「風化させない、とはどういうことか。」水平線 あんちゃんさんの映画レビュー(感想・評価)
風化させない、とはどういうことか。
小林且弥監督とピエール瀧がこの映画を語ったインタビューを少し前に読んだことがあって。楽しみにしていたんだけどわが町ではなかなか上映されずやっと観ることができた。
インタビューのなかでどちらかが「被災者の声を直接聞かなきゃと張り切って福島のロケ地に行ったんだけどごく普通の日常が流れていた」って話していてそれは当たり前のことなんだけどこの映画の本質はそのへんにあるのではと思った。
映画の最初の方、父と娘の生活が淡々と描かれる。この父娘は人は良いのだけど不器用で互いにコミュニケーションを取るのがあまり上手くない。それだけに震災で行方不明になっている妻であり母である人の存在の大きさが、2人の悲しみの深さもチラチラとみえてくる。(余談ながら、真吾がスナックで大酒飲んで深更帰宅し台所で娘の作ったおかず、恐らくは魚の煮付け、をチョイチョイつまむところ、新人監督ながら日本の映画監督はこういうところやはり上手いですね)
ところが、彼らの静かな生活というか、穏やかな歩みは、無差別殺人の死刑犯の散骨を真吾が引き受けたことにより一変する。これがこの映画の脚本の最大の瑕疵であって、ジャーナリストと称する江田という男の主張は無茶苦茶である。死刑犯に人並みの葬式を出すことには被害者家族は抵抗を示すかもしれないが物理的な遺骨処理にあれほど口を出すとは思えず、まして福島沖への散骨が震災被害者への冒涜であるとの主張は明らかに詭弁であって、ちょっとありえない話になってしまっている。
ただ江田が最後に述べた「震災の風化を避けるために被災者を代弁して主張している」という発言の意味は重い。被災者たちの悲しみや苦しみは10年や20年では薄まらない。表面上は普通に暮らし、新たな歩み、前進をしているようにみえても映画の真吾と奈生のように心の底にマグマのように思いは秘められているのである。風化するのはジャーナリズムの質や量、しいては当事者以外の人間の関心の高さのほうである。さらに風化させないといいながら被災者はこうあるべきであるという決めつけ、勝手なイメージを被災者に押し付けていないか。(そしてイメージと違う場合は風化が始まったと嘆いてみせる)
いろいろ考えさせられる作品であった。ピエール瀧、さすがの好演である。あの細やかな感情が分厚く肉を被っているような感じ、彼にしか出せないところがありますね。