瞳をとじてのレビュー・感想・評価
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今でも映画は奇跡を起こせるか
ビクトル・エリセ監督の久々の長編作品。「ミツバチのささやき」の日本公開から約40年、前作「マルメロの陽光」からも約30年たち、突然の新作発表ということで、まず驚いた。忘れていた懐かしい名前を思い起こされたような感じ。 冒頭の映画内映画から、屋内の二人での会話シーンが静かにゆったりと続き、つい眠気に襲われる。含意のあるセリフが続くが、ところどころ聞き飛ばしてしまった。しかし、後半、探していた友人らしき人物がいると知らせが入ってからは、一気にサスペンスフルになり、登場人物の一言一言、ふるまいの一つ一つに目と耳を集中させるようになる。 編集者のマックスが「ドライヤーが死んでから、映画の奇跡はなくなった」といったことを言うが、ラストの映画館のシーンは、ゴダールの「女と男のいる舗道」でアンナ・カリーナがドライヤーの「裁かるるジャンヌ」を観ながら涙する、あの有名なシーンを思い起こさせる。 今、この時代でも映画は奇跡を起こすことはできるのだろうか。エリセ監督は、この作品でそう問いかけている気がする。しかし、この作品にアナ・トレントが出演し、あの決定的な一言を口にするということも、十分に奇跡的なことだと素直に思える。 ただ、前半の冗長さと後半のやや性急なところをうまく中和させて、作品全体として調和したトーンになっていれば、大傑作となっていただろうに、と残念な気持ちもある。
またこれもある意味未完なのか
エリセの新作 映画館で観れる アナが出る 震えた 映像詩人の作品は感想が出そうで出ない 理屈は無くただ好き でも全作品観てるわけでもない 私的オールタイムベストNo.3の『ミツバチのささやき』 『エル・スール』(エンディングに物足りなさを感じてたら未完だったと後で知る) 『マルメロの陽光』(冒頭数分で挫折してそれきり) 『ライフライン』(チクタクチクタク 良い) 海辺の村に帰ったシーンで右に画面がスライドする場面 デジャブ感があった あぁ自転車で駅についてホームで待つシーンの手法だと家についてから気付く エリセは今までの自身の中で叶わなかった創造の産物を集大成させたように思う そしてアナを“5歳のアナ”に引き戻して、少しでも時間を取り戻してあげようとしたのかなと思う オマージュで覆いつくす晩年になってのクリエイト作品は郷愁をもたらすけれど 正直それは私の求めているところではない でも今の御年で出来うる限りの 一つの長編作品を生み出した ただエリセ本人が本当にこの物語で満足しているのか問いたくなる感じだった
ロードムービーのようなミステリーのような…
俳優が失踪し映画が未完になり その俳優の行方を追うサスペンスのようなミステリーのような映画。 行方を追う過程でスリリングさというのは あまり強く感じず 穏やかに思い出をたぐるように行方を追っていく感じが心地よく 世界観に入り込みやすかった。 自然と、登場人物たちと一緒に俳優の姿を追っているような感覚になった。
人生後半の旅路
とてもいい。/それにしても、終わりの余韻よ。カウリスマキ『枯れ葉』とかもそうだが、老境に差し掛かった映画監督が人生を振り返って作る作品の美しさと言ったら。/劇中劇の奇妙さは、人生そのもののチグハグさ(多くの人はそうよね)の象徴か。
ひとつの映画という時の流れにシンクロする神秘体験
この日のために、今日は何も予定を入れず、一日二人で過ごしました。 二人で旅した神島にて何かを暗示するかのような神秘体験があり、その翌年に金神社にて結婚し、新婚旅行は久高島へ。 以来、28年の歳月という記念日に、わたしたちの思春期である学生時代の頃に一生の思い出となる映画を同時体験しており、そのひとつが #ミツバチのささやき だ。 そして、今日、そのビクトルエリセ監督の新作 #瞳をとじて をこの日に観ようとなった。 内容はよく知らないまま観たけど、当然映画は映画としてよかったことはもちろんのこと。 わたしたち二人にとって、やはりこの監督とアナトレントも、同じ時を経ており、そうした時間的な距離感、同時代体験など、日本とスペインという地理的距離感もゼロで、シンクロしまくったのでした。 舞台も、わたしたちが局面している高齢者介護施設だったり、親と子の特別な想いや感情、時代の流れ、すべてが重なる。 それをまた、映画を通じて深く体験させられました。 その後、実家へ寄り、金神社へご挨拶しに。 旧正月以来の初詣として、おみくじもここで初めてひきました。 新しい一年、どうぞよろしくお願いします、と。
ビクトル・エリセ「瞳をとじて」至福の169分でした。退屈するところ...
