「美しさは影とともに。」コット、はじまりの夏 すっかんさんの映画レビュー(感想・評価)
美しさは影とともに。
◯作品全体
とても美しい映画だった。
「無垢」という言葉の持つ、静かで芯のある美しさ。それを体現する主人公コット、そして彼女を演じるキャサリン・クリンチの眼差しと所作。アイルランドの風景とその映し方、親戚夫婦・ショーンとアイリンのあたたかさ。
それぞれの美しさがまったく違う質を持ちながら、同じ画面の中で一つの作品をかたち作っていた。
ただ、今作の真価は「美しい」だけでは終わらない。
コットの人生に横たわる影の部分を、決してごまかすことなく映し出しているところにある。
序盤、家族や学校内での疎外感は、光源の少ない画面に象徴されていた。コットのまわりには人がいるけれど、誰ひとりとして理解者ではない。
彼女のために席は用意されているが、そこに「居場所」はなかった。
私は当初、この影が「ショーンとアイリンの家」というコットにとっての「光」を際立たせるための対比として機能しているのだろうと感じていた。
つまり、世界を二分し、ショーンとアイリンはただ優しく、ただ救いとなる存在として描かれるのだろう、と。
しかし、そうではなかった。
ショーンとアイリンの家にも、深い影があった。亡くなった息子という存在に触れようとするたび、彼らの優しさにもかすかな陰が差す。
冒頭、ショーンがコットに距離を置こうとし、アイリンとの会話もぎこちない空気を纏っていたのは、その影のせいだ。
また、コットが彼らの過去を知るきっかけとなる、近所の女性の存在も印象深い。彼女は単なる噂好きの人物にとどまらず、「美しい世界にも必ず影があること」を私たちに気づかせる役割を担っていたように思う。
コットに向かってアイリンはこう言う。「家に隠し事があることは、恥ずべきことだ」と。
けれど、当の彼女たちも、亡くなった息子のことを自らコットに語ろうとはしなかった。もちろん、コットが聞かなかったという側面もあるし、話さなくても家族としてやっていけると思っていたのかもしれない。
ただ明らかなのは、あれほど優しくしてくれるショーンとアイリンにも、触れたくない影があるということだ。その影の存在が、彼らをただの「善き大人」以上の、立体的な人物として浮かび上がらせる。しかもその影は、決して強調されすぎることなく、美しさと共に静かに同居している。バランスが見事だと思った。
そしてこの映画は、物語の構成そのものにも「影」がある。
もっと分かりやすい感動を作ることもできただろう。コットの無垢さと幸福感を前面に押し出し、まるでガラス細工のような繊細な作品にすることもできたはずだ。
けれど本作は、そうしなかった。無垢であるがゆえに本心を口にできないコット。親戚としての遠慮を超えて「一緒にいたい」と言葉にすることができないショーンとアイリン。そのもどかしさが、ずっと言葉にならないまま、物語の“影”として漂い続ける。
もし、誰かが泣き叫んだり、争ったりしていれば、もっと「ドラマ」にはなったかもしれない。でも、それではこの映画が持つ美しさは損なわれてしまうだろう。
言葉にできない想いこそが、物語の奥行きを作っていた。
ラストシーンは、本当に見事だった。
コットが自分の感情を初めて外に放ち、走り出す。ショーンはその小さな体を力強く抱きしめ、アイリンは静かに涙する。
そして、コットが父親を見て「パパ」と呟いたあと、ショーンに向かってももう一度「パパ」と囁く。この呟きと囁きを、声のトーンや芝居で表現していて思わず感嘆のため息をついた。あの瞬間、コットは自分の「居場所」があることを意識したのだろう。
コットのこれからなど、もはや蛇足でしかない。この映画はそこを知っている。だから語らない。それがわかっているからこそ、あのラストは完璧だった。
あまりにも静かで、あまりにも美しい。
◯カメラワークとか
・コットの記憶の断片のような世界の映し方だった。牛舎の屋根と青い空、草原と露草、車の窓から見た太陽と窓の汚れ。どこかで見たような景色でありながらコットだけの景色のようでもある。
◯その他
・コットの成長の映し方が本当に素晴らしい。わかりやすくしようと思えばいくらでもできると思うんだけど、自然と、生活の中で成長しているように見える。自然とショーンを手伝うし、自然とショーンと仲良くなってる。ある瞬間から手伝うようになるわけでも、なにかを言葉にして関係が進展するわけではないっていう、その自然な表現が見事だ。
・コット役のキャサリン・クリンチは本当にすごい。芝居の中にバリエーションが多すぎる。躊躇っていう芝居も山ほどあった。家族の中にいるときの躊躇はすこし陰鬱に、ショーンとアイリンにあったころはよそ行きのためらい、親しくなってからは踏み込むべきか真剣に悩んでいる目線を。数少ない言葉を発するときの、裏表のない素朴さ。すごすぎる。
・ショーンがビスケットをちょこんと机の上に置くアイデア。すごい。すごすぎる。
・一つだけ、「影」を担う大人たちの悪役感だけは少し鼻についた。「善人であれ」とは言わないけれど、ギャンブル中毒の父とか、もう少し人物像をどうにかできなかったのかなと思ったりする。「影」を背負わされすぎているというか。社会はそんなに甘くないというのはそうなんだけど、彼らにも救いがあってほしいと思ってしまった。