あんのこと : 特集
脳の奥に“ダメージ”が貫通する慟哭の映画体験 虐待、
売春、ドラッグ。壮絶な生活から少女は光に向かい歩き
出す…「ふてほど」「サマーフィルム」河合優実の覚悟
の熱演 絶望の後に希望の光が包む重要かつ衝撃の実話
あなたは、映画を見ると、どんな感情になるだろうか。アクション映画でハラハラしたり、ラブストーリーで胸キュンしたり、ホラーでゾクッとしたり。多様な感情が生まれ、さまざまな記憶を呼び起こす――それが、映画の美しいところだ。
6月7日に公開される「あんのこと」は、映画.com編集部員である筆者にとって、忘れられない映画体験となった。脳の奥にとてつもない“ダメージ”が貫通する感覚……心が「忘れるな」と声を涸らして叫んでいるようで、いつまでも、その衝撃に揺さぶられていた。
本作は、入江悠監督と、カンヌ受賞作「PLAN 75」のスタッフがタッグを組み、実在の少女をモデルにした物語。虐待を受け、売春を繰り返し、ドラッグに溺れる……そんな壮絶な生活を強いられていた少女が、光に向かい歩き出す強い意志を描いている。
ドラマ「不適切にもほどがある!」や映画「サマーフィルムにのって」の若手実力派・河合優実が、覚悟の熱演で作り上げた、杏という少女。彼女の生き様を追いかけると、頭を抱えたくなるほどの圧倒的な絶望に晒されながらも、その奥に確かな希望が息づいていることを感じる。
この記事では、「絶望と希望が心を穿つ、唯一無二の鑑賞体験」となった本作の魅力をお届け。本作を観て、絶対に“あなた”にも知ってほしい、「あんのこと」を――。
まずは予告編を見て、杏が置かれた壮絶な境遇を“目撃”してから、記事を読み進めていただければと思う。
【衝撃①:脳と心に深い傷跡を残す強烈な実話映画】
だが希望も色濃く残る…「月」「新聞記者」級の渾身作
実際に鑑賞した筆者が、劇中であなたを待ち受ける“衝撃”を大きく3つに分けてご紹介。初っ端の衝撃①は、この強烈な物語が実話に基づいているということ……かつてない境地に達した鑑賞体験を振り返っていく。
●【観るとどうなるか?】感情がぐちゃぐちゃになり、どうしようもなく叫びたくなった… いつまでも抜け出せない、深い余韻が尾を引いた鑑賞後感あらすじやキャストの詳細などの重要情報をすっ飛ばして、とにかく、何よりも、「観てどう感じたのか」を、伝わるかどうかわからないが率直に伝えさせてほしい。
筆者は鑑賞しながら、杏とともに、些細なことで切り替わる絶望と希望の間を転げ回り、彼女の選択に涙が溢れ、そして何よりも彼女を身近に感じて、いてもたってもいられなくなった。さまざまな感情が同時多発的に生まれ、ぐちゃぐちゃになった。圧倒的な絶望と確かな希望――そんな両極端の要素に引き裂かれ、どうしようもなく叫びたくなる。
そして迎えた結末に、言葉を失う。いつまでも抜け出せない、深い余韻が尾を引いた。
●【さらなる驚きは…実話であること】全ての始まりは、1本の新聞記事 入江悠監督×「PLAN 75」スタッフが描く、“あなた”のそばで起きていた本当の話本作が実話ベースであることにも驚かされる。企画の始まりは、ある事件についての1本の新聞記事だった。「SR サイタマノラッパー」「ギャングース」など、社会の底辺で苦闘する人々を描いてきた入江悠監督は、その記事を見て、「自分が絶対に描かなければ」という使命感に駆られた。
入江監督は、モデルとなった少女に取材していた担当記者から話を聞き、脚本を執筆。「彼女の尊厳を守りながらも、生きようとする切実な意思に寄り添う」という覚悟を胸に、「自分に描く資格があるのか」と何度も葛藤しながら、河合も出演した話題作「PLAN 75」のスタッフとともに、自身初となる実話物に挑んだ。