ビクトル・エリセ「瞳をとじて」至福の169分でした。退屈するところなんて全くないです。ただ劇中映画のラストは好きじゃなかったな。
色々考えさせられた作品
ビクトル・エリセ作品は初見だが、初見でも過去作品のキーワードがシーンごとに出てくるので問題ない。 こんな作品もありなんだと唸らされたし考えさせられた。素晴らしい作品を観る事が出来感謝。 ただ、時間はやはり長いし、30年前に公開した時の世界と今の世界は違う。ビクトル・エリセには今何を伝えたかったのかラストにメッセージを残して欲しかった。垣間見る事はできなかったのは残念。 2024年ベスト洋画作品にはあがるだろうし、私は候補に入れたい。 人生と老いについても考えさせられた作品でも ある。
カルテの記録が人生のすべてじゃない
すべてに余韻を残す描写。 観るものに、想像させる感じ。 完成しなかった作品だったのではなかったか? どこが完成なのかは、わからないけれど、とにかくハテナが多すぎる(笑) わたしだけ? かなり長時間に感じるので、時間の余裕、大事かも。
「映画による奇跡」をめぐる葛藤の行方
失われた記憶をめぐるこの物語は、「映画による奇跡」を信じながらも、そのような期待を自らに禁じる者たちによって語り継がれる。
失踪し記憶を失った元俳優が住み込みで働く高齢者施設の一室で主人公がタバコを吸う。
施設のシスターがドアをノックした途端に慌てて火を消し、灰皿を引き出しに隠し、窓を開けて煙を手で煽いで逃す。
部屋に入ってきたシスターは顔色ひとつ変えずに反対側の窓を開ける。
一見すると物語とは無関係なこの一連のシークェンスが実に素晴らしい。
柔らかな照明、無駄のない什器、充実したアクション。
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舞台は1947年、タイトルは『別れのまなざし』という設定の映画内映画から上映が始まり、過去・老い・記憶をめぐる物語が語られていく。
失踪し忘れられつつある俳優。亡くなった仲間や息子のこと。去ってしまった恋人や妻。
数十年ぶりに見つかった元俳優の記憶は失われている。
記録媒体の主流がデジタルに置き換わっても残されたままの膨大なフィルム。フィルム編集技師が戦利品と主人公に得意げに語るのはニコラス・レイ『夜の人々』の16mm。映画監督をやめて作家に転じた主人公の小説のタイトルは『廃墟』だ。
手のひらサイズの『ラ・シオタ駅への列車の到着』の登場で一層明確に告白された映画史への愛は、主人公と隣に住む若者にハワード・ホークス『リオ・ブラボー』の挿入歌を歌わせることでもっとも幸福に表現される。「ライフルと愛馬と私」。
1973年の『ミツバチのささやき』での面影を残すアナ・トレント(皺がとても美しかった)が精確に『ミツバチ』での自身を再演する。「私はアナ」と「瞳をとじて」呼びかける相手は記憶を無くし別人として生きる元俳優の父であり、あのフランケンシュタインだ。
記憶を無くしている元俳優に、失踪直前に撮影した出演作のラッシュフィルムを見せることで何かが変わるかもしれないと期待する元映画監督と、「ドライヤー亡きあと、映画が奇跡を起こすことはない」と断言する件の編集技師の葛藤は、映画を愛し続けながらもその緩慢な死を敏感に感じとっているに違いないビクトル・エリセの葛藤そのものである。
閉館した映画館(館主が語る思い出は、近所で撮影されていたマカロニ・ウェスタンだ)でラッシュフィルムを見る元俳優は、ジャン=リュック・ゴダールの『女と男のいる舗道』でカール・テオドア・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』を見て涙を流すアンナ・カリーナだ。
