「ミツバチの遺言」瞳をとじて かなり悪いオヤジさんの映画レビュー(感想・評価)
ミツバチの遺言
ビクトル・エリセも今年で84歳、おそらく本作が遺作となることだろう。本人もその点は十分承知の助で、この『瞳を閉じて』を通して映画人生の集大成をやろうとしている。が、困った点が一つだけ。なにせ半世紀以上のキャリアの中で本当の意味で完成にこぎつけた長編作品は『ミツバチのささやき』の1本だけなのだ。次作『エル・スール』はプロデューサーに後半1/3をカットされ、本作におけるエリセの分身であるミゲル同様、本人の中では未完成作品のままなのではないか。エリセと同じく反フランコの立場をとり佳作を連発し続けているアルモドバルとは正反対なのだ。
『エル・スール』後は短編制作やドキュメンタリー作品にも手をつけてはいるが、それ以降31年間の長きにわたって沈黙を守り続けていた映画監督なのである。実をいうと私はビクトル・エリセの過去作を観たことがない。本作がビクトル・エリセの初体験で、かつおそらくは最後となることだろう。この映画、何十年もメガホンを握らなかった監督の言い訳にもなっているわけで、“静謐の魔術師”の異名をとるエリセにしては、かなり饒舌な作品に仕上がっている。
『ミツバチ』撮影中実在のフランケンシュタインを相手にしているとすっかり信じこんでしまったアナ・トレントが、失踪した映画俳優の娘役で登場している。記憶を失った父親に向かって「私はアナよ」と囁くシーンは『ミツバチ』のオマージュだそうだ。が、セルフオマージュ作品として本作を成立させるためには絶対数が足りなさすぎる。そこで苦肉の策として盛り込んだのが、ニコラス・レイの『夜の人々』やハワード・ホークスの『リオ・ブラボー』等のマイ・フェイバリットだったのだろう。
日本の映画監督溝口健二についての論考を書いたことでも知られるエリセだけに、(劇中あまり効果は発揮していないものの)溝口お得意の水平移動カメラを随所に発見できる。要するに、自らの映画人生を映画で語る時、他人のふんどしで相撲をとらざるを得ない、それほど寡作の人なのである、エリセは。映画全体の構成(&辿った経緯)がテオ・アンゲロプロスの壮大な失敗作『ユリシーズの瞳』とクリソツなのも気になるところ。
映画内映画『悲しみの王』のラスト・シーンで、中国人ハーフ少女の無垢な眼差しをカメラ目線で映し出すエリセ。批評家連中の心ない突っ込みを拒絶するズルい演出をして見せている。その無垢な眼差しで見つめられた我々観客は、記憶を失ったフリオ同様にやはり瞳を閉じて(心を無にして)、エリセの数少ない過去作品に思いを馳せるのだろうか。ていうか実際、瞳を閉じたら映画を観ることができないんですけどね。