型破りな教室のレビュー・感想・評価
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教師と子供らのダイナミズムが感動を呼ぶ
いわゆる学園モノの映画で一人の教師と数十人の子供たちが本気のドラマを奏でる時、そこにはある種の作り物の演技を超えた、特殊な熱量が立ち込めていくものだ。ある時は指揮者に導かれたオーケストラのように見えたり、またある時は大海へ向けて漕ぎ出す船のようにも見える本作。従来の教え方を180度転換させる変わり者の教師役をメキシコの名優デルベスが演じ、対する生徒たちも真剣かつ純真な瞳を輝かせ知の探究へと足を踏み出していく。その姿を見るだけでワクワクするほどのダイナミズムを感じる。治安最悪エリアに暮らす子供らにとって、知識や学びは成績を上げる手段ではなく、むしろ彼らが現状を改善し、負の連鎖から抜け出す羽根となるもの。なおかつそれは義務ではなく彼らの権利であり、知の欲求を満たすことは究極の喜びにも等しい。これは単なる熱血映画ではなく、学びの意義が子供らの体内で脈々と根を張り、宿っていく様を尊く描いた力作だ。
「子供を国の歯車にする教育」との指摘に考えさせられる
紹介されているように実話に基づくドラマで、主人公の教師フアレスと、廃品回収業の父親を持ち数学の才能を発揮するパロマ・ノヨラは実在の人物。雑誌「WIRED」に掲載されたフアレスとパロマを取り上げる記事がきっかけになり、映画化の企画が立ち上がったという。哲学に興味を持ち図書館を訪れた生徒を哲学書コーナーに案内するスタッフの役で、パロマ・ノヨラ本人が出演している。
映画中盤、フアレスは校長先生とビールを飲みながら対話する場面で、メキシコの教育についてこんな指摘をする。学校は100年前から変わっていない。ベルを鳴らし制服を着せて、「静かに」「整列しろ」「手を挙げろ」を命じる。子供たちを国という機械を動かすただの歯車にする教育だ、と。
これは少なからず日本の教育にもあてはまる批判だと痛感した。もちろん戦前、戦中に比べて改善された部分も大いにあるだろうが、個性や自主性を伸ばすことより、型にはめて社会や組織のルールに従順な“常識人”に育てることを重視する傾向が根強く残っているように思う。自分の小学生の頃を振り返っても、「整列しろ」「手を挙げろ」と言われて何の疑問もわかなかったが、言われてみればそれも軍隊のように上の命令に下の者が従うというルールの刷り込みだったのかと、今さらのように気づかされた思いがした。
フアレス先生の理念が、教育や子育てに携わる多くの人に届くといいなと願う。
メキシコの厳しい現状
実話ベース&主演のエウヘニオ・デルベス(『コーダ あいのうた』の音楽教師役)が先生役という
ことが鑑賞動機です。
主人公フアレス先生と校長先生の関係性が徐々に熱い友情になっていくのが、すごく胸熱でした。
また、生徒のパロマ(実在の天才少女)、ニコ、ルペ、この3人にスポットを当てて
物語を進行させていき、この3人の学問への興味・向かい合おうとする姿勢が
フアレス先生との出会いによって変化していくところも、すごく胸熱でしたね。
ただ、メキシコという国の状態、それぞれの家庭環境、この国の文化、が、
なかなか教育・学問で素晴らしい成績をおさめたり、天才的な子どもがいても、
世に出ていくのが難しかったりするのでしょうね。
そういうことを思うとやるせなくなったりもしました。
でも、胸が熱くなる、すごく良い作品でした。
フアレス先生・校長先生をはじめ、子どもたちの俳優陣の演技も素晴らしくて、
良い映画を観たなあと、うれしく思いました。
こういう作品との出会いがあるから、映画鑑賞は楽しいですし、人生が豊になるように思いますね。
国境沿いの学び舎。
実話を元にしたメキシコ発の意欲作。ギャングが蔓延り、銃声が鳴り響き、通学路には死体が転がっている。そんな日常を生きる子供達。実在する国境付近の小学校を舞台に学ぶことの意味やその価値、そしてメキシコという国を生きる子供達の置かれた環境など、色々と考えさせられました。