このラッシュフィルムの上映で奇跡が起きたかどうかの判断は観客に委ねられたまま、瞳はとじられ、映画は終わる。
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被写体とキャメラの距離感が『ミツバチ』や『エル・スール』のそれと異なり、とても近い。それぞれのシークェンスにおいてショットが切り替わるたびにキャメラが被写体に寄っていき、役者の顔に刻まれた皺が際立ってくる。
この皺は、物語の中で過ぎ去った時間(元俳優が失踪してからの数十年)の経過によるものであると同時に、瀕死の映画産業が積み重ねてきた歴史でもあるだろう。
「最初は美しい芸術に囲まれて働くのが嬉しくて仕方がなかったのに、いまは退屈になってしまった。大げさかもしれないけれど」。プラド美術館のガイドとして働くアナ・トレントのセリフは印象的だ。
過去・老い・記憶をめぐるこの物語は、映画による奇跡を信じつつ、そのような淡い期待はもはや捨て去らねばなるまいと自覚する者たちの物語であり、そのような者たちによってこれからも語り継がれていくのだろう。
劇中映画「別れのまなざし」
瞳をとじて 神戸市内にある映画館「シネ・リーブル神戸」にて鑑賞 2024年2月13日(火) スペイン生まれの映画監督、ピクトル・エリセの31年ぶりの長編映画「瞳をとじて」 背景 劇中映画「別れのまなざし」は1947年という時代設定。 スペイン内戦(1936年-1939年)で台頭、軍人フランシスコ・フランコによる独裁政治となっていた。政治的抑圧、閉鎖経済政策がおこなわれ国民は困窮した。本作は内戦後の混乱が続いているスペイン社会を描いている。 「ミツバチのささやき」に当時5歳で主演に抜擢されたアナ・トレントが、50年ぶりに同じく“アナ”の名前を持つ女性で出演したことも話題に。 ------------------ ストーリー 劇中映画「別れのまなざし」 冒頭部分 邸宅「悲しみの王(トリスト・ル・ロワ)」にはヤヌス像があり、ユダヤ人ミスター・レヴィ(Mr. Levy)とフェランが住んでいる。 フランク(フリオ・アレナス(ホセ・コロナド))を呼んだ。フェランは高齢となり、行方不明となった娘ジュディスを探して連れてきてほしいと依頼する。 今は母と共に上海に住んでいて「チャオ・シュー」と名乗っている。写真を差し出すと扇子を使って視線を強調する舞踊のポーズ「上海ジェスチャー」をしている。 ------------------- 劇中映画「別れのまなざし」の撮影中に、主演俳優フリオ・アレナス(ホセ・コロナド)が失踪した。当時警察は、近くの崖に靴がそろえられていたことから投身自殺と断定。結局、遺体が発見されることはなかった。22年が過ぎたある日、元映画監督でフリオの親友でもあったミゲル・ガライ(マノロ・ソロ)は、事件の謎を追うテレビ番組「未解決事件」の出演依頼を受ける。 --------------------------- 番組プロデューサーのマルタ・ソリアーノ(エレナ・ミケル)はミゲルに取材する。 海軍の兵役で出会った、マドリードで再会した。若いころの二人の写真がある。フリオが好きなポジションは、ゴールキーパー。彼と私は第2級の受刑者でした。 逮捕の理由は?「治安紊乱罪と、扇動罪および不法集会罪です。当時のよくある罪状だ。フリオは無関係だったが、私と同居していたので連行された。」 マルタはフリオの娘、アナ・トレント(アナ・アレナス)に取材を申し込んだが断られてしまったと言い、アナの電話番号をミゲルに通知。 アナはミゲルと喫茶店で再会「父が生きてる夢を何度か見た。」 