瞳をとじてのレビュー・感想・評価
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ビクトル・エリセの31年振りの長編映画は、ある種の軽やかさが魅力だ...
ビクトル・エリセの31年振りの長編映画は、ある種の軽やかさが魅力だった。自分の映画撮影中に失踪した映画俳優を探す旅に出る。そのきっかけを与えるのは映画ではなく、テレビ番組である。ネットの登場でテレビすらすでにオールドメディアだが、ビクトル・エリセは、映画とテレビのこの半世紀近くの関係になんとなく想いを馳せているのだろうか。 主演俳優の謎の失踪は、主人公の心の巨大な穴となっている。失踪の理由という大きな謎を推進力にして縦糸を、主人公の人生を横糸をつむいで映画は1つの人生をしっかりと映し出していく。老境にさしかかった人の人生を描く作品だが、どこか涼やかな印象を与える作品だったのが良かった。 『ミツバチのささやき」のアナ・トレントが出演していることが大きな話題となっており、そういう点でこの映画をエリセ監督自身の自伝的作品と見る向きが多いようだ。そう見てもいいし、そう見なくてもいいと思うが、もっと開かれた見方をした方が楽しめるように個人的には思う。 映画は「見る芸術」だが、映画作家を描く作品に「目を閉じる」とタイトルというのも洒落っ気があっていい。心地良余韻に浸れる作品だった。
寡作の巨匠の半生が投影された優美な大作
ビクトル・エリセ監督の長編第2作「エル・スール」(1983)は、当初予定されていた後半の撮影が製作トラブルにより実現しなかったという。第1作「ミツバチのささやき」(1973)で主演に抜擢したアナ・トレントを本作で再び重要な役で登場させ、「ミツバチ~」と接点のある台詞を語らせたことも考え合わせると、この第4作「瞳をとじて」は寡作の巨匠が自らの映画人生を投影した作品であり、主人公ミゲルが元監督であることと映画内映画の存在によって本作が「映画についての映画」であることも強調されている。 映像は滋味深く、作中の時間がゆったりと流れ、ミゲルが親友のフリオ探しを通じて過去と記憶をたどる旅のストーリーもゆっくり進行する。本編2時間49分は、心身に余裕がないとあるいは冗長に感じられるかもしれない。体調などを整えた状態で鑑賞していただければと思う。 フリオの持ち物の中に、「三段峡ホテル」と印字されたマッチがあり気になったが、検索したところザ・シネマメンバーズというサイトの「ビクトル・エリセの31年ぶりの長編映画『瞳をとじて』に仕掛けられたものとは」と題されたシネフィル的な充実ぶりの記事にエリセ監督と三段峡ホテルが実在する広島との関わりなどが紹介されていた。ほかにも本作をより深く味わう鍵になるトピックが解説されているので、興味のある方はぜひ記事の題で検索してご覧いただきたい。
長い旅路のようで、一瞬のまばたきにも感じられる重厚なドラマ
エリセの初長編『ミツバチのささやき』に、とある映画が効果的に登場したの同じく、31年ぶりとなる今回の新作長編でハッとさせられるのはやはり映画内映画という構造だ。20年前、主演俳優の失踪によって未完のままとなったらしいその映画。主人公の映画監督ミゲルは今、かつての記憶や証言を手繰り寄せながら、親友でもあった俳優フリオの消息を探し求めるーーー。169分の凪いだ海をゆっくりと漕ぎゆくかのように美しく丹念に紡がれていく本作。長らく新作を発表していないミゲルの状況はどこかエリセ自身と重なる。そして過去のエリセ作品が時を経てもなお登場人物のまなざしを透き通るほどの純真さで投射し続けるように、未完成の映画もまた、20年後の彼らに訴えかける。おそらくエリセにとって映画とは、観る者が自らを投じることで深く結実していくもの。ふと私の脳裏に『ミツバチ』のアナが瞳を閉じて純粋に思いを捧げようとする姿が蘇ってきた。
父娘再会
エリセ監督作品に共通するのは、
作品内にて劇中劇というか映画が上映され、
画面が映しだされることだろうか。
本作でも冒頭とラストに『別れのまなざし』が上映される。その監督が主人公である。
ミゲルが手がけた作品撮影中失踪したフリオ。
