「もしも杏が、“いい子”じゃなかったら、同情できた?」あんのこと ウシダトモユキ(無人島キネマ)さんの映画レビュー(感想・評価)
もしも杏が、“いい子”じゃなかったら、同情できた?
心の深くに響く映画を観ると、ついSNSやらレビューサイトで他人の感想を読み耽ってしまう。ふた昔前だったら映画ファンや、それこそ入江悠ファンの集まりに参加して熱く感想を語り合っていただろうけど、コロナを境にそういう集まりからも離れてしまった。だからSNSやらレビューサイトで感想を読み耽った。
河合優実や佐藤二朗の演技に対する評価やファン票を別にして大雑把に分類すると、
①主人公の杏が可哀想でしんどい
②毒親がクソ
③こういう人たちの存在に対する社会の無関心を反省する
みたいな感想が多かったような印象だった。
それらに対し自分はどうか、それ以前に自分がこの作品に対してどう感じたか。
この映画の感想を考えることは、実在した誰かの死をエンタメとして消費していることになるのかどうか?みたいな野暮な自問はまず除外。だから安直に杏の境遇に同情し政治や社会に義憤を募らせているような感想にいちいち偽善だ善人アピールだとイライラしたりもしない。
僕は主人公の杏を通してこの映画を思い出すと、実はけっこう幸せな話として楽しめたような気がする。不本意な生き方に決別する機会があり、自分を縛る家族から脱出し、自分がやりたい仕事に就いて、自分の住む場所を持ち、支えてくれたり理解してくれたり褒めてくれる人もいる。疑似ではあるけど自分の家族を持ち、愛というものも感じることができた。なによりこの杏という主人公は、最後まで“真人間”でいられた。
ただ、その最後だけが、確かに悲しい。『ミスト』という映画のラストのように、せめてもう少し、霧が晴れるまで思いとどまってくれていたならと切ない。でもその最後をもって、彼女の人生は悲惨で不幸だったか?というと、僕にはそう思えない。元ネタになった実在の人物がどんな人だったのかは知らないけれど、少なくともこの映画の主人公である杏は、“いい子”だった。だから刑事も記者も介護施設経営者もその入居老人も、たぶんあの子供も、そしてこの映画の観客も、杏の味方だった。だから霧が晴れるまで待つことができていたら、杏はどちらかといえば本当は“大丈夫な方の人”だったよなと、僕は思った。
じゃあこの映画の中、悲惨で不幸で、大丈夫じゃなかった方の人は誰だったかと考えると、その中心は、杏の母親の人だったんじゃないかなと思う。あの母親の“クズさ”も、作劇用にデフォルメされたものなのかもしれないけど、杏の“いい子さ”と比べてどちらがリアルかと聞かれれば、僕は“クズさ”の方にリアリティを感じる。じゃあ、もし、主人公の杏がこういうクズさを持った人物像だったら?もしこの映画の主人公が、このクズな母親だったら?僕は格差社会や貧困やコロナ禍を描いた作品として、痛みや悼みを感じることはできただろうか?
ただ杏が“いい子”だったから、可哀想だと感情が動いただけではないか?
意地悪く根性曲がっていた母親が、何らかの報いを受けることを望んでいなかったか?
僕らは近年の度重なる災禍の中、善き人であろうと気を遣い続けてきた。
自分が善き人であることを、悪しき人を憎むことで確認しようとしてきた。
この映画の中で、たぶん杏は善き人で、たぶん毒母は悪しき人である。
この映画を見て、杏に救済あれと、毒母に制裁あれと感じたのだとしたら、
結局は善き人という同胞を守り、悪しき人という異端者を排斥しているっていうだけの「人柄差別主義者」が格差社会や分断社会を憂えてるっていうことにならないか?
あの毒母をどうにか救いたいと思えるかどうか。
あの毒母を救えることができたなら、そもそも杏はあんなことにならなかったのではないか。
弱者救済に思いを馳せる時、その弱者が「善き人か悪しき人か」で選別することってアリなのかナシなのか。
そういう想像力が試された作品だったなと思う。
この作品の語り口に、入江悠の主張はあまり感じなかった。
「こういう話があるんだけど、あんたどう思う?」
そういう静かな問いかけが、問われた人の率直な思いを顕にさせる。