あんのことのレビュー・感想・評価
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人には勧められないけど…
映画からサブスク配信早すぎません!?
映画館で見ようと思ってたけど遠すぎて諦めてたらアマプラで配信始まった…
でも、映画館でみなくてよかった!
これを大画面で観てしまったら3日は引きずりそう。
杏ちゃんがいい子すぎるが故に余計辛い。そしてラストは…
自分は新型ウイルスの影響で生活が一変することはなかったので、ニュースなどでウイルスによって生活に影響が出た方の話を聞いてもピンとこなかったのですが、この映画をみてこういうことか…と何となくですが理解が深まりました。
大人も子供も孤独には耐えられないと思いますが、やっぱ大人がちゃんとしなきゃですよね。
この映画を観て、内容を誰と語り合っても結局は他人事なのかなとちょっと寂しくなりました。
運良く虐待もされてないし危ないお薬とも縁のない人生でしたので…
まわりでヘルプを上げてる人や困った人がいたら、正しい方法で助けてあげたいと強く思います。
運命論と言われようが…
この映画は良い環境に生まれ自分の力で自立したと勘違いしている自分含めお花畑の人達に現実を思いっきり叩きつけてくれます…人生は決定論だと思っていたい自分に恵まれていたことをまざまざとこの映画は教えてくれます。様々な感情の交錯でぐちゃぐちゃになります、凄い映画に出会えて良かったです。最期までどうしようもない運命の中で必死で行動し運命を乗り越えようとする1人の健気な女の子に甘ったれた自分に喝を入れて貰えました。キャストの皆さんの熱演、スタッフの皆さんの凄まじい情熱を感じた映画でした。
人生で一番観るべき映画が更新されました、これは孫の代まで見て欲しいリアルが詰まっています、絶対皆さんに見て欲しいです。
この世はクソでした
海外映画やドラマで若者を引き合いに出すと定型文のように酒、セックス、ドラッグが既定路線のていで脳ミソを変換しないとついていけないのに対し、日本映画でやるなら絶対にこうでなくてはと思う。
まあ映画というか実話なのだからしょうがない。
フィクションでここまで描かないとわからない隣の世界が日本にはある、日本人にはあると言うべきか。
邦画に求めてる空気はこういう空気なので個人的には満足。
持論ですが邦画はこうなり洋画はああいうものばかりになるのは現実世界と逆のものを求めやすいからかなと思う。スーパーヒーローが必要な地獄じゃないんですよ、日本て。
それぞれに地獄はあるんですが、遠ざけられるんですよね、知りたくない事実を無意識に避けてる。関わりたくない、誰もが。私もそう。
主演はあの年代でもはや彼女以外誰にできただろうか、河合優実と同じ世代の人達は大変だろうなと思う。
佐藤二朗演じる多々羅とあんの距離感は見る人には異常に見えるかもしれない。演技と空気で映画にパッケージしたから映えて見えるが…そこがどう見えたかで評価はわかれるかもしれない。
彼女1人がこの世の歪の被害者ではないし、
誰か一人がこの歪の加害者でもない。
自分はどう生きてきたのか、どう生きたらいいのか、見て見ぬふりだけ上手くなって、なにも感じなくなってしまったら…そういう人に確かめてもらいたい、この映画がどうだったか。
苦しい。心が痛い・・それでも、「あんのこと」を知って欲しい
まず、ベースが実話であることを踏まえれば、エンディングの展開に非難は出来ません。
救いがない?いえ、この作品の中では沢山ありました。
あの毒親ですら、彼女は憎むことも排除することも出来ませんでした。押し付けられた幼子も、放っておけず母親のように面倒を見ます。彼女のひととしての(ある意味当然であるべきの)やさしさが、この作品での最大の救いの要素が、結果として彼女を追いつめてしまったのだと思います。
ただ、鑑賞後思うのは
物語の中で、彼女一人を救っても、世の中で実際に苦しみ、救いを求める声には何ひとつ役に立たないということです。
観客に出来ることは知ることと考えることだけです。
河合優実さんの渾身の演技には物語のほころびさえツッコム隙を与えてくれません。
とても苦しい。心が痛い。
でも、見て欲しい。・・ひとりでも多くの人に知って欲しい。
この日本のどこかで必死に生きていた「あんのこと」を。
逃げ場のない絶望
人が生きる力でありたい
けなげな杏
もしも杏が、“いい子”じゃなかったら、同情できた?