作品お蔵入りで監督も辞め文筆業で暮らす日々の中、TV出演した後、似た人物がいるとの
知らせを聞き確かめに行くと本人と確信。
高齢者向けのホームで、
シスターや周りの人々に見守られながら、
得意とする修理の仕事をし、僅かながら
小遣いも得て静かに暮らしていた。
記憶を取り戻させようと、
海兵隊時代の写真を見せたり、
懐かしい歌を一緒に歌ったり、
娘のアナを呼び寄せ、
フリオの最後の出演作を上映もする。
主演したから何か思い出さないかと。
ラスト、感動的な場面で締めくくり❗️
前作2作と同じく、
記憶喪失して行方わからずになった
フリオが何を表すのかを考えたら、
あのフランコ政権下での凄惨な状況かと
考えてしまう。
言うに言えない政権下の国内を表し、
南北の分断による家族の離散苦悩があり、
政治的主張をしなくてもまきこまれ、
精神的苦痛を受けたが為に、
自分がわからなくなってしまう程の
酷い仕打ち。
記憶が無いフリオも、
瞳を閉じれば、
まざまざと思い出してしまうのか。
画像は、映画の中の娘役、
チャオ•シューになっている。
名前を変えないと生きていけない
その国の事情も然り。
過去ではない今現在も続いている苦悩を
表したかったのだろうか。
ただ、あの穏やかなホームの様子は、
現在の平和に向かいつつある国内を表し、
映画の中でもあるがごとく、
父と娘の対面は、
これからの希望を表していると考える。
また修正するかも、です。
不遇な中でも、なお友情を忘れない美しさ
<映画のことば> 私は生涯の親友を失った。 あの映画もだ。 結果としては、完成途上の監督作品を葬られてしまったとしても、ミゲルがフリオに注ぎ続ける友情には並々ならないものがあったのだと思いました。 それは「瞳が閉じる」まで(死がお互いを分かつまで)続くようなものだったのでしょう。 ときに、世の父親というものは、多くは(息子はともかく)娘を見捨てることは、金輪際できないという心情が、心の奥底のどこかにはあるー。 評論子の単なる主観かも知れませんが、そう思っている父親は少なくないと思います。 現に、「探してほしい。私を無垢な瞳で見られる人間は、この世に一人しかいない。あの子だけだ。」と告白して、娘シャオ・チーの捜索をフランクに依頼した悲しみの王の言葉は、それと同じ心情の発露だったのだと、評論子は受取りました。 そして、ミゲルが、フリオか記憶を呼び戻すことを娘との再会に賭けたのは、世の多くの父親のそういう心理を応用してということに外ならなかったのでしょう。 しかし、そうまで思いを込めて対峙した当のフリオがミゲルを見たのは、「別れのまなざし」(製作が頓挫してしまったミゲルが監督していた映画の題名)にすぎなかったという、その悲哀。 最後のシーンで、ガルデル(フリオ)が、あたかも静かに記憶を呼び覚ますかのように、ミゲルの手になる『別れのまなざし』を観ながら、静かに瞳を閉じるシーンが印象的でした。評論子には。(邦題は、そこから来ていたのでしょうか。) 真実(真相)は、瞳をとじて深く念じた時に想い起こされるものなのかも知れないとも思いました。評論子は。 佳作だったと思います。 (追記) <映画のことば> 記憶はとても重要です。 でも、人間はそれだけでなく、想いを抱えて、何かを感じながら生きている。 やはり大切なのですね。 人が生きていく上では、人の「記憶」というものは。 そして、その記憶の一切を無にしてしまう自死ということの無意味さということにも、改めて思いが至りました。 近頃に観た作品では『インサイド・ヘッド』『インサイド・ヘッド2』が、彷彿とされる作品でもありました。 そして、本作が長尺にわたるのは、ミゲル監督の過去の体験・人間関係、回想などの描写に多くのシーンが割かれていることによるものでしょう。 確かに、ここまで事細かに描写することには賛否の両論があり得るとは思いますけれども。 人は、誰しも年齢を重ねるごとに、連綿と続く自らの過去(記憶)を踏まえて「今」があることに思いを致すと、細かい描写ゆえの長尺=悪作の評価は、必ずしも当てはまらないのではないかと、評論子は思います。 (追記) 映画というものへのオマージュに溢れた一本でもあったと思います。 本作は。 「監督」「俳優」など、いわば舞台設定が映画の世界であるほか、ミゲルが、おそらくは子供の頃からの宝物として保管してきた小箱の中には、映画の父・リュミエール兄弟が1895年に制作した「ラ・シオタ駅への列車の到着」のパラパラ画がありました。 世界初の映画で、蒸気機関車が駅のホームに近づいてくる様子を記録した映像で、観客は列車の突進に恐怖して逃げ出したとのことです。 (追記) <映画のことば> 今は映画をデータで保存。 だか映画の歴史の9割以上はフィルムに焼きつけらるている。 どうすりゃいい。 これを全部メモリーカードに? フィルムは、もう用なしだ。 こんなにあるのに「閉店」はしたくない。 稼げる仕事じゃなかったが、どうにもならない。 フィルムに興味のある人もいる。 だが、映写機を持っていない。 まさに、映画産業の遺物だ。 俺たちと同じように。 映画がフィルムで撮影されていて、それゆえにスクリプターという役回りが映画の撮影には不可欠だったと世代は、どうやら評論子の世代あたりでおしまいのようです。 かつては映画の撮影現場では、撮影内容を記録する専門職が置かれていて、「スクリプター」と呼ばれていました(エンドロールでも、「撮影」「照明」、「録音」などと並んで「スクリプター」として紹介されていたりもしました。) 俳優の立ち位置や衣装の小物の変化まで細部にわたり記録に残したり、撮影した内容も細かく記録し、前後のカットで俳優の動きがつながるようにチェックする役回りということです。 令和の今のように映画の製作がデジタル化され、それゆえに現像所に現像に出してみなければ撮影内容の細部は分からなかった往時とは異なり、デジタルカメラで、現場で(フィルムを現像するまでもなく)すぐに撮影内容が確認(再生)できるようになった今は、必要のなくなった役回りということになりそうです。 評論子が入っている映画サークルに、かつてはスクリプターをしていた女性と結婚した会員さんがいたので、その仕事内容について直接にお聞きする機会がありましたが、いち映画ファンとしては、とても興味深いお話でした。 もちろん、彼女は映画が好きで映画製作の世界に入った方なのですが、スクリプターになってからは、プライベートでは、映画を観なくなったと聞きました。 「えっ、今のはシーンが繋がっていなかったじゃない?」とか「いま、俳優の立ち位置が微妙に変わっていなかった?」とか、客席で観ていてもはてなマークばっかりが出て、ちっとも映画のストーリーそのものを楽しめなくなってしまったからだそうです。 そんなことが仮にあったとしても、気づかずに何の気兼ねもなく映画そのものが楽しめることは、案外、幸せなのかも知れないとも思い直しました。
世界を閉ざすことでしか、生きられない
私も若かりし頃『ミツバチのささやき』に心射抜かれた一人。 主人公アナの眼。心に刺さったままです。まさか新作をエリセ監督が撮られるとは。静かな驚き。期待して本作を観ました。 なんというか、心が苦しくなってしまう。 思えばこれまでの作品にもうっすら同様なものが流れていましたが... 繊細なのに、王様。 真に純粋なものにしか理解し得ない、そうでない者からは理解しようとされることすら拒んでいる、さらにそれが極まって現在に至る、とでも言いましょうか。 人間と人間が関わるということは、世界と世界が出会うということ。あるいは交わらず、永遠の境界線、自分という確固たるシェルターの中に入り込み、世界を守り通すか。 唯一、我が娘だけは世界と交われるかもしれない、一縷の希望。 でもそれを、本当に男は望んでいるのか? 戦争やら、社会で仕事をして稼いでいくことや、家族を持ち父親となることや、世に何かを生み出し功なり名を遂げることなど、息苦しいことの連続。 瞳を閉じて、世界を閉じて、私が私である場所に逃げ込んで、誰も侵せないところにいなければ、どうやって生きていけましょう。 愛が欲しいけれど、それは繋がりというしがらみや囚われも、必ず連れてくる。 瞳はこじ開けられ、世界には誰かが入ってきて、関わりは摩擦を生み、消耗し、悲しみや苦しみが生産される。 