ノルマル17歳。 わたしたちはADHDのレビュー・感想・評価
全9件を表示
同じADHDとして共感してしまった
ネット検索で偶然発見し、興味本位で観にいきました。ミニシアターで上映されている映画を観るのは初めてですが、同じ発達障害を持つ者としてすごく興味深い内容でした。
2人の女子高生、絃(いと)と朱里(じゅり)はADHDを持っており、物忘れが激しい等の特性によって普通の生活に馴染むことができませんでした。それぞれの家族からも理解してもらえず、生きづらさを感じながら苦しんでいました。
私も同じ経験をしたことがあるので、「確かに、彼女たちの気持ちわかるな…」と共感してしまいました。同じミスを繰り返しても、自分でどう解決したらいいのかわからないので、何度注意されても簡単に直せないのが発達障害の特徴です。そのため、ありのままの自分を受け入れ、周りからの理解を得ることが何よりも大切だと痛感しました。他にも、ある人物が言った「適当に生きなさい。」という台詞には、「素直に生きても大丈夫だよ」というメッセージが込められていて涙が止まらなかったです。
東京では吉祥寺しかやっていなかったですが、個人的に観てよかったと思える作品になっていました。発達障害を持つ人には是非観てほしいです!
『ありのままに』とか『世界に一つだけの花』がもてはやされるけれど、絃はともかく、朱里を受け入れる人は多くない。
ADHDと診断されている女子高校生二人が、家族やクラスメートの無理解に追い詰められ、街をさまよい、死にたくなってしまうが…という話。
日本発達障害ネットワーク(JDDnet)(発達障害関係の全国および地方の障害者団体や親の会、学会・研究会、職能団体などを含めた幅広いネットワーク)と
NPO法人えじそんくらぶ(ADHD当事者とその家族のための団体)
他が後援している。
だからなのか、ADHDを持つ方や、そんな特性を持つ方々と関わりのある方なら、あるある話が満載。朱里と絃の、ふて寝も含めた気持ちの揺れ動きや叫びもあるある。
ただ、映画はドラマチックには描かない。映画らしく、「死にたい」という言葉は出てきて、放浪もするが、命のギリギリの攻防はなく、未遂や行方不明になるなどの前に、朱里や絃を受け入れてくれる存在に気づく。数々のドラマ仕立ての映画を観ている身には、さらっとしていて、物足りなく思ってしまう。
関係者団体が後援についているだけに、フィクションで話を膨らませて、ドラマチックに盛り立てる事には抵抗があったのではないかなどと思ってしまう。実際には自死未遂をしている方や、居場所を求めて放浪徘徊している方など、傷ついている方はいらっしゃるのだが、すべてのADHDの特性を持つ方がそうなるわけでもないし、そこまで追い詰められている方のことを描いて、そのような気持ちを抱いている方の心に塩を塗る真似はしたくなかったのだろうと考える。そんな風に脚色をして、偏見を増長することを避けたのかもしれない。
そして、映画化に当たって難しいと思うのは、
ADHDの特性のかけらを1ミリも持っていない人は、この映画を観て、朱里の抱えている困難に共感できるのだろうか。チャラチャラして生きているだけのように見えてしまう。部屋も物であふれているが、かわいい色合いでまとめられ、こんな部屋に住みたいなどと思ってしまうくらい。
絃はまだ、夜中遅くまで勉強して寝過ごすのは、一般人でもあることなので、努力したのに残念だったねと共感してくれる人はいるだろうが。コミュ障ぶりは、絃の困った表情で表現しているので、絃の戸惑いは伝わってくるが、クラスメートの関わり方は、絃のせいと言うより、二人のいじめ?と思ってしまう。
『レインマン』のレイモンドや、『光とともに』の光君のような、見るからASDらしいというような特徴は、ADHDにはない。
発明王・エジソンはADHDだったのではないかと言われているが、ほとんどのADHDの特性を持つ方は、エジソンのような突拍子もない人生は送らない。
一見、”私”と同じように見えて、”私”と同じようなミスをする。違いは、改善が難しいこと。何度も繰り返してしまうから、何度注意されても直らないから、相手は馬鹿にされたと思い、関係がこじれる。ADHDの難しさはこういうところなのだろう。
かつ、この映画で不満なのは、ADHDの特性と、ADHDの特性を持つ方の苦しい気持ちを描くことが中心になってしまって、周りの家族・人々が悪者のように描かれていることだ。