番組の終了後、「フリオによく似た男が海辺の施設にいる」という思わぬ情報が寄せられる。「未解決事件」を見たと、ベレン・グラナドス(マリア・レオン)から、プロデューサーのマルタへ連絡があった。ベレンはとある老人介護施設に勤務している女性だった。 ---------------------- 深夜バスに乗ったミゲル。とある海辺に面する老人介護施設に向かう。 それらしき男がいるという。修道女シスター・コンスエロ(ペトラ・マルティネス)は、行き倒れた男を「ガルデル」と名ずける。よくタンゴを歌っていることから。 確かにその男はフリオのようだ。ただフリオは、記憶喪失の状態であることがわかった。 ミゲルはしばらくこの施設に滞在することにし、施設のシスターたちも合意。二人だけの時間となった。 ガルデルが、古いタンゴの曲を口ずさむと、ミゲルはその続きを口ずさむ。ガルデルは喜んだ。 ペンキ塗りの仕事があると、ミゲルはそれを手伝った。 水兵時代に習ったロープの結び方をやってみせると、ガルデルもそれはできる。 ------------------------- そんなある日、ミゲルはアナを再び呼び寄せて、父であるフリオが寝ている部屋へひとりで向せる。シスターたちとミゲル、ベレンはそっと見守っている 「私はアナよ」・・・「私はアナよ」・・・ 記憶が戻らず返答はない。 静かにそう言うのが精いっぱいであった。 ミゲルにはひとつの案があった。「別れのまなざし」の後半を上映しようと企て、記憶が戻るのではないかと仮説 マドリードに戻りたいというアナを引き留める目的もあった。 -------------------------- 保管している親友マックス・ロカ(マリオ・パルド)に連絡し、「別れのまなざし」のフィルムを送ってもらう。 施設の近くに、最近閉館された映画館があり、そこで上映されることになった。 映画館の支配人はアナとガリデルは最前列の席に並んで座るようにしたのは「親子」の関係だからである。 シスター二人、ベレンとマルタが後ろ座席に並んで座った。 そうして「別れのまなざし」(後半)が始まったのである。 邸宅「悲しみの王(トリスト・ル・ロワ)」に向かうフランクとジュディス(チャオ・シュー)をフェランに見せるためである。 フェランは面会を果たすことができたのだがフェランは病で瀕死の状態 フェランは布切れを取り出し、花瓶の水を使い湿らせて、娘のチャオ・シューの顔を拭う。化粧が剥がれる。素顔が見たいんだろう。 そこで倒れてしまい、死んでしまう。父は目を開いたままであったが、チャオ・シューはやさしく父の顔に手を当て、目を閉じた。 あまりにもかなしいフランクとチャオ・シューがそこにいる 「別れのまなざし」上映終了 「瞳をとじて」上映終了 -------------------------- 感想 スペインの映画 ピクトル・エリセ監督の作品「みつばちのささやき」「エル・スール」 楽しませてもらえたことに心から感謝します。 ムーチャスグラシアス! 大岸弦
上海ジェスチャー
「記憶」の物語だった。 「記憶」をたどり親友を探す作家(監督)、「記憶」を無くした俳優、父親によい「記憶」のない娘、人々の「記憶」を呼び起こそうとするキャスター、「記憶」は大切だが想いを持って生きていると熱く語るドクター、映像の「記憶」をフィルムと残す編集者、これから新しい「記憶」を作っていく夫婦、昔の「記憶」を頼りに人探しを依頼する王…その「記憶」が治ったフィルムが上映されることで、過去の「記憶」から未来の「記憶」へと繋がっていく。そんなことを感じながら、瞳を閉じず鑑賞しました(๑˃̵ᴗ˂̵)雨のシーンが多かったのには何か… ①L-10
映画愛!