日本もかつて戦国の世から鎖国によって太平の世を得たように、一人の人間も一つの世界なら、閉じることでしか平穏は得られないのかもしれません。 日本はその後開国し、また戦争、原爆投下までの惨劇となりました。それでもアメリカや他国との関わりを必死で繋いでいる。それも生き抜く道です。 瞳を閉じて(失踪、記憶喪失)しか生きられなかった男・フリオ(ガルデル)と、閉じたくなりつつも必死で開けようともがく男・ミゲル。 真逆のようで、どちらも人間の姿。 そして監督自身が生きて感じてこられた、私たちに伝えたかったことなのかもしれない。 劇中劇の「悲しみの王」は死の間際、生き別れの娘に辛うじて再会し、震える声で唄いかけます。 可愛い娘よ、海に向かって身を投げないで。 娘も泣きながら唄います。 私も一緒に連れていって。私を愛から救うために。 わかりやすい言葉では伝わらないテーマを、いつも撮ろうとしている。映像で伝えようとしている。眼が伝える力。監督はそれを信じているのだと、この映画でも感じました。
ビクトル・エリセ監督、素晴らしい‼️
あの『みつばちのささやき』が1973年だったから、あれから約50年経って、またもや映画史に残るような映画を作ってしまうビクトル・エリセ監督、素晴らしい‼️ 冒頭で“悲しみの王”というテロップと、キングを両側に掘ったような石像が映されて、「1947年、秋」から物語は始まる。 (いかにも王様風な)貫禄のある老人が「わしの命は長くない。上海に行って、14歳になるはずの私の娘を探して来てもらいたい」と、屋敷にやって来た男に依頼する。 更に老人は言う。「私のことを無垢な気持ちで見てくれるのは、この娘しか居ない。死ぬ前に会いたい。」と… すると、「この俳優はフリオ・アレナスというのだが、映画『別れのまなざし』が完成する前に失踪した」との説明あり、幻の映画になった作品のワンシーン風景だった。 時間軸が「2012年、秋」に飛び、幻の映画を撮っていたミゲルが失踪事件を扱うTV番組に出演して俳優フリオ・アレナスのことを証言する。取材協力するミゲルがフリオと過ごした青春時代、そして老境に入った頃を丹念に描いていく作品となっている。 この映画が見事なのは、幻の映画『別れのまなざし』と現実の風景がクライマックスで重なり合って表現されるところ。 この劇中劇から始まって、現実の世界を描きながら、クライマックスで多重構成のような盛り上がりを見せる2時間49分🎥✨ 素晴らしい映像と物語を堪能して、至福の時間であった✨
感傷の処理について
ビクトルエリセの(ドキュメンタリーや短編を除いた)三作目の長編映画、とのこと。ミツバチのささやき(1973)、エルスール(1983)、そして本作(2023)という寡作ぶりだった。 あらすじは──、20年以上前映画撮影中に失踪し行方知れずになった主演俳優フリオ。 その映画を監督したミゲルが未解決事件を扱うテレビ番組に出演したところ、記憶喪失になり別人として暮らしているフリオが見つかる。 記憶がもどるかもしれないという一縷の望みをたくして映画上映会が行われる。──というもの。 記憶がもどるかもしれないという一縷の望みをたくして映画上映会が行われる。──のは感傷的なので、感傷に落ちないような工夫が見られた。 ところで感傷とは── ①物事に感じて心をいためること。 ②すぐ悲しんだり同情したりする心の傾向。また、その気持ち。 と、辞書に書いてあった。 先日の都知事選(2024/07/07)で二大巨頭に食い込んだ無党派の候補者がいた。 その人物に興味をもったのは国際子ども平和賞というオランダの財団が主催する式典で受賞(2022年11月)した日本の女子高生のスピーチにでてくるからだった。 『(中略)けれども39歳の市長が居眠りをする議員に向かい『恥を知れ』と叫んだとき、日本はまだ変われる、わたしはそう思いました(後略)』 この一節が指し示す「市長」が東京都知事選へ出馬し、結果二位の得票をしたのだ。完全なゼロベースからたった一ヶ月で古狸をおびやかし女狐を翻弄してみせたわけである。 