致し方ないとはいえ、自分の物でない物を壊したのなら、まずはごめんなさいだろう。朱里の姉は自分でバイトして買った物など、何度も壊されている。怒って当然だと思う。朱里も大切にされていないが、姉も大切にされていない。
朱里の父が「学校行くの、面倒くさい」という言葉を聞いて怒る気持ちもわかる。こんなちゃらんぽらんで、将来どうなるのだと親なら心配になる。他人の子が学校さぼってもどうでもよいけれど、わが子なら口を出したくなる。
絃の母も「あなたならできる」と絃を追い詰めるが、これも将来を考えてのことでもある。”障害”と名のつく診断をもらった親にあるある。子の”障害”を認めたくなくて、あえて、”普通≒自分のたどってきた道”に戻そうとする親。子の”障害”を心配するあまり、せめて学歴をつけて、生活できるようにさせたいと頑張る親。
絃の父が、絃に助け舟を出そうと言葉をかけるのだが、まったく、絃に響いていないのもあるある。しかも、そのすれ違いに気が付かないで、良いことをした気になっているのもあるある。
朱里のクラスメートが、自分には許されていないスマホを始めとするあれこれに嫉妬して、ひどいことを言ってしまうのもあるある。クラスメートだっていろいろなことを我慢して頑張っているのに、朱里だけ特別扱いされたら、文句も言いたくなる。幸いにして、この映画では教員がなだめに入ったけれど、なんて言って生徒をなだめたのやら。
絃のクラスメートは、上記に書いたように見えるので割愛。絃と仲良くしたいのに、絃の言葉で傷ついてしまう様が描かれていたらよかったのに。でも、貸したものがちゃんと返却されなかったら、嫌味の一つも言いたくなる気持ちは判る。
どうして、絃や朱里の家族は、診断された時点で、ADHDの特性と、対処法を知ろうとしなかったのだろう。
医療機関で、ADHDの一般的な特性や、絃・朱里それぞれの”強み””苦手””どうしてもできないこと”とフォローの仕方の説明を受けなかったのかな。それを聞いていても、日々起こることに対処できずにすれ違ってしまう点や、受け入れられずに間違った方向に努力してしまう様子が描かれていたら、生きる上での困難さが共感できたと思うのに。
実際に、ADHDの特性を持つ方や、その家族・関係者で、レッテルを張られたままで、その特性について知ろうとしない方は多い。診断を受けただけでは何にもならないのだけれど。
ちょっと知ろうと思えば、解説は簡単に手に入る。ググれば、専門家や療育機関の解説を始め、当事者・ご家族の手記を読める。図書館や書店に行けば、イラストや4コマ漫画等を駆使した解説本も読める。どれを選んだらよいのかわからないくらいにたくさんある。
どれを選んだらよいかわからない、書いてあることと当事者の様子が似ているところもあるけれど、違うところもあり、どうしたらよいのかわからなければ、専門家の力を借りることだってできる。受診した医療機関で相談できなければ、子ども家庭支援センター、スクールカウンセラー、自治体の教育相談機関、各県にある発達障碍者支援センター等に聞けばよい。自分の対応のまずさを指摘されることが嫌なのだろう。だが、ADHDと出会うことが初めてなんだもの、初めからうまくいくわけがない。相談すれば、対応の仕方を一緒に考えてくれるはずだ。
例えば、
朱里の姉なら、朱里が言っていたように、自分の部屋で管理すればよい。目の前にあるから朱里は使ってしまうのだから。
朱里の母が間に入って、朱里を責めているが、それは悪化させるだけで意味がない。朱里の姉の悔しさに共感してあげれば、朱里の姉も自分が大切にされている実感を持てるだろう。自分が大切にされている実感が持てれば、朱里の特性を理解する余裕も生まれる。「なんで、自分ばっかり我慢しなきゃならないの?」こればまずい。朱里の姉が朱里の特性を理解しようとすれば、朱里にも余裕が生まれて、間違いを起こさない工夫を考える。「だって、結局責められるだけじゃん」こんな気持ちになったら、改善しようとする気さえ起きない。
朱里の父も、ADHDの特性の一つが、自分の気持ちを説明しにくいということと判っていたら、もう少し、冷静に話を聞けるようになるのではなかろうか。「めんどうくさい」は学校に行くことではなく、気持ちや理由を整理して言葉にすることが難しくて「めんどうくさい」になることが多い。自分の意思と関係なく、いろいろなことに気が散り、情報が頭に入ってきて混乱していて、朱里は適切な行動がとれないのだから、話をしながら整理してあげればいいのに。
