひと夏の体験のような甘酸っぱさのある話を想像するが子供の生活環境を冷徹に描いた話と言える。
愛のお話
現在にも通ずる、普遍的なテーマが描かれていたと思う。
コットの実の家族は、彼女を愛していないわけではなかった。だけど、子供は、それだけで健やかに成長するわけではないのだろう。
実際、実の家族による不誠実さやネグレクトは、コットの学習能力の発達を遅らせ、気力を失わせていた。
コットが預けられた先での生活は、実の家族との生活とは違っていた。彼らは、質素だけど堅実に働いていて、相手を思いやり、穏やかに生活していた。
コットは、身体を洗い、髪を丁寧にとかれ、心を労られた。お菓子をもらい、文字の読み方を教わり、足の速さをほめられた。
そんなふうに、愛は育まれるのではないかと思った。
親ガチャ物語
「親ガチャ」最近で1番嫌な言葉
使いたくない言葉ナンバーワンなのに
分かりやすく使っちゃうあたし(嫌な人)
アイルランドの言語が英語じゃないんだね
え?と思っちゃった
最近英語が聞こえるようになってきて
映画を見る楽しみでもあったけど
…そんなことはどうでもいい
純粋に作品を味わった
子を亡くした夫婦の愛情深さをかみしめた
この家には秘密はないわ
とコットの精神が安定した頃
最大の秘密を知ってしまう
そこからの危うさが映画的に仕上がっている
あまりセリフのないコットがよく演技してて
農場や牛やルバーブの香りがした
静かで美しい物語
家族の中で孤独な少女が、一夏親戚の家に預けられ、自分の居場所を見付ける物語。すごく静かな映画。
アイルランドの美しい映像がとてもいいです。最後別れのシーンはグッときます。本当は親戚に引き取ってもらえたらよかったけど、現実的にそうもいきませんよね。。切ない。
でもきっとこの経験が少女の支えになってくれると思います。
良質な読書をして癒されたような気持ちになりました。
居場所
パンフレットにあったコルム・バレード監督のインタビューに、「ミツバチのささやき」(73)に触れている部分があって、さもありなんという気がしました。直接影響を受けたり、意識していたということではないそうですが、映像の質感や叙情的な雰囲気、そして大人になる前の少女の視点で描かれているところなどに相通ずるものが感じられました。「ミツバチのささやき」や「エル・スール」(82)のように、どのシーンも絵的に美しく、説明は最小限に留め、余白を想像にゆだねるカット割りがとても印象的でした。キャスティングもよかったですね。とりわけコット役のキャサリン・クリンチは、本作が映画デビューという等身大の初々しさが唯一無二の作品を生んだように思えました。似たような物語はたくさん観たことがあると思いますが、この絶妙なバランス感覚の心地よさは、なかなか出会えない貴重なものだと思います。オープニングの「え、何なの、この話は?」と引き込まれる感じから、エンディングの胸の奥に落ちてくる深い感動まで、本当に幸せな映画時間でした。ちなみに、パンフレットの仕上がりもとてもいいもので、作品をより深く知ることができました。
正直眠かった...
セリフが少なく、日々が流れていくように静かに穏やかに進んでいく...そして誘われる眠気...
櫛で丁寧に髪をとかしてもらうシーン、シェーンとの実の親子のような関わり、最後の走り出すシーンと抱擁、うるっと来るシーンはあった。
大人たちの、ありのままの姿が生々しくそのまま映っていて、それは子どもの視点からみるので少ししんどい所もあった。
全然内容を見ずに映画館にみにいって、「はじまりの夏」で季節的にもちょうどいいかななんて思っていたけど、スッキリ爽やかな感じの映画ではなかったかな〜
たった、数ヶ月
その数ヶ月に、夫婦は亡き人を思い出し、
コットは優しさを知る。
あの夫婦が絶妙で、
過剰に優しいわけでもなければ、
変にコットにしつけをするわけでもない。
ただ、それぞれがそれぞれのやり方で、
その人物と接したり、過ごしたりする。
その中で、互いの暗い部分が見えたりし、
暮らしの中で静かにそれを見つめ合う。
クッキーを思い出すだけでほかほかしてくるし、
ラストシーンはずるいずるいと思いつつも、
泣いてしまった。
疾走シーンに魅せられる
ギャンブルにうつつを抜かし、コットに辛くあたる父親。それを見て見ぬ振りの姉たち。学校でも先生から見放され友達もいない様子。一種の諦観を感じさせるコットの暗い目。映画は序盤から彼女の孤独と、なぜ寡黙にならざるを得なかったのか、その背景を丁寧に描き出す。それが親戚夫妻に預けられ境遇が一変するわけだが、必要以上の説明はしない。髪を梳き、熱い風呂に入れ、着替えを出してあげる。そうしたちょっとした行為からコットに注ぐ愛情の深さが感じられる。
最初戸惑っていたコットのその後の行動も然り。アイリンと共に井戸へ水を汲みに行く。その途中の青々とした草原。水面に映し出される二人の姿。ヴェンダースの「PERFECT DAYS」を彷彿させる美しい木漏れ日。これらの瑞々しい自然描写が、言葉以上に彼女の心の平穏を伝えてゆく。
一方、夫のショーン。最初無愛想だった彼が、さり気なくテーブルに置いたお菓子(食事のシーンが多いが、食卓のカットやこうした小道具の使い方は小津的)をきっかけに心を通わせ始める。二人して黙々と牛小屋を掃除したり、郵便箱までダッシュさせてタイムを計ったりする様は、実の親子のようで微笑ましい。特に「何も言わなくていい。沈黙は悪くない」という言葉は印象的。この言葉によってコットは人格を肯定され、初めて自分自身の“声”が持てたのだろう。だからこそ、ラストのあのひと言が強く観客の心に突き刺さるのである。
しかしながら、その後どうなるのかは我々の想像に委ねられる。余韻あるエンディングだ。また、コットを演じたキャサリン・クリンチが良い。透明感溢れる演技で、少女の覚醒と成長を表現していた。シンプルだが静謐な感動をもたらす作品だった。
救いがない
ほぼ注目していなかったが、隙間時間にぴったり入ったので観賞。
ヨーロッパ映画祭系は苦手なのでかなり不安だったが、まあまあだった。
ラストシーンでは涙も出た・・・・が、背筋を冷たいモノも走った。
あの追いかけてくる姿はターミネーターよりよほど戦慄させられる。
あのラストでは本当に救いがない。
心地よい疼痛が残るのは好きだが、これは胸が張り裂けんばかりだ。
こういうのがゲージツなのかな。
映画を観に行ってこういう気分になるのは私は御免被りたい。
ベースは嫌いじゃない。
ちょっとだけ西の魔女が死んだを想起させられた。
だが、バックグラウンドが深く掘り下げられず、もやもやした感が残った。
また、全体的に陰鬱な上に生理的に受け付けないやつも散見され、
エンターテイメントとは言えないと感じ私にはちょっと厳しかった。
こういう映画の割に(だから?)平日にもかからず観賞者多数。
最初から最後まで物音はほぼなく、
当然エンドロール終了まで席を立つ方はいなかった。
久しぶりに静謐で映画館にいること自体を楽しめた。
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