じぶんは女子高生のスピーチを切り取り動画で見たに過ぎないが、当初「立派な市長がいるんだな」という感想を持った。 しかし彼の街頭演説を聴いたり情報を得るたびに印象は変化していった。 すなわち「感傷」とは、まるで青年の主張のような『(中略)けれども39歳の市長が居眠りをする議員に向かい『恥を知れ』と叫んだとき、日本はまだ変われる、わたしはそう思いました』という一節を聞いたときの、一時的な感動のことである。 その時点におけるヴィジョンは、無気力に対して真っ向からたちむかう正義感だった。 たとえばグレタがどんな子供か知らずに、環境破壊にたいして「how dare you」と言って怒っているところだけを見た。──ならば、子供ながら大人の愚行に痛憤している様子に一時的な感動を覚えるだろう。 そのような刹那的な、よく解っていないままに感じ入ってしまうことが「感傷」である。 じっさいに人物を知るほどに、第一印象は崩れ去る。むしろとんだくわせものじゃねえか。ということになる。 謂わば、その知るという行為を端折って(はしょって)美しいままの第一印象を信じ続けることを「感傷」というのである。 つまり感傷とは真実を無視した態度のことだ。 川っぺりムコリッタや波紋や彼らが本気で編むときは、を見て、わたしが言いたかったのは「これは感傷ですよね、いいんですか?」ということだが、なにしろそれらをつくったのは日本の代表的な女性監督だった。 なにかと戦っている雰囲気が好きな左翼記者の妄想を映画化し2019年の国内映画賞をそうなめした新聞記者や、可哀想な境遇が露骨なエクスキューズ(言い訳・弁解)として用いられるはるヲうるひとも感傷だ。 感傷とは真実やその相当性がなく、海に向かってばかやろうと叫ぶような決着のことだ。「これは感傷ですよね、いいんですか?」という以前に「ベタすぎますけど、いいんですか?」と言いたいような「泣いた赤鬼的短絡」のことを感傷というのである。 映画は感傷的ではダメだ。なぜダメかというと、ウソだから。 たとえば波紋には震災、放射能、悪徳宗教/宗教二世問題、高齢化社会、高齢者の犯罪、障害者への忌避感、介護問題、ゴミ屋敷などの現代疾病が羅列されているが、いったい誰がそんな累々たる因果を負っているのですか?新聞記者には政府の陰謀が描かれているが誰が虐げられているのですか?──という話である。 日本に不幸がないと言っているのではなく、これらの作者は毎日おいしものをたらふく食べ、爆弾の落ちてこない屋根の下、ふかふかのベッドで眠っている──にもかかわらず、波紋や新聞記者のような誇大なアジテイトを書いて、じぶんの箔付けと謎の問題提起をしているわけである。そういうクリエイターのうさん臭さのことを感傷と言っているわけ。 わたしたちは誰もが苦労して生きている。しかし絶望や恐怖は体験が裏付けるものであり、クリエイターならばなおさらだ。見たことがなければゲルニカは描かない、という話である。 感傷についてくどくどと説明したのは、この映画が感傷に落ちない工夫がされているから。映画は感傷に落ちない工夫がされていなければいけない。たぶん絶対に。 50年間で三作、だてに寡作なわけではないと思った。 批評家にも好評でカイエデュシネマ誌やエスクワイア誌やエルムンド紙の2023年ベストに入ったが、批評家の褒め方がなんとなくおっかなびっくりという感じなのは、おそらく169分という長さの徒然によるものだろう。この映画は批評家のリテラシーの試金石になってしまっている感があり、RottenTでも絶賛系のレビューは少なかったが個人的には退屈しなかった。 映画は記憶喪失のフリオに映画を見せるが感傷を避けるためその結果は見せずに終わる。 映画中映画である「別れの視線」は探偵役フリオ(José Coronado)に娘捜しの依頼をする邸の主人のシークエンスだが、この邸の従僕らしき中国人の描き方は、けっこう紋切り型だった。──ことが一点気になった。 ちなみにフリオが(記憶喪失で)発見されたとき持っていたという持ち物のなかに日本の広島にある三段峡ホテルのマッチがあった。 imdb7.3、rottentomatoes95%(オーディエンス評なし)。
かくほ長き不在の、言い訳を!!