絃の母は知的理解に優れているようだから、絃の困難を理解すれば、適切にサポートできるだろうに。教えてもらうことが、プライドを傷つけるのか?絃の幸せよりも大切な母のプライド…。すべてに完璧を目指していた母にとっては、絃の存在そのものが、完ぺきではない自身を証明するようで、母のプライドを傷つけるのか?それって…。
絃の父は絃の話をちゃんと聞けば、適切にサポートできるだろうに。相手の立場に立った聞き方ができないのだろうな。というか、相手の立場に立つこと自体ができないのだろうな。
朱里はスマホを使うことで、生活のサポートをしようとしていた。スマホはサポートのためのツール。サポートになる使い方と、サポートにならない使い方を、学校でレクチャーするべきなのではないか。それが理解できていて、各生徒が、スマホを含めた、自分のサポートを得られる方法を知っていれば、このような暴言はなくなるだろう。頭ごなしの禁止だけでは、不満が募るだけ。
絃の返却できない問題は、チェックシートで解決できるのではないか。毎朝チェックシートで確認作業をしているようだから。
他にも、生活実態にあった対処法はいくらでもあるだろうに。
とはいえ、家族が特性を理解しようとしない背景にあるのは障碍に対する偏見。そんなことが廻りに知られたら、認めてしまったら人生潰されるくらいの勢いでいらっしゃる方が多い。
そして、私自身も含めた教育観。
平成・令和と様々なもの・価値観が変わったのに、教育だけは昭和のまま。「努力すればできる」「努力しない奴は価値がない」
受験が刷り込んだ価値観。良い指導者に教えてもらい、少しでも偏差値・テストの点を上げる。それが人生の成功者。各塾のCMはやれば伸びるという幻想を与える。少なくとも、努力しなければ、伸びず、落伍者であるかのような。
人の価値観は偏差値だけでは無かろうに。『がばいばあちゃん』の主人公の強みは、偏差値では評価されない。
偏差値以外での、それぞれの子どもが持つその子らしさ。その子の良さ。”教育”の中では認められにくくなってきている。+αではあるけれど、まずは成績。
最後に、この映画のもう一つの不満。
朱里と絃の苦しい気持ちは判った。でも、朱里と絃の”素敵なところ”が今一つ見えてこない。困ったちゃんの中に隠れていた本来のらしさが、もっと見たかった。
映画には、二人が合う場所として、大きな木が何度も映し出される。
臨床心理学では、人の成長を木に例えることがある。この映画のその木は、伸びやかに、確かな枝を天に伸ばし、豊かな葉をつけている。朱里と絃が、こんな風に成長していくメタファーのように思えた。
また、個人的なことではあるが、『自分をまもる本』ストーンズ著 晶文社の挿絵に出てくる木に似ている。朱里と絃の守りにも見えた。
たくさんの想いが込められた映画。でも、伝えたいことが一般ピープルに本当に伝わったのかというと?となる。
でも、当事者がこの映画を観て、自分を少しでも認められるようになったら、それは価値あることだと思う。
(解説付き上映会にて鑑賞)
当事者を苦しめている存在である周囲の人々も、また苦しいわけで・・・
朱里と絃という、タイプは正反対ながら同じADHDという2人の主人公がともに奮闘する姿を通じて、発達という問題の特性からくる生きづらさの本質の片鱗みたいなものを体感できた作品でした。
2人と同じ苦しさを抱えながらそれを周囲に上手く伝えられずに、もどかしい思いで現実を生きているであろう多くの当事者たちにとっても、きっと救いになってくれる作品のように思いました。
ただひとつ気になったのは、主人公を取り巻く家族や友人たちの多くが、発達障害に対して無理解であるが故に主人公たちを苦しめている存在として描かれていたことです。
もちろんそれは事実そのとおりでしょう。ただ彼等だって、それぞれの立場なりの苦しさを抱えながら日々奮闘しているに違いなく、そんな彼等の苦しい思いにも、寄り添ってあげられればよかったかなと。
特に朱里の姉、愛里。
たしか脚本の神田凜さんの原体験が、愛里に近い立ち位置だったと仰っていましたっけ。
もしそうならそのせいかもしれませんが、ちょっと気の毒なくらい冷酷なキャラクターとして突き放した描写がされていました(そんな印象をもちました)。
でも愛里の境遇を思えば、愛里も責められないと思うんですよね。
もし、本編のエピソードを愛里の目線で描き直したらどんな映画になるのか、それもちょっと見てみたい気がしました。
障がいをもつ方がより生きやすい社会に変えていくためには、第一義的には健常者の側に必要な配慮をしていく責務があることにもちろん疑いの余地はないわけですが、それ以前に、障がいのあるなし関係なくみんなが“他者を慮る心”をもっていなければ、結局何もかもうまくいかないんだろうなと。