今年はウディ・アレンの「サンセバスチャンへようこそ」もそうだったが、老境の映画監督が「映画愛」を全面に描いて、さらに自らの人生の再検討をしている作品に出合う年のようだ。本作も、エリセ監督の「もうひとつの可能性ある自らの人生と映画についての決着」を描いたように思える。 物語は、失踪した友人でもある俳優フリオを探すミゲル監督のロードムービー的な、仕立て。しかし、31年も映画監督としてのブランク、さらにデビュー作のヒロインだったアナ・トレントが、「ミツバチのささやき」の役名と同じアナとして出演するという、スクリーンに描かれる虚構が現実と合わせ鏡のようになっている。 さまざまな名作映画への目配せやオマージュ、そしてデジタルなんかじゃなくて「フィルムであることが必須」という思い。閉鎖したフィルム上映の映画館でのクライマックス。エリセ監督の「映画の葬送」に思えてならない。
31年振りの作品と言われるけれども…
ヴィクトル・エリセの作品がタイムリーに見れるとは、何という僥倖か!まさに「生きてて良かった!」と声高に述べてもおかしくないと思う。それほど期待を裏切らない素晴らしい作品だ。ここ数年に於けるベストな作品を鑑賞したと言っても過言ではない。現実世界での169分ではなく、エリセの作品の中に埋没し、旅する169分なのだ。時間軸は作品の中にあり、過去に遡ることで未来が現れて、自分の思い出を遡ることによって未完成の映画が完成する。そこに現実世界でのエリセのセルフ・オマージュも重なり、彼自身のこれまでの時間が溶け込み、これほどまでに美しい作品が生まれたのだ。エリセにとって31年の時は余り関係なく、彼は常に「今」という時を過ごしているようだ。アナが登場した時、正直なところ、涙が溢れた。成長した姿ではあってもアナはアナなのだ。リップサービスのような「ソイ・アナ…」の台詞にも込み上げて来る熱いものがあった。エリセの時間を共有出来た喜びは私の宝でもある。余りにも思い込みが激しくなってしまった感想だが、致し方ない。私の素直な心情をここに吐露した結果である。
魂を呼び戻すもの
余命いくばくもない「悲しみの王」と呼ばれる男が、最後に自分の娘に会いたいと切望し、ひとりの男に捜索を依頼する。
男は上海で撮られた娘の写真を手にし、屋敷を出ていく。
と、実はこれは未完成に終わった映画のワンシーンであることが明かされる。
捜索を依頼された男を演じたフリオが、撮影の途中に姿を消してしまったのだ。
それから20年、その映画の監督だったミゲルは、『未解決事件』というドキュメンタリー番組のディレクターであるマルタの依頼でインタビューを受けることになる。
何故フリオは失踪したのか、事件に巻き込まれたのか、自殺をしたのか、それともまだ生きているのか、何一つ分かってはいない。
フリオの娘であるアナは完全に父を過去の人間として忘れ去ろうとし、インタビューにも答えなかった。
女性絡みのスキャンダルなのか、それとも老いていく自分と向き合うことが出来なかったのか、様々な憶測が飛び交う中、ミゲルは真相を知るために映画のフィルムを保管しているマックスや、元恋人のロラのもとを訪れる。
これはまず大切な人間を失ってしまった者の喪失感と向き合う映画であると思った。
後にミゲルには家族を失った過去があることも分かる。
人はいなくなっても、誰かの記憶に残る限り、その記憶の中で生き続ける。
そしてフリオは未完成ながらフィルムの中でも永遠に生き続けるのだ。
と、同時にこれは過去ではなく今と向き合う映画でもある。
ドキュメンタリー番組が放送された後に、意外な形でフリオの居場所が明らかになる。
彼は記憶を失い、高齢者施設でシスターたちに囲まれて細々と暮らしていた。
ミゲルはすぐに彼のもとを訪れるが、フリオが彼に向ける視線は完全に見知らぬ他人に対するものだった。
その姿にミゲルはショックを受けるが、彼は強引に自分が彼の友人であったことを明かそうとはしない。
まずは彼のそばで生活し、今の彼の姿を受け入れようとする。
二人が記憶の中にあるタンゴの歌を歌うシーンはこの映画の見所のひとつだ。
父親の無事を知らされたアナは、やはりすぐにはその事実を受け入れられない。
ましてやフリオにはアナと過ごした記憶もないのだから。
何とかフリオの記憶を呼び覚ましたいミゲルが思いついたのは、彼に未完成の映画を観させることだ。
フリオは20年も映画で使われた娘の写真を持ち続けていた。
クライマックスの映画館でフリオがフィルムに映る20年前の自分の姿を見つめるシーンは感動的だ。
同時に観客も冒頭の映画の結末を観届けることが出来、二重の感動を味わう。
結果的にフリオの記憶が戻ったのかは観客の想像力に委ねられる。
おそらくビクトル・エリセ監督は映画の持つ力をこの作品で伝えたかったのだろう。
映画は人の魂を呼び戻すものであると。
上映時間は長めではあるものの、終盤に向けての求心力が凄まじく、あっという間に時間が過ぎてしまった。
そして『ミツバチのささやき』のアナ・トレントが、同じくアナという役でスクリーンに映っていることに感動した。
エリセ監督の復讐?