寡作・・・そして、
31年ぶりの新作映画は169分の長編。
確かに長い。
凄く退屈したか?と言われるとそうでもないが、
5回に小分けして30分毎に小休止を入れていたので、
映画館で観てたらどうだったのかは、分かりません。
ただ主役のミゲル役のマノロ・ソロさんが、素敵な初老の男性で、
役所広司を3時間見ていても苦痛でないと同様に、イイ男。
あとは詩的なフレーズや装置・音楽が80歳過ぎの監督、
ヴィクトル・エリセさんにしては若々しくて、
小洒落てるんですね。
最初に描かれる未完の映画「別れのまなざし」
この映画のテーマである、主演俳優のフリオが完成を待たずに
失踪したことにより頓挫。
ミゲルの監督キャリアも終わってしまう。
このたった2本の映画を撮って、引退したミゲルは、
ヴィクトル・エリセ監督の分身で、このミゲルに、
撮れなかった長い言い訳を担当させて、
「それから・・・執筆、釣り、野菜園、やってました的に、」
失踪したフリオも監督の分身ですね。
ただ惜しいと思ったのは、ミステリー仕立てなのに、
フリオが失踪した理由が結局は有耶無耶。
(実は、政治的にスペインは弾圧とかもあったけど、
スペインから積極的には出ない道を選んだのでしょうね)
もうひとつ、これも非常に残念なのですが、
フリオ役のホセ・コロナドの容姿が冴えない。
女がほっとかない美男で、女が振り返る男・・・何でしょ!!
最初のフィルム「別れのまなざし」のどの人なのか?
わかんなかったもの。
ユダヤ人富豪を特殊メイクで演じてるのか?
とか、まさか冴えない「娘探し」を頼まれる中年男‼️
だとは思いもしなかった。
その位冴えない男です。
(ルッキズムだけど、俳優なら仕方ないのでは、)
最初と最後に「別れのまなざし」を持ってきた。
これは監督が一番に観せたかったんでしょうね。
ラストの映像には、ユダヤ人の富豪の娘が登場して、
かなりセンチな演技を見せるけれど、私的には好きなシーン。
チャオ・シュー(ベネシア・フランスコ)可愛かった。
「ミツバチのささやき」のアナ・トレントの出演。
ミゲルのギターと歌、
お留守番してる黒犬のカリ。
エンディングのヤヌスの二面像
(過去と未来をそれぞれ見てるとか、)
どれもなかなか。
政治色が皆無なのも、意図したことでしょうか?
映像での遺言状とでも言いましょうか、
そんな作品を残せるのも幸せにことですね。
その人その物を
特定するのは記憶である。 記憶がなくなり身体のみ残るのは骸に近い が、その骸もその骸の周辺が関与することで その人を定義づけ人間として確定される。 こう言う概念は西洋社会が培ってきた 管理社会の発想なのじゃないかなぁ? と思いつつみた。 人間と言う生き物は精神と肉体により成り立ち その精神と肉体を繋ぐ接着剤として記憶があるんだよな。 それを見事に表現した作品。鑑賞感謝
その人にとっての本当の幸せかどうか
自分を無くしたかった人にとっては、前の人生を忘れて生きてるってのは、幸せなのかもしれない。
周りから見て、記憶を取り戻してあげたい!って思うのは、周りの人間のほうが欲すること(思い出して欲しい)であり、
正気であった頃に色々苦しんでアル中になるほど苦しんでいた人が、またその頃のことを取り戻したらむしろ不幸なんじゃないか??って思った。
見つめることが、いくつものポイントで折り重なっているところや、映像美、
小道具的なものもすべて、美意識が現れていると感じた。
服も、キャンピングカーも、景色も、色も。
映画の中の映画の中に出てくる少女、父とのご対面の前に、自分のローブを脱がさせられるのに、父が亡くなった直後のところで、なんでつれが自分の上着をその子に着せたのかは不自然に感じてしまった。意味あったのかな。
主人公の友達の映写技師が性格も様子も含めて凄く良かった。
施設で働いていた女性も素敵だったし。
俳優の演技が凄く自然で、うまい。
スペインの街の風景も、この映画に合わせてしっとりした別世界のように映し出されていて、小箱の中の物語のようだった。