全国でも最低レベルの小学校に新しい先生が赴任してくる。そしてカリキュラムそっちのけのまさに型破りな授業が始まる。初めは警戒心MAXだった校長も巻き込んで、眠っていた子供達の好奇心が刺激されてゆく。これこそが学ぶことの本質なのだと思い知らされる。
まるでドキュメンタリーのような授業のシーン。演技を越えた子供達の自然体な姿がとても眩しい。一方で日本ならまだランドセルを背負っている年代の子供が銃を手に大人達の小間使いとして消費されていくというメキシコの現実。どこの国であっても、未来を生きる子供達から学ぶことを奪ってはならない。
小学校を覗いていた男の子が印象的
教育を受けることができる環境は誰もが持っているわけではない。
小学校を覗いていた男の子が印象的でした。彼は裸足で荷車を引いて服も砂埃だらけで、きっと働いているのでしょう。年齢は低学年くらい。覗いているだけで小学校の生徒ではない。学校の内側と外側の対比にもなっているのか、教育を受けること、学校に通うことができること自体が恵まれている側なのかもしれない。善き教師との出会いって、ほんとうに子どもの将来を左右するほど大切なことですね。子どもの笑顔にこちらも笑顔になりました。
25-008
熱血教師どらまだが、サッカーもラグビーもしない
アメリカとの国境に近いメキシコの貧民街で、最底辺小学校に赴任した教師が、全国学力テストもカリキュラムも無視して子供の「学びたい」という気持ちを喚起し、結果としてテスト結果を全国トップレベルに押しげたという実話に基づくお話です。
最底辺校 x 生徒は学習意欲ゼロ x 熱血教師 と言うと日本のドラマでは子供らをスポーツに導くか、勉強ならば東大を目指すというのが常道ですが、そうした目に見える結果ではなく「学びの喜びを感じさせる」を目的としていると言うのが本作のミソです。ただ、ここでの「最底辺校」と言うのは日本ドラマの「荒れた学校」などという生易しいものではなく、街で銃声がしても道端に死体が転がっていても日常の景色として人々が通り過ぎて行き、子供ら自身も犯罪に手を染める凄まじさなのです。
「三角関数が一体何の役に立つの?」という子供らの問いは、ノーベル賞受賞者に対して「それは何の役に立つのですか?」と問う貧困なる精神のマスコミにもそれは通じると思います。役に立とうが立つまいが「どこが面白いのですか?」を問い、「こんなに面白い」を解説する事が先生やマスコミに求められる務めなのだと思います。
教育が一番大事でしょうよ!!
アメリカとメキシコの国境の町、マタモロスの小学校で
子どもたちは麻薬や犯罪と隣り合わせの環境で育ち、
教育設備は不足、教員は意欲が無く、学力は国内最底辺。
そんな小学校に産休教師の代替えとして
赴任してきた教師ファレスは
今までと全く違う型破りな授業をすることで
生徒たちの中にある可能性を引き出し、
やがて全国トップの成績を上げるまでになったと言う
「実話」を元に制作された本作。
実話の重みと、教育の大事さがひしひしと伝わってくる。
年の初めに観るに相応しい映画だと思います。
映画館でぜひぜひ!!
で、月に8回程、映画館で映画を観る中途半端な映画好きとしては
いや〜〜〜〜〜。
子供たちの可能性に賭ける映画ってうまく行けば、
大きなカタルシスなんだけど
そこへ行くまでのハラハラドキドキが切ないくらい辛い。
もうちょっとでうまく行くのに、もうちょっとで人生が開けるのに
親の無理解、世間の反応、悪い仲間等々、
第三者として観てると、もう切なくて歯がゆい〜〜
教育が何よりも一番大事でしょうよ!!
去年から「ホールド・オーバーズ」とか
「リトル・ダンサー」とか子供と教育の映画を観るたびに
子供の可能性を潰さない大人でいたいと強く思う。
私に子供はいないけど、それだからこそ、
教育現場の方々へ敬意を表したい。
良かった!
