「もう二度と観られない巨匠作を是非に」瞳をとじて クニオさんの映画レビュー(感想・評価)
もう二度と観られない巨匠作を是非に
ほとんど神格化された「ミツバチのささやき」1973年、日本公開1985年の作品自体そして監督ビクトル・エリセご自身も。果たして映画監督と呼んでいいものか悩ましい程の寡作家。もとより本当の寡なのか、撮りたくても撮れない状態もあれば、本当に31年ぶりに新作をここ数年で作ったのか、30年間費やして作ったのか? 真実が見えないから余計に神がかってきた。
「ミツバチのささやき」をいったいどれだけの日本人が鑑賞したのでしょう? 念のため調べたら一部の有料配信で観られる現況、アマプラでは2500円支払っての購入しか選択肢がない。そして正直に言いましょう、クレイジーな程の映画鑑賞ですが、私は(まだ)観ておりません。岩波ホールを頂点としてごく一部の単館系での公開だったはずですから、チャンスがなかったと言い訳しておきます。
よって人生初体験のビクトル・エリセ監督作品を映画館のスクリーンで鑑賞したわけです。重厚かつ静逸な雰囲気を覚悟したもので、失踪した俳優フリオを求めての意外やミステリー仕立ての口当たりの良さに驚いた次第。フリオを探す映画監督ミゲルが本作の主役ですが、明らかにエリセご自身を重ね合わせているでしょう。失踪により映画制作が中断したまま20数年、物書きとして湖口を凌ぐ設定。全編を覆うのは映画への愛おしい程の情景が匂い立つ。デジタルとかの映画を取り巻く環境激変への軋轢から、カール・ドライヤーの名まで出しての映像への追憶、そして「ニュー・シネマ・パラダイス」1989年よろしくフィルム映写室を登場させ映画を慈しむ。
撮影途中で主演男優が失踪で、カギとなるのが撮影済みのラッシュ・フィルムとなり、編集者マックスが保管していたフィルムが本作後半の主役となる。そもそもラッシュなのに、クライマックスでの上映では編集も音入れもなされているのはちと不思議ですが。なにより本作冒頭で始まるのはフランス郊外の古城の所有者である老人の依頼を受けた中年男の登場である。正面からフィックスで撮ったような舞台様式で始まる静寂のドラマは、緊張感を維持しミステリアスに包まれ、やがてバストショットの切り替えしとなり、肝心の人探しの要件が明かされる。怪しげな中国人の執事と言い、中国人とのハーフとなる美少女を上海まで探しに行け! と展開されれば「インディ・ジョーンズ」かと期待が膨らんでしまった。示された少女の写真の妖艶なこと! 時1947年の設定ですから無べなるかな。依頼を受けた男が館から出てくるショットで、画面は止まる。「この撮影の後主演役者は失踪した」とモノローグが入り、映画の二重構造が明かされる。
戦後の混乱期の上海での探偵ごっこはお預けとなった代わりに、テレビ局からの「未解決失踪事件」への出演依頼に繋がり興味は途切れない仕掛け。もとより、冒頭の「悲しみの王」は果たして本作の入れ子構造のための映像なのか? ひょっとするとエリセが以前に撮りだした別作品のラッシュだったかも知れない。これを活かして本作を構築した可能性もあるわけで。いよいよもってミゲルがエリセと重なる構造。
ミゲルが動き出し、映画としてのベクトルも明確となり、関係者への聞き込みが続く。切り返しの連続が続き単調に陥ったきらいはあるものの、マックスとの会話シーンでは流石の描写を紡ぎ出す。ソファに座ったマックスと立っているミゲルとの視線が合わないカットバックが続く、まるで噛み合わない会話のように。実はマックスの座ったソファのすぐ後ろにミゲルは立っていた訳で。劇中映画が起承転結の「起」となり、マドリッドでの調査が「承」となり、ミゲルの現在の住まいに移動しての海沿いのミニ・コミュニティが「転」となるが、ここのシーンが実に心地よい。多分スペイン南部の地中海の大海原が望める景勝地での平和な暮らし、ここで遂に「フリオ」の消息情報がもたらされ、一挙にクライマックスの「結」に突入する。ボルテージ爆上がりです。
しかし、そんな簡単に明かされない「結」です。そもそも本作のタイトルからして、ラッシュ・フィルムを見せられた失踪者本人であるフリオは静かに瞳を閉じて映画は終わるのですから。いじわるかも知れませんが、この余韻も佳きものです。果たして映画により記憶喪失の復活と言う奇跡は起きたのでしょうか? ご丁寧にエリセはヒントまで観客に用意していました。冒頭の劇中映画の館の庭に据えられた「ヤヌスの像」は、エンドタイトルでも延々と全体像とアップを繰り返される。ローマ神話の出入り口と扉の守護神で、前と後ろに反対向きの2つの顔を持つのが特徴の双面神。だからどうなの? なんて聞かないで下さい、各自の解釈で十分で、決めつけられない多様性の社会なのですから。
それにしても「ミツバチのささやき」に当時5歳で主演にした純真無垢な少女アナ役を演じたアナ・トレントが、同じ役名でフリオの娘として本作に登場の事実に驚愕しても、本作にとって何の意味も持たないわけです。これを以って妙な解析は馬鹿馬鹿しい限りと思います。
多分、次作は望めないわけですから、是非ご鑑賞をお薦めします。