しんみりと、あとあと思うことある作品。
プロットは良いと思う・・・
1 エリセ久々の新作にして、ミステリアスな人間ドラマ。 2 映画製作途上で主演俳優が失踪し、未完のまま映画を撮ることをやめた元監督が主人公。 前段は、その監督が俳優の失踪の謎を取り上げたtv番組に関わる姿を描く。後段では、見 つかった俳優が記憶を失っており、記憶を取り戻そうと働きかける様が描かれる。クライ マックスは、彼が失踪するまで撮影された映画を見せる場面。 3 エリセの新作は、長編第1作目の ミツバチのささやきと同様、冒頭に映画の場面を持ってくる。ミツバチは移動映画が村で上映される場面。テンポ良く写される村人の表情、そしてさりげなく紹介される家族の姿。数ショットで主要人物の紹介と家族関係を表した。一方本作では、件の作中において、お屋敷の老当主が一人の女性の探索を依頼する場面。劇中の流れる空気がとても重い。煌めくショットもない。この暗い流れが前段を貫く。元俳優の行方がわかってから、焦点が彼の記憶回復に移る。そして、元監督は取って置きの方法を行う。それは・・・。ここら辺りのシーンは良かった。 4 世評が高かったエルスールは、本当は三時間の長尺でエルスはそのまま公開したかったがプロデューサーは許さず、後半部分をばっさり削ったらしい。本作も前段を刈り込むなど編集が頑張れば良かったのにと思う。
31年ぶり!
ビクトル・エリセ監督、31年ぶりの新作とあっては観ないわけにはいきません。「ミツバチのささやき」(73)のアナ・トレントの出演にも感慨深いものがありました。しかしながら、ストレートに腑に落ちる感じはなく、どこか遠い異国での手の届かない話のような印象を受けました。実は、初めて「ミツバチのささやき」や「エル・スール」(83)を観たときも捉えどころのない感触で、何度も観ているうちにかけがえのない世界観にすっかり魅了されてしまった経験があるので、今作も年数をかけて何度も観ないとその深淵に届かないのかなという感じがしています。
引き込まれた
映画監督のミケルが映画を撮影していた最中に、主演俳優フリオが突然失踪した。それから22年が過ぎたある日、かつての人気俳優失踪事件の謎を追うテレビ番組からミケルに出演依頼が来て、出演した。番組の放送終了後、フリオに似た男が海辺の施設にいるとの情報が番組に寄せられ、その情報を受けたミケルは施設を訪れ・・・さて、本人か?という話。 映画の中の映画が最初はよく分からず、真剣に観ていたら引き込まれて最後まで興味深く鑑賞できた。結論は出てないけど、記憶が戻ったと信じたい。面白かった。 「ミツバチのささやき」で当時5歳で主演を務めたアナ・トレントが50年経ってフリオの娘アナ役で出していだことに感激した。 それと、劇中劇で上海から連れて帰った富豪の娘役のベネシア・フランコが可愛かった。
それぞれの『 まなざし 』
作中映画『 別れのまなざし 』が、どうにも苦手でした。
海の近くで、愛犬カリと慎ましく暮らす元映画監督のミゲル( マノロ・ソロ )。粒らな瞳でミゲルを見つめるカリ、鼻を鳴らして甘える姿が愛らしい。
終盤の映画館でのシーンは、名作「 ニュー・シネマ・パラダイス 」へのオマージュでしょうか。
映画館での鑑賞
仏の田舎の海沿いの老人施設の様子。クリスチャン系の施設で修道女が働く。映画自体の内容はぼちぼち
一人の俳優が撮影中に失踪、20年後仏の田舎の老人施設で発見されるが、認知症が進み、娘の顔も分からず。当時の映画仲間が、自分が出ていた映画を見せて、思い出させようとする。
仏の海沿いの老人施設、食事も質素だが、立地も良く、シスター達は親切で良い。
映画について映画で考えた