実話をもとにした映画といえば、世間の話題をさらった衝撃作「月」「新聞記者」などのタイトルを思い浮かべる方もいるだろう。本作は、そうした作品群にもひけをとらない、製作陣が信念を貫いた渾身の作品だと、自信をもっておすすめできる。
【衝撃②:過酷な物語】虐待、売春、ドラッグ…女性の
地獄と再生、俳優陣の覚悟の熱演を映画館で観てほしい
前述した通り、いつまでも心から消えない、この鑑賞後感を支えているのは、杏の地獄と再生を描いた過酷な物語と、覚悟を決めた俳優陣の熱演だ。
●【信じがたい境遇】幼少期から繰り返された虐待。12歳、母親の紹介で強いられた売春。そして16歳で始めたドラッグに溺れ…冒頭からノンストップで畳みかけられるのは、杏が置かれた信じがたい境遇だ。虐待、売春、ドラッグ……わずか20歳の彼女の日常と化している地獄が、容赦なく描かれ、毎秒呼吸が止まりそうになる。以下に、杏の日常の一部を綴っていく。
・中学校には行っていない。ろくに教育を受けていないので、漢字をほとんど読めない。・お金がなかったので、万引きして生活をしていた。・売春を始めたのは12歳、母親の紹介だった。・クスリは16歳のときに、ガラの悪い男から勧められた。・母親は杏を「ママ」と呼び、暴行しながら「体売って金作ってこい」と命令する…。これは、あくまでも一部であり、劇中では観る者が心にダメージを負う描写が、まだまだある。しかし本作は、壮絶な境遇を描くだけには留まらない。映画で描かれる“スタート地点”からは想像がつかないかもしれないが、杏は人々の手助けを受け、更生の道を辿っていくのだ。「ここから抜け出したい」「新しい自分になりたい」という彼女の覚悟は、そんな背景を吹き飛ばすほど、さらに、さらに、凄まじかった。
入江監督は、「確かに彼女の人生は過酷といえます」「と同時に、彼女にも楽しく豊かな時間はあったにちがいない。そう考えたとき、彼女の人生と並走し、その体温を身近に感じてみたくなったんです」と語っている。
その言葉通り、入江監督は、目を奪われがちな杏の人生の苛烈さだけではなく、彼女の見ていた美しい世界や生き生きとした時間を、ドキュメンタリーのような質感で描出。ひとりの少女の実像と真摯に向き合う眼差し、リアリティ溢れる描写が、「自分のすぐそばで起きていてもおかしくない話」として、観客を物語に、どこまでも深く没入させる。
彼女はいかにして、この過酷な生活から抜け出すのか。その軌跡を、あなた自身の目で、しっかりと見届けてほしい。
●【凄まじい俳優陣】河合優実×佐藤二朗×稲垣吾郎、そして編集部推しの河井青葉 見る者を慟哭させる、頭にこびりつく圧巻の芝居そして何といっても、本作を“傑作”たらしめているのは、河合優実、佐藤二朗、稲垣吾郎の凄まじい演技と存在感だ。筆者が個人的に強く推したい河井青葉の“狂演”も見逃せない。どんなキャラで、どんな演技なのか? 是非映画館で、たっぷりと浴びることをおすすめする。
地獄からの再生。現状から抜け出したいと願うが…
機能不全の家庭に生まれ、虐待の末に売春を強いられ、ドラッグに溺れる少女。そんな現状から抜け出したいと願うが、さらなる厳しい現実が行く手を阻む。絶望と希望の間を行き来し、別人のように変わっていく杏の表情や眼差し。モデルとなった女性について、「彼女の人生を、自分が生き直す」という覚悟で息吹を吹き込んだ河合優実の熱演に、完全に心をもっていかれる。
杏を闇から引きずり出し、救いの手を差し伸べるが、その裏で…