前情報なく鑑賞したもので、オープニングからの流れは「映画館間違えたのかな?」と確認してしまいました。 本作は約3時間と冗長で、無駄な情報も多く、前半あそこまで長回し使って後半そんなに端折るか?など疑問符もつく出来栄えです。でも、それは人生も同じ。無駄なことや、間違いがあって味わい深くなるものです。映画を愛するものとして、どんな映画にも寄り添っていきたい。ポジティブに観たいと思っています。 前半の薄暗いイメージから後半のスペインの海沿いの風景が目が眩むようで良かったです。トマトを紡ぎながら、魚を採り、犬と暮らし、音楽とともに眠る主人公は羨ましい。演じている方も、相応のお歳ながらセクシーな演技でした! エンディング、ちゃんと語らないのはエルスール未完になってしまった監督の世間への復讐かな?と思ったり思わなかったり。 長い映画でしたが、味わい深い人生のようで、観て良かったです。
映画への思慕
ビクトル・エリセにはフリオのモデルとなる同士がいたのでしょうか。それともフリオはあの埃をかぶったフィルム映画そのもの?監督が過去に対して何かしらの懺悔とお別れをしている様にも感じました。また、アナログ映画の想いも詰まっていました。冗長なので好みが分かれる作品です。
欧州映画らしい
作品紹介を読んで、男の失踪を追うミステリー要素のありそうな展開に興味を引かれて観賞。 でもちょっと違った・・・ 【物語】 舞台は1900年代のスペイン。 マドリードのあるTV局の“未解決事件”を取り上げる番組で、22年前に映画撮影中に主演俳優が突然姿を消した事件を取り上げる。 その映画の監督であり、いなくなった人気俳優フリオ・アレナス(ホセ・コロナド)とは戦友の関係でもあるミゲル(マノロ・ソロ)が番組制作者に呼ばれる。ミゲルは取材に協力し、番組に出演し、フリオと過ごした青春時代と自らの半生を振り返る。 番組の終了後、「フリオによく似た男が老人施設にいる」という情報が寄せられ、ミゲルはすぐに駆け付ける。 【感想】 全体を通じて言えるのは、欧州映画らしい、情緒感溢れる作品であること。 ただ前半は、(これも欧州映画に良くあるパターンだが)延々と登場人物2人が同じ場所で話し続ける会話劇。これが、どうも俺は苦手で段々息苦しくなってしまうし、今回はこちらのコンディションが良くなかったこともあって、ウトウト・・・ 後半、フリオの噂を聞いたミゲルが施設に駆け付けるところから急に物語が動き出して、やっとスクリーンに入り込むことができた。 作品紹介などを読んでミステリー作品的な展開? と思ってしまったが、 そういう作品ではなかった。本作はスペイン映画だけど、フランス映画とか好きな方にはスンナリ入って行ける作品だと思う。 逆にハリウッド映画のような刺激強めの作品をお好みの方には向かないかな。
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