貧困と犯罪と死体が、身近にある学校のお話
バッドエンドもハッピーエンドも起こるお話。
貧困と犯罪と死体が、日常生活の身近な所にある国の、小学校教育のお話。
そういう国では、生徒の為に、良いと思われる授業をしても、
比例して、必ず良い結果が出るわけではない、という現実を突きつける内容だが、
最後は報われる部分もあって、本当に救いになった。
考えてみれば、日本にもそういう時代はあった。
結局、教育は大人次第なのだ。
子供たちは、出会う大人によって、良い方向にも、悪い方向にも行く。
主人公の教師フアレスは、決して万能な先生ではない。
生徒たちに全力で寄り添う、素晴らしい先生だったが、
予期せぬ悲しい出来事も起こった。スーパーマンではないからこそ、
先生も生徒も傷つく。
でも、だからといって、諦めてしまっては、良い方向には進まない。
結局、教育は大人次第なのだ。
大人の責任は、諦めてはいけない事なのかもしれない。
親ガチャに外れた子供達に希望を与えるべきか
「親ガチャ」という言葉を聞くようになって久しいが、この映画は親ガチャ、もっというと環境ガチャ、国ガチャにも外れた子供達と、その子供達にユニーク名授業で希望を与えようとする教師の話だ。
「デブとマッチョではデブの方が水に浮くのは何故か」
この一見シンプルな問いにわかりやすく答えられるのは大学生でもそう多くはないのでは無いだろうか。主人公の教師は非常にユニークな方法で生徒達に自ら考えさせるよう導いていく。期待もされず、未来もなく、ただテストの点さえ最低限とれればいいと言われて死んだような目をしていた生徒たちが生き生きしていくのは見ていてぐっとくるし、観客の学習意欲も刺激される。
インド映画の「スーパー30」とも似ているが、あちらは親がまだ子供に家族の分までしっかり勉強させようという意欲、よりよい未来を生きて欲しいという願いがあったのに対して、こちらの親たちはそろいもそろって子供達に「学習させる」意欲すらない。
麻薬や銃などの取引に関わる反社勢力を家族に持つ子供、
ゴミ拾いを生業にわずかなお金でその日暮らしをしている親の子供、
弟と妹の世話を任され長女がヤングケアラー状態なのに、さらに一人増やし学校に行かせず赤子の世話をさせようとしている親の子供、
彼らは親ガチャ、家族ガチャに恵まれず、希望も見いだせない生活をしている。主人公の教師は勉強さえすれば未来は開けると言い聞かせるが、果たしてやみくもに希望をみせるのは正しいことなのかという疑問も投げかけられる。個人の努力だけでは親ガチャ、環境ガチャを超えられない人もいるからだ。むやみに希望を与えて失望しても、教師はケアなんてしてくれない。生徒達の親も、おそらくは自身の親や環境に恵まれず人生を変えられなかった人たちなのだ(まあ、そもそも自分の子供にちゃんと勉強させられない環境で子供を作るなよ、と思うが・・・)
映画は事実を元にしたフィクションだが、そこでもすべての生徒が努力によって「報われる」わけではない。努力するスタートラインにすら立たせてもらえない生徒もいる。現実はもっとひどいかもしれない、しかし努力をした先にほんのわずかでも未来をつかめる子供もいて、やはり教師とは子供に希望を与えられる職業であって欲しいと思うのだ。
様々な事情を抱える生徒が自分で考える力を育むことが大切だって教えてくれる今だからこその佳作
日本じゃ無理そうだなぁ
好奇心こそが!
モチベーションの持たせかた
「学び」の豊かさの映画
<1月12日 修正しました>
(注)このレビューは、「個性の芽を摘む日本の小学校」等の文脈で、この映画を他人に勧める方々に対して、否定的な立場であることをお断りしておきます。
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冒頭でお断りした通り、「個性の芽を摘む」とか、「画一的」とか、この映画を引き合いに出して日本の学校現場を語ろうとされる方々は、どんなリアルを見てそうおっしゃっているのかと残念に思った。
また、この作品を「一人の型破りな教師が、型破りな方法を用いて実績を上げたことを描いた映画」ととらえ、「翻って日本では…」と思われたのだとしたら、少しお聞きいただきたいことがある。
本作は、「型破りな教室」というタイトルだが、決して日本においては、フアレスのような教室運営は型破りではない。もっというと、子どもの探究を中心に据えた授業は、明治後期や大正期から存在し、脈々と受け継がれてきていた。そして今、VUCAの時代と言われ、文科省の学習指導要領自体が、「教えから学びへ」と学校教育のシフトチェンジを進めている中で、ご自身が受けた経験(中にはそれで大変傷つかれた方もいらっしゃるかもしれないが)をもとに、批判されているのだとしたら、ぜひ、今現在の身近な学校現場のリアルを知っていただければと思う。