失った時、人、夢を、光と闇と音楽と時間の芸術である映画で表現して描ききった巨匠の渾身の作品でした。 冒頭の劇中劇がシームレスに始まってシームレスに現在の現実に繋がるこの剛腕演出にもう感激してノックアウトでした。 名前には意味はないしいくつも持っている、私は海に繫がっている全ての国に行った、歳もいくつでもよく、娘がいたかもしれないしいなかったかもしれない、つまりフィクションの中の役柄を現実として捉えている登場人物の彼は映画の中に生きている。 それは幸せである意味で理想的だ。 果たしてそうだろうか、と現実の生活をしている主人公は探っていく。 その現実とフィクションの対比、シームレスに繋がる様子をしっかり3時間かけて至福のショットで描いていく。 最高の映画体験でした。 一点だけノイズだった点、劇中劇のラスト、中国から連れて来られた少女が大人男3人に囲まれて怯えながら雑に扱われるシーン、劇中でも二十年前の作品ということでというエクスキューズが入るとは思いますが、普通にこんなつらいこと少女にするなよと思ってしまいました。 どうしたって感動シーンにはならないよね。
映画の魔力
開幕から意表を突く導入であるが、実はこれがクライマックスの伏線になっていることに感嘆してしまった。 ミゲルの未完の映画「別れのまなざし」は、フリオ演じる主人公がある大富豪から娘の捜索を依頼されるという物語である。これが現実のドラマ。つまり、失踪したフリオを追いかけるミゲルの物語に、ひいてはフリオと娘アナの邂逅というドラマに転じていく。フィクションと現実を華麗にオーバーラップさせたクライマックスが見事である。 結末も観る人によって様々に解釈できる所が面白い。ある意味で、本作は「ニュー・シネマ・パラダイス」や「フェイブルマンズ」と同じ、映画についての映画という側面を持っている。安易にセンチメンタリズムに堕さなかった所は実に賢明で、それによってこの物語には不滅性が備わったように思う。 監督、脚本はヴィクトリ・エリセ。「10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス」等、オムニバスの競作はしているが、単独の監督作品となると「マルメロの陽光」以来、実に31年ぶりとなる。ここに至るまでに幾つかの企画があったらしいが、いずれも上手くいかず映画を撮れない時期が長く続いていた。そんな寡作なエリセの新作をこうして久しぶりに観ることが出来て嬉しく思う。 そして、こうしたシビアな事情を知ると、本作のミゲルが何となくエリセ自信に見えなくもない。映画を撮りたくても撮れない。そんな作家としての生みの苦しみが透けて見えてくる。 ちなみに、頓挫した企画の中には推理小説「死とコンパス」(未読)の映画化もあって驚いた。同原作はアレックス・コックスが1996年に「デス&コンパス」として映画化しており、いかにもコックスらしいパンクな仕上がりで中々にユニークな作品だった。まさかこれをエリセが映画化しようとしていたとは…。もし氏が撮っていたらどんな映画になっていただろう? 演出は「マルメロ~」同様、リアリズムに傾倒した作りが徹底されている。所々に目を見張るようなフォトジェニックなカットも登場し、改めて氏の端正な手腕に唸らされた。 ただし、中盤まではじっくりと腰を据えた演出が続くが、終盤はかなり展開が急で、ともすればご都合主義と思えなくもない場面が幾つかあった。映画全体を通してのバランスは余りよくないと感じた。 また、中盤でミゲルのバックストーリーが紹介されるが、これもフリオ捜索というサスペンスに水を差し、少々退屈に感じられた。ミゲルと息子の関係等、面白く見せる要素もあったが、活かしきれず残念。 細かなことを言えば、見事と評したクライマックスも、個人的にはミゲルとフリオとアナの3人だけのシーンにした方が、よりエモーショナルになったのではないかという気がした。 キャスト陣では、フリオの娘アナ役でアナ・トレントを久しぶりに見れて嬉しくなった。同監督作「ミツバチのささやき」の無垢な少女の印象が強いが、その面影を残しつつイイ感じの年の取り方をしている。劇中では「ミツバチのささやき」のオマージュと思しきシーンも出てきてクスリとさせられた。
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