そういう心のゆとりをみんながもてる社会にしていかなければいけないんだなと。
自分にとって『ノルマル17歳。ーわたしたちはADHDー』は、そんなことを考えさせられた作品でした。
無意識に向けていたナイフに気付かされる
社会はほとんど無意識的に“普通”を押し付けていて、それが彼女たちには如何にナイフとして作用しているか、ということを痛感させられた。
また、そんな当事者が本音をさらけ出せる(それを言い訳だとか思わず、否定の言葉なく聴いてくれる)安全な存在が身近にあることがどれだけ大きいか、逆にないことがどれだけ致命的か、という点も考えさせられた。
家族が安全な存在になれればベストだと思うが、一方で家族側の積年の苦悩も垣間見えたり、また一方で家族には本人の長所の部分であったり本人が本人なりに頑張っている面が十分に見えていない様子も描かれており、家族の問題に押し込めてノータッチでいる無頓着な社会にも罪があるのでは・・・など、観終わってからも色々考えさせられている。
全体を通しては、当事者から見える景色はこんな感じなんだというのを窺い知れると同時に、自分も今ある社会もしょせんは“普通”サイドの視点からしか考えられていなかったのだなというのを思い知らされる作品だった。
身近にADHDの人を持つ人にこそお薦めかなと思う。
2人の突飛な出会いから始まるものの、朱里ちゃんの底抜けに明るく天真爛漫な感じの雰囲気がフックになって、観易かったです。
いい作品だけどもう少し問題提起をしないと
ADHD問題を考える上で色々考えさせられた。
結局は私達がどれだけ理解してあげられるかということ。
もっとこの問題をしっかり見つめていきたいきっかけとなった作品。
ただ、ADHD問題を考えるうえではいいけどちょっと問題提起に乏しい。
もう少し観た人に訴えかけ考えさせる内容にしてもよかったのでは。
これでは家庭崩壊がテーマに見えてしまった。
真鍋かおり、福澤朗、村野武範が出演していたのはびっくりしたが
老けたな。
観ておくべき映画です。
ADHD啓蒙インディーズ作品
単館上映なので、吉祥寺まで観に行ってきた
ADHDの女子高校生2人の出会いと友情、学校や両親との軋轢を描いた作品
インディーズ制作のためか、あまり全国展開もされておらず上映館数は増えていないけど、重たい内容を逃げたり誤魔化したりせず、丁寧に残酷な表現も入れつつ描いていて好感を持った。
主演の2人はオーディションから選んだ新人女優で、とくに違和感なく難しい役を演じてた。
カメラワークとして、2人で歩いている時は坂を下るけど、1人の時は坂を登るように撮影していて、なんか意味ありげと思ったり、公園の木はパンフレットやエンドロールにも出てきているが何のメタファーか最後まで分からず。
商店街を歩く2人のシーン、真面目な子(いと)ごしに明るい子(じゅり)を撮る時には被写界深度が深く、その逆の時は被写界深度が浅い
いとちゃんは世界をクリアに認識しているけど、じゅりはボヤけているのかなとか考えたら、面白い手法だった(偶然で勘違いかもしれないけど)
上映後の舞台挨拶は、特に内容や核心に触れるような発言もなく、主演の2人の仲の良さが分かるようなトークショーでした。
アナクロ向けADHD講座
ADHDをカミングアウトしているギャルなJKとカミングアウトしていない進学校に通う優等生JKの友情物語。
朝朝起きられたけど支度に集中し過ぎて遅刻した後ふけた朱里と、テストの日に寝坊して学校に行けずに戸惑う絃が、公園のベンチで知り合い一緒に行動し始まって行くストーリー。
ADHDだけではないけれど、お凡そクラスに1人ぐらいは発達障害を抱える人がいる訳で、その症状も程度も人それぞれ。
それを前時代な目でみたり接する人達と苦悩する主人公達をみせる展開で、良くいうみんな違ってみんな良いですね。
個人的にはその大前提には、それを言い訳にしたり甘えたりせずに自分なりに歩こうとしている人というのが大切だと思いますが。
まあ10代後半に差し掛かった現代っ子ですしね。
一応作中でも頑張ってまず!悩んでます!な主張はあったし、クビになっていないということは出席日数は足りているということなんだろうけれど、ジャストミートの発言通りの部分がちょっと強くみえてしまったり、10年20年前ならいざ知らず、親がそんな理解?とちょっとすんなりは入って来にくかった。
全9件を表示