心の深くに響く映画を観ると、ついSNSやらレビューサイトで他人の感想を読み耽ってしまう。ふた昔前だったら映画ファンや、それこそ入江悠ファンの集まりに参加して熱く感想を語り合っていただろうけど、コロナを境にそういう集まりからも離れてしまった。だからSNSやらレビューサイトで感想を読み耽った。
河合優実や佐藤二朗の演技に対する評価やファン票を別にして大雑把に分類すると、
①主人公の杏が可哀想でしんどい
②毒親がクソ
③こういう人たちの存在に対する社会の無関心を反省する
みたいな感想が多かったような印象だった。
それらに対し自分はどうか、それ以前に自分がこの作品に対してどう感じたか。
この映画の感想を考えることは、実在した誰かの死をエンタメとして消費していることになるのかどうか?みたいな野暮な自問はまず除外。だから安直に杏の境遇に同情し政治や社会に義憤を募らせているような感想にいちいち偽善だ善人アピールだとイライラしたりもしない。
僕は主人公の杏を通してこの映画を思い出すと、実はけっこう幸せな話として楽しめたような気がする。不本意な生き方に決別する機会があり、自分を縛る家族から脱出し、自分がやりたい仕事に就いて、自分の住む場所を持ち、支えてくれたり理解してくれたり褒めてくれる人もいる。疑似ではあるけど自分の家族を持ち、愛というものも感じることができた。なによりこの杏という主人公は、最後まで“真人間”でいられた。
ただ、その最後だけが、確かに悲しい。『ミスト』という映画のラストのように、せめてもう少し、霧が晴れるまで思いとどまってくれていたならと切ない。でもその最後をもって、彼女の人生は悲惨で不幸だったか?というと、僕にはそう思えない。元ネタになった実在の人物がどんな人だったのかは知らないけれど、少なくともこの映画の主人公である杏は、“いい子”だった。だから刑事も記者も介護施設経営者もその入居老人も、たぶんあの子供も、そしてこの映画の観客も、杏の味方だった。だから霧が晴れるまで待つことができていたら、杏はどちらかといえば本当は“大丈夫な方の人”だったよなと、僕は思った。
じゃあこの映画の中、悲惨で不幸で、大丈夫じゃなかった方の人は誰だったかと考えると、その中心は、杏の母親の人だったんじゃないかなと思う。あの母親の“クズさ”も、作劇用にデフォルメされたものなのかもしれないけど、杏の“いい子さ”と比べてどちらがリアルかと聞かれれば、僕は“クズさ”の方にリアリティを感じる。じゃあ、もし、主人公の杏がこういうクズさを持った人物像だったら?もしこの映画の主人公が、このクズな母親だったら?僕は格差社会や貧困やコロナ禍を描いた作品として、痛みや悼みを感じることはできただろうか?
ただ杏が“いい子”だったから、可哀想だと感情が動いただけではないか?
意地悪く根性曲がっていた母親が、何らかの報いを受けることを望んでいなかったか?
僕らは近年の度重なる災禍の中、善き人であろうと気を遣い続けてきた。
自分が善き人であることを、悪しき人を憎むことで確認しようとしてきた。
この映画の中で、たぶん杏は善き人で、たぶん毒母は悪しき人である。
この映画を見て、杏に救済あれと、毒母に制裁あれと感じたのだとしたら、
結局は善き人という同胞を守り、悪しき人という異端者を排斥しているっていうだけの「人柄差別主義者」が格差社会や分断社会を憂えてるっていうことにならないか?