杏に救いの手を差し伸べ、自らが主宰する薬物更生者の自助グループへと誘うベテラン刑事。杏にとっては拠り所のような存在となるが、その信頼関係が揺らぐ、ある秘密を抱えている。人懐っこく親しみやすいが、どこか得体の知れない闇を抱えた男。コミカルな印象が強い佐藤二朗が、人間の持つ複雑さ、底知れなさ、矛盾を凝縮したような人物を、絶妙なバランスで演じ上げた。
杏と多々羅をあたたかく見守るが、ある思惑を抱え…
多々羅が主宰し、杏が身を寄せる自助グループを取材する記者。ふたりをあたたかく見守り、3人は友情のような絆で結ばれていくが、実は多々羅の秘密を暴くという思惑を胸に秘めている。稲垣吾郎がその佇まいで、観客が感情移入できる観察者としての役割を担い、友情と自らの正義の狭間での“揺れ”や、それゆえの居心地の悪さをにじませる。
虐待し、売春を強いるが、杏に依存しきっており…
幼少期から杏を日常的に虐待し、売春を強いる母親。自らの“客”を家に連れ込むこともしばしば。一方で、杏を「ママ」と呼ぶなど、親子は異様な依存関係にある。河井青葉が、杏をとことん追いつめ、疲弊させていく春海役を、憑依状態のような激しさで体現。観客が同情する余地を全く与えず、どこまでも憎しみを増幅させる“猛毒演技”に息をのむだろう。
【衝撃③:あなたは誰が悪いと思いますか?】倫理観を
揺さぶるテーマ。極限の問いに、考え、答えてほしい…
映画が終わっても、その世界から抜け出せない――映画好きな方なら、こうした鑑賞後感には、覚えがあるのではないだろうか。没入感抜群の世界観、圧倒的な映像や音--映画から抜け出せなくなる理由は、さまざまだ。
本作の場合は、杏を通して観客に突きつける、答えの出ない痛烈な問いかけが、いつまでも筆者の頭を支配していた。最後に、本作が内包する倫理観を揺さぶるテーマについて、ここに綴っていく。
●どうする? 何ができる? 自問自答と気付きを得る稀有な114分上述のキャラクター紹介でも分かる通り、どの登場人物も二面性を抱えている。それが杏を取り巻く環境をより複雑にし、彼女の光へ向かう道を困難にし、同時に鑑賞体験自体にも複雑な妙味を付与している。
杏のたどる運命は、一体誰がもたらしたのか? どうにかすることはできなかったのか? 自分が杏のそばにいたとして、彼女に何ができるだろうか……。とてつもなくリアルな杏の存在感に、当事者意識が膨らみ、無力感がこみ上げてくる。いくつもの自問自答を繰り返すなかで、自分の倫理観が崩れていく音が、耳元でごうごうと鳴った。
そして不意に思い当たる――自分は、杏に手を差し伸べられなかったどころか、そんな少女がいたことを「知らなかった」。多々羅、桐野、春海だけではない。彼女をあんなに過酷で凄まじい境遇に追いつめたのは、ほかでもない社会の無関心ではないか、と――。
●観る前と観た後の自分は、全くの別人だ――価値観をがらりと変えられる映画体験鑑賞から時間がたったいまだからこそ、分かる。本作を観る前と観た後、「あんのこと」を知る前と知った後の自分は、全くの別人だと感じるほど衝撃を受け、価値観をがらりと変えられた。
鑑賞直後は呼吸が乱れるほど苦しくなった、けれど日常に戻っても、彼女のことを考えずにはいられない――そんな稀有な鑑賞体験となったのだ。あなたにも、この究極の114分を潜り抜けて、極限の問いを前に、ひたすら考え続けてほしい。
●「あんのこと」を知らなかった“あなた”へ 今こそ映画館で彼女を“知るべき時”が来たこの記事をここまで読んでくれたあなたへ、最後にこれだけは伝えたい。「あんのこと」を知らなかったあなたにこそ、是非映画館で、彼女の物語を知ってほしい。無関心の領域から抜け出すだけで、自分の、そしてまだ見ぬ誰かの世界が変わるのだから――。