「今年一の胸糞作品」あんのこと うぃるさんの映画レビュー(感想・評価)
今年一の胸糞作品
あんが自殺する前にノートを破り捨てた行動について、彼女が「自分の生き様を誰かに伝えたかった」という視点で考えたいと思います。
あんは幼い頃から、親に体を売ることを強制され、家にはおばあちゃんがいるため、彼女が家計を支える責任を一身に背負っていました。どんなに辛くても、家族のためにお金を稼がなければならなかったのです。母親の暴言や暴力に耐えながらも、あんは逃げることができませんでした。おばあちゃんを見捨てることができなかったからです。このような状況に押しつぶされるようにして、彼女は自分の未来や夢を犠牲にしながら生き続けなければならなかったのです。
時が経ち、彼女にとって頼りにしていた大人、つまり多々良が逮捕され、その原因となった記事を書いた桐野も頼ることができなくなりました。あんにとって、彼らは自分の苦しみや孤独に共感してくれる数少ない存在であり、彼らがいなくなったことで、あんの精神的な支えは完全に崩れてしまいました。さらに、コロナ禍という厳しい現実が彼女を追い詰め、仕事も勉学にも集中できなくなり、あんは全てを失ったように感じていたのでしょう。
そんな中、あんはサラから隼人を預かることになります。私はサラが同じ自立支援のためのマンションの住人だったと考えます。サラが持っていた荷物が少なかったことから、一時的な預け先としてあんを選んだ可能性が高いですが、私はサラがあんの自殺の一因であったと感じています。サラがどれだけ厳しい状況に置かれていたとしても、彼女にはその行動があんに与える影響をもっと考慮すべきだったのではないでしょうか。自覚の欠如があんをさらに追い詰めたように思います。
しかし、隼人を預かることであんは、一時的ながらも「誰かのために生きる」ことができました。隼人との時間は、彼女にとって逃れられない現実から少しでも解放される瞬間だったのかもしれません。彼と過ごすことで芽生えた責任感や愛情は、彼女に自分の存在意義を再確認させました。それは今まで、彼女が誰にも認められず、否定され続けてきた彼女自身の価値を少しでも感じ取る機会になったのかもしれません。
そして、あんがノートを破り捨てた行動。この行動は彼女の絶望の中にある強烈な願望を象徴しています。あんは自分の苦しみや葛藤、そして誰かに理解してほしいという強い思いを、最後に誰かに伝えたかったのでしょう。ノートを破るという行動は、単に記録を残すこと以上の意味を持っていたのだと思います。彼女は自分が育てた隼人に対しての愛情とともに、自分自身が生きてきた証、つまり「ここにいた」という存在の証を残そうとしたのです。
ノートには、ハヤトの苦手なことやアレルギーのことが書かれていたかもしれませんが、それ以上に、それは彼女の心の叫びだったのです。あんは「私は誰かのために、何かのために生きてきた」ということを証明したかった。そして、その証を誰かに伝えたいという切実な願いがあったのでしょう。ノートを破る行動は、あんが自らの内面と向き合い、誰にも見えない孤独や絶望の中で自分の存在価値を認めてもらいたいという最後の叫びだったのではないかと思います。
彼女の破られたノートは、ただの紙ではなく、彼女の人生そのものを表していたのかもしれません。これまで誰にも理解されなかった彼女の存在や、愛情、苦しみ、そして葛藤を、どうにかして誰かに伝えたいという深い思いがそこに込められていたのだと感じます。