あの毒母をどうにか救いたいと思えるかどうか。
あの毒母を救えることができたなら、そもそも杏はあんなことにならなかったのではないか。
弱者救済に思いを馳せる時、その弱者が「善き人か悪しき人か」で選別することってアリなのかナシなのか。
そういう想像力が試された作品だったなと思う。
この作品の語り口に、入江悠の主張はあまり感じなかった。
「こういう話があるんだけど、あんたどう思う?」
そういう静かな問いかけが、問われた人の率直な思いを顕にさせる。
まぁ、いわゆる胸糞作品です
不幸の連鎖
まず売春と薬物常習者である杏(河合優実)が描写される。底辺な生活環境と、母の春海(河井青葉)の毒親ぶりも併せて描かれる。
個人的に日本映画の壮絶人生描写には、はいはい悲惨ですね──という印象しかおぼえない。日本映画の、なんか衝撃を与えようとしてくるところが嫌だわ。
不幸な状況ほど淡々と描くべきだと思うが日本映画が100あると99は不幸盛り描写をしてくる。
この人物が不幸であることを否定するつもりはない。ただし不幸はたんたんと描かないと、凡百の日本映画に埋もれますよ。と言いたい。
が、本作はそれ以外のところは良かった。
刑事の多々羅(佐藤二朗)とジャーナリストの桐野(稲垣吾郎)と杏が、いっしょにラーメン屋やカラオケへ行って、束の間の楽しい時間を過ごすシーンがある。
そんな時の、杏の嬉しさの表しかたが、幼い頃から長期間に渡って、嬉しいことがあっても、それを毒親によって即座に粉砕されてきた人のそれだった。幸福な気分がすぐに粉砕されることが分かっている人は遠慮がちになって、はにかんでいるような嬉しがりかたをする。その儚さ(はかなさ)を表現した河合優実が巧くて切なくなった。
介護施設長の上間(盛隆二)が『あなたとお母さんは別々の人間だ、あなたが母親の問題を背負う必要はない、あなたはあなたが一番やりたいと思うことをやりなさい』と言ったのが、毒親の支配下で生きてきた杏の支えとなる。
人は「親がじぶんを大切に思ってくれているものだ」という錯覚をもっていると思う。もちろん、たいていの親が子を大切に思っているのは事実だが、じっさいのところ両者は他人どうしだ。血が繋がっていることで「絆」のようなものがあると思ってしまうことで子は苦しむ。
なぜなら親がわが子を好きになれない──なんてことはよくあることだから。それはわたしやあなたが誰かを好きだったり嫌いだったりするのと同じことだ。好きになれない親に従属した時、子は虐げられているのに逃げられない負の絆に囚われてしまう。それはとりわけ珍しい現象だとは思わない。
『この映画の原案は、2020年6月に朝日新聞で報じられた1人の女性の新聞記事である。記事によれば、その女性は幼少期からの虐待や薬物依存を乗り越え、夢であった介護福祉士になることができ、夜間中学で学ぶはずだったが、コロナ禍で前途を阻まれ、2020年春に自死したとあった。』
(ウィキペディア「あんのこと」より)
映画はまさに弱り目に祟り目という感じ、杏の人生に希望の光が見えたところで新型コロナウィルスがはじまる。
起と結にある基調イメージは杏が人気のない茫漠たる街を歩いているところで、それはちょうどパンデミックの初めの頃に「これは神がわたしに死ねと言っているのかもしれない」と悲嘆した気分を表していたと思う。だから映画のキャッチコピーの「彼女は、きっと、あなたのそばにいた」には共感した。
準主役の多々羅は悪い奴だが、話では両義性をもたせていた。
主宰する薬物更正施設の女たちを救済するふりをしながら食っていたわけだから二元論のヤフコメなら炎上まちがいなしの悪党だが佐藤二朗が演じているせいで多々羅のキャラクターにはなんとなくかわいげがあった。
ところで佐藤二朗はなんで演技賞とれないのかな。国内の映画賞なんて箔以外の価値はないが、コミカル路線だから賞対象にならないというのならそれが日本映画界の限界。佐藤二朗の監督業はひどいと思うが「さがす」もこれも演技には迫力と人間臭さがあった。(ただしつばを吐く癖は思いっきり不釣り合いだった。)
この映画はいやおうなしに新型コロナウィルス禍下のことを振り返らせた。
今、あれを振り返ると不思議な気分がこみあげてくる。
なくなった人もいるし、わたしも平穏な日常をうしなったから、決して大げさだったわけじゃない。だが振り返ってみるとあれはなんだったんだろうな、というアンチクライマックス(拍子抜けするような脱力)な気分しかない。
映画は救われない結末だが後味は悪くない。理知的な雰囲気の稲垣吾郎がそのバランスに貢献していたと思う。
つらかった
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