確かに、未だにチョーク&トークの教室も無いとは言わないし、高圧的な価値観が中々改められない者もいる。だが、多くの日本の教師たちは、いかに子どもたちの意欲を引き出すか、いかに現実と学問的内容とを結びつけて実感させるか、真摯に毎日毎時間その問題に向き合いながら、実物や実感を大切にし、子どもの問いを引き出す工夫を考え、目の前の多様な子どもたちと向き合っている。
私が目にした、この映画を使って日本の教育を否定的に語りたい様子の方は、現場の教師は上から(教育委員会や無理解な親など)の圧力で苦しんでるといったニュアンスを漂わせて、教師批判を避けようとされている節も感じられた。しかし、申し訳ないが、それでは逆に無能呼ばわりされている思いがしてしまう。教師は、もっと自律的な立場にあり、授業の進め方も扱う教材も個々に委ねられている専門職であることを知っていただきたい。だから、授業の進め方は一人一人の教師によって全く違うし、子どもたちが違えば、同じ教師でも全く違う進め方をするものだ。決して、誰かに言われたことを言われた通りにこなす訳ではない。
それを踏まえて強調したいのは、この映画の素晴らしさは、特別な教師や特別な才能を発揮した子どもにあるのではないということだ。
パロマが、全国トップにならなかったとしても、全体の10%の子がトップクラスの成績を取らなかったとしても、この映画の描いているものの素晴らしさが色褪せるとは思えない。
テストの点は、ある種の観点から測ろうと試みる知識や理解などの限られた能力の評価に過ぎないからだ。それに対して、いわゆる「非認知能力(やる気、忍耐力、協調性、自制心など、人の心や社会性に関係する力)」は、点数では簡単には測れない。
この映画の素晴らしさは、そうした非認知能力の高まりも含めて、「学び」そのものを描いていることにある。
金八先生やGTOなど、教師に視点を当てたドラマはこれまでもいくつかあったが、それらは、どちらかというと「勉強よりも大切なものがある」というのが、一つのメッセージになっていた。それに対して、この映画は、NHKドラマでしばらく前に放送されていた「宙わたる教室」と同様に、「学ぶ」ということがいかに素晴らしく、いかに豊かで、そこには人の尊厳に関わった、優劣を超えた意味があるのだということを、全編に渡って描き切っているところが素晴らしいのだと私は思う。
そして、その「学びの素晴らしさ」の事実は、皆さんが住まれている町の、公立小学校の日々の授業の中でも、絶えず生まれ続けていることを知って欲しい。
もちろんフアレスは素晴らしい教師だし、共感する点や学ぶべき点もたくさんある。
・教えることよりも、子どもたちが自分で学びとることに絶対的な価値を置いているところ。
・子どもの意欲に火をつけたと思ったら、勇気を持って子どもたちの学びを信じるところ。
・けれど迷って、教室に戻りかけるが、やっぱり信じることを決断したところ。
・子どもたちが質量という概念にたどり着き、思わずうれしくなって公式を教えてしまうというところ。
・そうした自分の取り組みに自信満々というのではなく、悩みながら実践を重ねているところ。
…等々
フアレスは、子どもたちに「君たちから多くのことを学んだ」と素直に言える立ち位置に自分を置いているからこそ、子どもたちはフアレスに励まされ、自らの手で学びの世界を広げていったのだろう。同時に、そうした彼の関わり方が、彼ら彼女らの生活環境という側面において、正しかったと言えるのかと自問するところにとても共感した。
(実際の日本の小学校教師たちも、このフアレスのように、子どもたちが見せる自ら獲得した学びの喜びの姿に元気をもらいながら、様々な理由で課題を抱える子どもたちや家庭と、悩みながら向き合い続けている)
学び続けた結果の子どもたちの描き方も、素晴らしかった。
あの教育長に傷つけられたニコを救う、クラスメイトの連帯感は、真の意味で共に学び合っている仲間だからこそ生まれてくるものだ。
あのシーンだけで、あの教室は、個々の違いを大切にした対話的な学びの授業を、日々積み重ねてきたことが読み取れる。
それにフアレスは、遅刻に厳しい点も含めて、一人一人を伸ばすだけでなく、学級集団としての社会的な指導も疎かにしていた訳ではないことが、忘れずに描かれているところもよかった。
という訳で、私にとってのこの映画は、観た人と「学ぶことの素晴らしさ」や、「人が持つ可能性」について語り合いたい映画だ。そして、残念ながら、そうした「学び」の場に身を置けない子どもたちが少なからずいる現実に対して、どういうアクションをとっていけばいいのか、とって行かれることは何か考え合いたい映画でもある。
その文脈の上に立って「すべての教育関係者や親」に観て欲しいと私は思っている。
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